「今日はありがとうございました」
 家の前まで送り届けてもらい、車から降りると、私は運転席の深見さんに頭を下げた。
「ううん。僕も水月さんと話せて楽しかったよ」
 運転席の窓を開けた深見さんはそう言って笑った。
「じゃあ海いく日、あとで決めようね」
「はい」
 私は明るい気分で頷いて見せた。今年の夏休みは楽しくなりそうだ。
 「じゃあ、おやすみなさい」、と言って深見さんと別れようとしたそのときだった。背後で、玄関のドアが開く音がしたのだ。
 驚いて振り向くと……そこには、お母さんが立っていた。
 あまりの出来事に、私の頭のなかは真っ白になる。
 お母さんは、硬い表情のままこちらへと一歩ずつ近づいてきて――平手で私の頬を打った。避ける間もなく、乾いた音がして頬に痛みが走る。
「水月ちゃん、どうして約束やぶっちゃったのかなああああっ!!?」
 血走った目をしたお母さんが、ほとんど悲鳴に近い声で言った。その剣幕に、反射的にびくんと肩が跳ねる。
「LINE送っても一向に既読がつかないから、家の中で倒れてるんじゃないかって心配で戻って来てみれば……まさか家を空けて若い男の人と遊んでたなんてね」
 地を這うような低い声で、ぞっとしてしまう。
 私は頬を押さえながら、この後なにをされるのか想像して戦慄した。全身にやけどを負うことになるかもしれない。
「やっぱり水月ちゃんを一人にさせたのは失敗だったわ。昼間じゃなければ外に出てもいいとでも思ったの? 最近の夏は、熱帯夜ばかりで、夜でも気温が高いんだから! なに考えてるの!? 熱中症になったらどうするの!? また熱湯かけられないとわからないの!?」
「水月さん!」
 運転席から、あわてた様子の深見さんが転がり出てきた。お母さんは、つまらなそうな顔で深見さんを一瞥する。
「どなたですか? うちの水月ちゃんを連れまわして……」
「すみません。僕の配慮が足りませんでした。でも、心配されるようなことは誓ってしていません」
「お母さん、私、ただご飯食べにいっただけだから……」
「そんなこと言われても証拠もなしに信じられるわけないでしょう。それよりも水月ちゃんが、熱中症にでもなったらどうしてくれるの? 心配でたまらなかったんだから」
「申し訳ないです。……でも、いくらなんでも暴力はだめですよ。虐待です」
「虐待って、そんな」
 お母さんは大げさだとでも言いたげに冷笑する。
「虐待です。水月さんに平手打ちしてましたし、また熱湯かけられないとわかんないのとか言ってましたよね? こんなの立派な虐待じゃないですか」
 いつになく深見さんは険しい表情をしていた。いつものふわふわした雰囲気とは全然ちがう……。
 深見さんが私を庇う姿勢を見せると、お母さんは「ふっ」と鼻で笑った。
「ふ、あはは、あはははっ、虐待? ばか言わないで、私は水月ちゃんが熱中症にならないかが気が気じゃないのよ!」
「いくらなんでも度が過ぎてます」
「なんとでも言えばいいわ。子育てもしたことないような若造にはわかんないでしょうから!」
「や、やめてよっ!」
 気が付くと、私は叫びに近い声でそう言っていた。
 お母さんは目を丸くして私を見ていた。いつも従順で大人しい私が、いきなり大きな声を出したことに驚いたのだろう。このときの私には、体の奥からこみあげてくる謎の衝動があった。
「お母さん……、お父さんがいなくなってつらいのはわかるよ。熱中症だって、気をつけないといけないのはわかる。でも、さすがにやりすぎだよ。やっぱりちょっとおかしいよ……」
「やりすぎ……? じゃあ、水月ちゃんは熱中症になって死にたいって言うの?」
「そうじゃないけど……!」
「じゃあ、いいじゃない。別に今のままで。なにが不満なの? お母さんの言うことを聞いて対策してれば、熱中症で苦しむことは一生ないのよ?」
 お母さんはキョトンとしていた。
 私が、なにを言ってももう届かないんだろうか――……。
 そう、あきらめかけたそのときだった。
「なにをやっとるんだ」
 視界の外から声がした。顔を上げると、長らく会っていなかったおじいちゃんが立っていた。
「ちょっと……、なんでここに? 腰が痛いんじゃなかったの?」
 お母さんが目を丸くしておじいちゃんを見た。
「ああ、でも歩けないほどではないからな。いくら待ってもお前が家に来ないから、こっちから出向いてきてみれば、一体お前は水月に何をやっとるんだ。しかもこんな夜に、近所迷惑だろう」
 じろりとおじいちゃんはお母さんを見た。お母さんはバツが悪そうに黙り込む。
「それより、今の話は本当なのか? 水月に手を上げたり、家の中から出さないようにしたりしているというのは」
「……それのなにが悪いって言うの? 外にでなければでないだけ、熱中症になるリスクもなくなるんだからそれでいいじゃない。私は、水月ちゃんが心配で」
 おじいちゃんはその言葉を聞いて、大きなため息をついて眉間を指でもんだ。お母さんはどこか不安げな表情になった。叱られるのをこわがる子供みたいだ。
「水月、すまなかった」
 おじいちゃんが私を見て、今度は眉を八の字にさせる。
 え……。
「きっとたくさん窮屈な思いをしてきただろう? 気づくこともできなくて、申し訳ない。母親に生活を監視されて、外出を制限されて……今までよくがんばったな」
 おじいちゃんの優しい言葉は、するっと私の心に入り込んできて、うっかり泣きそうになってしまった。それとは反対に、お母さんは声を張り上げた。
「な、なによ……監視って! 私は、水月ちゃんが熱中症にならないかが心配で、見守ってあげてただけなのよ!? なのに、私が悪いって言うの!?」
「……きっとお前は、まだ、崇くんを亡くした悲しみを乗り越えられていないんだな。だから、こんなことをするんだろう。一度、心療内科に行った方がいい。……でも、きっとお前だって、とてもつらかっただろう。お前の親でありながら、気づいてやれなくて悪かった」
 おじいちゃんがお母さんに向かって頭を下げた。
 お母さんはほうけていた。
 でも、ゆっくりと表情がゆがんでいって、最後には涙をこぼした。顔を覆ってその場に泣き崩れてしまう。
 私はその姿をみて、胸が痛んだ。
 お母さんはお母さんで、苦しんでいたのだ。私のことを心配していた気持ちも、きっと本当だろう。でも、その気持ちが暴走して、こんなことになってしまった。
 私はうずくまって泣くお母さんのそばに寄った。しゃがみこんで、そっと背中をなでる。
「……お母さんも、お父さんがいなくなってショックだったんだよね。もし、私までいなくなっちゃったらって考えると、すごくこわかったんだよね……?」
 そう声をかけると、お母さんはさらに嗚咽した。「崇さん……」と亡き夫の名前を何度も、かすれた声で呼んでいた。私と深見さんと、おじいちゃんは、泣いている彼女を静かに眺めていた。