うちにはお父さんがいない。
 でも最初からいなかったかと言われるとそうではない。正確には、三年前まではいた。
 私のお父さんは工事現場で建設作業をする仕事をしていた。筋肉質で、背が高くて体格もよかった。日焼けしているせいで唇の間から覗く歯が、やけに白く見えたのを覚えている。
 お父さんは、私が小さい頃はよく肩車をしてくれた。「お父さん力持ちだね」と私が褒めると、お父さんは「そうだろう」と嬉しそうに笑った。「お母さんのことだって抱っこできるんだぞ」と、私の目の前でお母さんをお姫様抱っこしてみせたことだってある。お母さんは「ちょっと、この子の前でやめてよ」と言いつつもすごく嬉しそうに笑っていた。あのころは、ごく普通の幸せな家庭だった。
 だけど、三年前。私が中学一年生だった夏に悲劇は起こった。あの日は、うだるような暑さの日だった。
「月宮さん、お父さんが病院に運ばれたらしいの」
 給食の時間に先生が血相を変えて教室にやってきてそう言ったとき、私は言葉を失った。わけもわからず、帰り支度をするように言われ、そのままお母さんが学校へ迎えに来てくれて、その足ですぐに病院へ向かった。けれど、私たちが救急病棟へたどり着いた時には、手遅れだった。
 ベッドの上でたくさんの管につながれたお父さんは、すでに息を引き取っていた。
 外で建設作業をしていたお父さんは、休憩と水分補給をきちんととっていなかったようだった。トイレに行ったまま戻らず、同僚が見にいくと、そこで倒れていたのだという。いつから倒れていたのかはわからない。仕事場の人が慌てて救急車を呼んだものの、お父さんは重度の脱水症状を起こしていて、病院に搬送された時には呼吸もだいぶ薄かったそうだ。
 あまりに唐突な別れだった。葬儀が終わっても、告別式が終わっても、四十九日が過ぎても、お母さんは泣いてばかりいた。私もショックで、一か月で四キロやせた。
 その翌年からだ。お母さんが夏になると少しおかしくなってしまうようになったのは。
 夫が亡くなったことを思い出してしまうのか、お母さんは肌が汗ばむ季節になると過剰に熱中症のことを心配した。通学だって、夏の間は毎日2Lの重たい水筒と、日傘をもっていかないと行かせてもらえない。夏休みのときは特にひどくて、「学校がないんだから、家で大人しくしてなさい。熱中症で倒れたらどうするの」と言って、私はいっさい外に出してもらえない。せっかくの休みなのに、家に軟禁される夏休みが、もう数年連続で続いている。
 正直、少し重荷に感じてしまう。
 でも、もう仕方のないことなのだ。きっと、お父さんがいなくなってしまったことがお母さんにとってはよほどショックだったのだ。
 私が夏の間だけ、おかしくなったお母さんとうまくつきあうようにすればいいだけ。たとえ、どれだけこの生活に息苦しさを覚えたとしても。