深見さんがつれてきてくれたのは、小洒落(こじゃれ)た洋風のレストランだった。隠れ家的な存在なのか、夕飯時だというのに店内にお客さんはまばらだ。入店すると、ウェイトレスに奥のテーブル席へと案内され、私たちは卓を挟んで向かい合うように席に腰かけた。
「水月さん、何にする?」
 深見さんがメニューを開いて机の上に広げる。どの料理も美味しそうだ。目移りしてしまって決められない。
「……深見さんのおすすめとかありますか?」
「なに頼んでも美味しいけど、特にハンバーグが絶品だよ」
「あ、じゃあそれにします……!」
 初めて来るお店、オーダー迷っちゃうの私だけじゃないと思う。
 「僕もこれにしよう」と言って深見さんが店員さんを呼ぶボタンを押した。軽い音が響いてすぐにウェイトレスがやってきた。
「すいません、チーズハンバーグセットAを二つ」
 深見さんが注文をする。広い静かな店内で改めて聞くと、彼は地声もとても綺麗だった。
 ウェイトレスのお姉さんは、「かしこまりました。チーズハンバーグセットAがお二つですね」と注文を繰り返し、一礼すると去っていった。
「私、misizukuさん……いや、深見さんの歌ってるときの声も好きなんですけど、普通にしゃべってる時の声も好きです」
「ええ?」
 彩度の落ちた窓の景色を横目に、お冷に口をつけていた深見さんは正面の私を見て笑った。
「う、うまく言えないんですけど、なんか、歌ってる時よりも控えめで優しめの声っていうか……」
「そうかな……? そういえば訊きたかったんだけど、どうして僕がmisizukuって分かったの? やっぱり声? でも歌ってるときの声と地声はそんなに似てないと思うんだけど……」
「あっ、えっと、動画に映ってる腕時計と同じ時計を着けてるみたいだったので……」
「ああ、これか……! まさかこれで見つかると思わなかったなあ。これはね、大学の入学祝いに父がくれたんだよ。気に入ってて、学生の時からずっと着けてるんだ」
「そうなんですか……! いいですね」
 うちはお父さんが亡くなっているし、お母さんはあんな感じだし、羨ましい。
 けれど、一瞬だけ深見さんの表情が陰ったような気がした。あれ? と思ったが、そのときにはもういつも通りの深見さんだったから、もしかしたら気のせいだったのかもしれない。彼はつづけて言った。
「名前も……、あ、僕の名前、雫っていうんだけど。それも父さんがつけたんだよ。女の子みたいな名前で、子供の時は恥ずかしかったけど……」
 そう言った彼は、少しはにかんだように見えた。
 へえ、名前が雫ってことは、フルネームは深見雫さんになるんだ。ふかみしずく。ふか、みしずく……。
 教えてもらった名前を脳内で何度も反芻して、気づいた。
「あっ、じゃあmisizukuってハンドルネーム、本名からとったんですか?」
「うん」
 新事実だ。
「わ、私は月宮水月って言います」
「へえ~。名字にも月って漢字が入ってるんだ。綺麗な名前だね」
「でも、深見雫には負けます」
「いや、月宮水月のほうが」
「そんな、深見さんのほうが」
「いやいや、水月さんのほうが」
 そんな漫才みたいなやりとりをしていたら、ウェイトレスが「チーズハンバーグセットA、お持ちいたしました~」と盆を持ってやってきた。
 ジュワジュワと鉄板の上で音を立てるハンバーグは、思っていたのより4倍くらい大きくて。「ステーキ……?」と私がつぶやいたら、深見さんがこらえきれなかったみたいに笑った。
 冷房の効いた店内で食べる熱々のハンバーグは、とても美味しかった(量が多くて結構お腹いっぱいになったけど……)。食べ終わってからも、私は深見さんから色々と話を聞いた。四つ年上の姉がいること、昔はカラオケに行ってよくそこで曲をつくったりしていたこと、作詞は苦手だけど本屋で色んな本を買って勉強したこと。
 正直、全部録音して何度でも聴き返したいくらい貴重な話ばかりだった。
 でも、そのうち店が混んできたので出ることにした。私がお金をだすと言ったら、「成人男性が、高校生の女の子に奢ってもらうわけにはいかないよ」と苦笑され、やんわりと断られてしまった。
 店外に出ると、来た時に比べてだいぶ空の彩度が落ちていた。
 駐車場に停めていた深見さんの車に二人で乗り込む。時刻は20時半を回っていた。ずいぶん長い間、話し込んでしまった。
「おいしかったね」
 運転席でシートベルトを締めながら深見さんが言った。
「はい。おいしかったです。ごちそうさまでした」
 私も後部座席でそう笑ったけど、これでもう終わりだと思うと少しさみしかった。
 だって、もともと深見さんと私の関係は、友達でも恋人でも家族でもない。他人なのだ。
 私がお礼をしたいと何度も言ったから、深見さんが折れてくれて、今日は運よく二人で会ってお茶をすることができたけど……。
 でも、そのお礼も終わってしまえば、深見さんが私と会う理由はもうない。今日が終われば、彼とは二度と会えない気がした。
「……あのさ、この後どっか行きたいところある?」
 突然、深見さんが嬉しいことを言ってくれた。今日を引き延ばそうとしてくれているような気がして、私はそれがとても嬉しかった。
「えっ、い、いいんですか?」
「うん。せっかく出てきてくれたんでしょ? どこにでもつれてくよ。帰りはもちろん家まで送るし」
「え、えっと……えっと……、じゃあ」

――今度、海にあそびにいくんだけど月宮さんも行かない?

――俺んちは海につれてってくれるって言ってんだけどさ。

 このとき、どうしてだか、クラスメイトの声と、知らない小学生の言葉を思い出した。
「海に、行きたいです」
 そして私は、願望をそのまま口にしてしまった。
 少しの間があって、深見さんはぎこちなく言った。
「み、水月さん……今から海に行ったら、片道で三時間はかかっちゃうよ……?」
「あ、ですよね! い、行けるわけないですよね……」
 ハッとした私は、なんとか笑いを浮かべた。はずかしい。一回、外に出れたからって、どこへでも行けるわけがないのに……。
「すみません、ヘンなこと言って……」
「……水月さんあのさ」
「は、はい」
「今から行ったら夜中になっちゃうからさ、海はまた今度、晴れた昼間に行かない?」
 彼がそんなことを言ったのを聞いて、心底びっくりした。顔を上げる。運転席からこちらを振り向いている彼は、笑顔だった。
「また、会ってくれるんですか……?」
 こわごわとそう尋ねた直後に、もしかしたら社交辞令だったかもしれないと気づいて少し恥ずかしくなる。けど、深見さんは「水月さんが良いんなら」と笑顔を向けてくれた。
 胸が熱くなる。言葉にできないくらい、嬉しかった。
「で、でもどうしてそんなこと言ってくれるんですか?」
 深見さんは社会人だ。毎日仕事で疲れているだろうし、休みの日くらいは家でゆっくり休みたいんじゃ……。
「僕が、水月さんには、もう少し自由でいてほしいと思うからだよ」
 彼は、私の先刻の問いにそう答えて、困ったような顔で微かに笑った。
 あ、と思った。
 そうか。私ずっと、夏の間は『不自由』だったんだ。
 そう、気づいてしまった。
 今まで、私の夏が窮屈なのは仕方ないと、夏休みは退屈なのが普通だと、そう言い聞かせていた。そうすることで、自分の心を守っていた。でも、今の私はもっと深見さんと出かけたいと思ってる。もっと自由で楽しい夏を過ごしたいと。お母さんにもしバレてしまったらと思うと怖いけれど……。
「それに、水月さんと喋るのすごく楽しいから。僕はもっと話したいんだけど……水月さんはどう? 僕と海、いきたいと思う?」
 薄暗い車内。後部座席を振り向いたまま、彼が尋ねてくる。
 少しの間、迷って、答えた。
「――海、行きたいです。深見さんと」