どこにいても、何をしていても、いつもどこか息苦しい__こんな自分のことが大嫌いだ。
…始まりから一時間私は未だに筆を進められぬままでいる。チクタクチクタクと時計の針は無常に進んでゆくばかりで、私を待ってはくれなかった。拙い。このままでは、何も終わらぬまま今日と云う日が終わってしまう。コンクールはもうすぐだというのに。

「豊田さん、足。」

「え、あ。」

焦りからか無意識のうちに貧乏ゆすりをしてしまった。注意した奴の顔を見ると、不細工な顔になってしまう。相川。私より必ず一歩前で戦う筆の戦士。私がブルーだとすれば彼女がレッド。永遠の一番手。この美術部の要なのだ。いつも〆切ギリギリの私と違って、彼女は悠々と提出している。彼女がいる限り私に出世は有り得ないだろう。まさに目の上をたんこぶ。

「ちょっと。何見てんのよ。」

「へ?あ、サーセン…。」

相川はいつもの澄ました顔を崩す事なくそう言った。私はなんだか居心地が悪くなり、その日の部活は何も描けなかった。
夕暮れ時の河川敷はやたらと絵になる光景だ。一度は描いてみたいのだが、そんな余裕はないと後回しにし続けている。実の所、居心地が悪かったのは相川に注意されたからではない。私の隣に相川が座った時、つまり部活が始まった時から私の居心地は最悪だった。部活ではずっと相川を意識している所為か、如何にも腰が据わらないのだ。相川はいつも腰が高いのに…。だからいつまで経っても上を見上げる羽目になる。

(…畜生。)

ワガハイは畜生である。そんな本を見た事がある。いやあの本は猫だったかな?どちらにせよ私は畜生なのである。まあそもそも人間は皆畜生なのだがな!ガハハ!

「…はぁ。」

河川敷に座り込んで、堕ちてゆく夕陽を眺める。

(あ〜ホント絵になるなぁ〜最高。)

私はおもむろに鉛筆とスケッチブック取り出し、焼ける様な情景を描き出した。カリカリ、カリカリと芯の走る音がする。意識が絵の中に飲み込まれていく。この感覚はきっと描く人にしか解らないだろう。

「何をしているんだい。」

「うわあぁぁぁぁぁぁぁーーー!!!!!」

「うわぁ。」

びっくりした!びっくりした!いつの間にか隣に人が居た。整った鼻筋。二重の目。色白の肌。イケメンである。私は普段あまり関わらない人種に戸惑いを隠せなかった。

「え、ええええええ絵ですうぅぅ!」

イケメンはそのサラサラの髪をなびかせながら、クスリと笑った。

「それ、見せてもらってもいいかい?」

とイケメンは私の描いていた絵を指差した。こ、これは恋愛漫画でよくある謎のイケメンが平凡主人公を気に入るやつだ!

「へ、へい。どうぞ…。」

私は恐る恐るイケメンにスケッチブックを渡した。イケメンはそれを手に取ると鮮やかな黒の目を走らせながら、黒い河川敷を眺めている。私は何処に目を向けて良いのか分からず下を向いた。人に見せられる程良い物ではない。ただ、賞賛が欲しかった。見せる機会の無い絵、見られても記憶に残らない絵。私の絵など所詮そんな物だ。だから今、僅かな希望をかけて渡した。学校も、家も、何の先入観の無いこの人なら、私の絵を僅かにでも評価してくれるのではないかと期待した。

「うん。上手だね。」



(_______。)



(あ、今。)

褒められたのだろうか。現実の境目が崩れていく。褒められたのだろうか。視界がぼやけ、辺りが真っ白に染まる。拙い拙い拙い。頭がグラグラと揺れ、沸騰しそうだ!何だ何だ何だ⁉︎世界はこんなに綺麗だっただろうか。こんなに鮮明だっただろうか。こんなに輝いていただろうか。こんなにも美しいものだっただろうか!
鴉の仰々しい鳴き声。人々の足音。子供のはしゃぐ声。石焼き芋の匂い。まるで一つのオーケストラの様だった。

「それじゃあ、僕はそろそろ失礼するよ。」

そう言いイケメンは立ち去って行く。
私はぼんやりとした脳味噌のまま、イケメンを見送った。

〜〜〜

「…ぐへへへ。」

筆に色をつけ、描く。単調な作業だが、そこには様々な思考錯誤の結果が記されているのだ。

「ぐへへへ〜。」

「五月蝿い。」

「あ、ごめ〜ん。」

何だか今日は調子が良い。今までとは比べ物にならないほど筆が進む進む。いやぁ、褒められるというのは実に良い気分ですなぁ!心が軽やかになり、いっちょ歌でも歌い出したい気分だ。

「随分と…上機嫌みたいね。何かあったの?」

「わかっちゃいますか〜。実はね昨日絵が褒められたんだよ〜。上手だって!」

私はいそいそと鞄からスケッチブックを取り出した。

「ほらコレ!」

相川は無言で私のスケッチブックを受け取ると、ペラペラと捲り始めた。

「ほっほほほう。矢張り相川君にも良さが分かるのかな〜。いやまぁ私だって別に褒められたからってそんな_____

「下手くそ。」

「……へ?」

ピキリ、と体の奥から音がした。今、何と?

「人物に対して、建物が小さ過ぎる。夕陽の再現が出来ていない。全体的に形がおかしい。」

「え。」

相川はスケッチブックを返すと、そのまま作業に戻ってしまった。

(…何だよ、もう。)
余計なお世話だ。折角良い気分だったのに水を注された。相川は私の天狗の鼻をへし折った。つくづく鼻につく女だ。描く気も失せてしまい、筆は止まった。
その日の帰り道。夕陽を描いていると昨日のイケメンとばったり出会った。他愛の無い世間話をして、また絵を見せたら上手だと褒めてくれた。私はふわふわとした感情に包まれ、描こうという意欲が湧いてきた。あれ?私こんなに単純だったっけ。

「君は明日も此処に来るの?」

「どおっへ⁉︎や…それは…。」

分からない、のが正直なところ。でもこの人の言葉を聞くだけで活力がみなぎるのだ。出来る事なら毎日来たいし毎日来て欲しい。
「僕は毎日来れるけど。」

「マジすか⁉︎」

良いのだろうか。このような人を私が独り占めして。というか毎日来てくれるなんて何だか申し訳ないが、此方としては大歓迎である。幸せとはまさにこの事。コンクールもこの勢いでやってしまえば、金賞取れるのでは無いだろうか。

「ありがと‼︎私も毎日来れるよ!いや絶対行く!」

「うん。約束。」

「約束!」

私とイケメンは互いに小指を絡め、指切りをした。

「そういえば名前聞いてなかった。私、豊田。アンタは?」

「僕は鈴井。宜しく。」

「ヨロシク!」

浮足の立ったまま今日を終えた。名前も聞けたし、約束もした。今日はもしかしたら人生で最高の一日になるかもしれない。
それから私のつまらない日々は大きく変わった。例え部室に相川が居ても気にならなくなったし、河川敷でいつでも鈴井くんに会える日々。描いて褒められ私の自己肯定感は爆上がりしていった。そう!これから私の華やかな日常生活が幕を開けるんだ!

〜〜〜

その日は急な雨で、洪水警報があった所為か河川敷には近づけなかった。仕方ないから、住宅街の帰路を歩く。雨は嫌いだ。濡れて紙はふやけるし、気圧の変化で頭が痛くなる。水溜まりを軽く避けながら、雨音に耳を傾ける。すると何処から遠くで猫の鳴き声が聞こえた。野良猫は大変だろう。雨宿りする場所を探さねばなるまいし、この寒さの中に取り残されるのだから。そんな思いのまま十字路を曲がった。

「よしよし…良い子だね。」

嫌なものを見た。私はその衝撃に耐えられず眩暈を起こす。嘘だと思いたかった。湿っている段ボールに入っていた子猫を相川は拾った。そのまま何処かに電話したかと思うと、相川は段ボールごと子猫を抱え何処かに走り去って行った。

(何だ今のは。)

まさか保護したのか?相川が、子猫を?

(嫌だ。)

何故そんな良い行いをするのだろうか。相川には、相川には、ずっとずっと恨むべき対象であって欲しかった。いつもの澄まし顔で、私の作品を貶して、私にとっての悪者であって欲しかった。目の上のたんこぶでいて欲しかった。そんな悪い不良が捨て犬を拾う様な真似をしないでくれ。私の恨みに、正当性を持たしてくれ。

(嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。)

私が、悪いみたいじゃないか。
傘を打つ雨音が何故か脳裏に焼き付いた。

〜〜〜

「はい。」

「んえ?」

部室で相川から渡されたのは一枚の絵だった。それは私が毎日描いている河川敷の絵。黒白なのに夕焼けがとても綺麗で、私は思わず見惚れてしまった。

「貴方を褒めてくれる人が、気になって。だから、これを見せて欲しいの。」

「………鈴井くんのこと?」

「鈴井?…そう。鈴井さんっていうのね。」

いつもの澄まし顔を少し歪ませ、相川は鈴井の名を復唱した。何だ。やけに反応がおかしい。
いや、それよりもだ。私はもしも、を想像した。相川は私よりも絵がずっとずっと上手い。どれくらいかというと素人と偉大なるゴッホ様ぐらいには違う。もし仮に相川の絵を見せ、鈴井くんがその絵を気に入ってしまったら。

「………くそ。」

私は、私らしからぬ黒い感情に襲われた。何だか部室の備品を全て壊し、その場から逃げ出したくなる様な黒い感情が。スカートを皺になる程握りしめて、何とか抑える。大丈夫。大丈夫。まだこうなった訳じゃないから。

「どうしたの?」

「…別に。」

相川はこんな私を知らないで、そんな事を言ったのだろう。随分と嫌味な女。ムカつく奴め。だから嫌いなんだ。

(…でもやっぱいい奴なんだよなぁ。)

溜息が出る。こんな事を考えてる私は嫌な奴なんだろう。

「うん。上手だね。」

「でしょ!」

やっぱり今日も褒められた。目が眩む程の美貌を持った男にそう言われて、私は眩暈がするほど有頂天になった。景色が鮮やかに染まり、目の前に光が飛ぶ。ふと今日相川に渡された絵の事を思い出した。

「あ、そうだ。今日まだ見せるものがあって…。」

「どれ。」

鞄に乱雑に仕舞い込んだ紙は少し皺くちゃになっていたが、彼は気にせずそのまま眺めた。本当はあまり見せたくなかったが、他者との約束を蔑ろにするほど私は落ちぶれてはいないのだ。何だか腹がぐるぐるする。形容しがたい気持ち悪さと、視界がグラグラ揺れる。冷たい汗が滲み出て、どうにも上手くいかない。辛くはないが、何となく嫌なのだ。彼にアイツの作品を見せるのが。また二番目に戻ってしまう様な、どうしようもない不快さが。何も言わないで欲しい。賞賛も罵倒も全てから耳を塞ぎたい。だが無常にも時は過ぎ去っていく。

「うん。今までで一番上手だね。僕はこれが好きかな。」



「_______ッ‼︎」



あぁまただ。
揺れていた視界は徐々に収まり、やがて一つの真理に辿り着いた。どうにもならない。どうにも出来ない。私と奴の差は深い深い溝の様になってしまった。致命的な何かが砕ける音がする。私の根底、深淵から、誰にも渡さなかった大事なものが。このままでは駄目になってしまう。私の身はギリギリの一線を越えてしまいそうになっていた。あれだけ綺麗に思えた夕陽も色褪せ、錆びついた鉄の塊の様に思える。

「…大丈夫かい?ってあれは…!」

崩れた髪から声のする方を覗かせる。

「相川ー!相川じゃないか!」

心が真っ白に染まった。嫌だ。顔も見たくない。

「鈴井さん。やっぱり貴方だったの。」

「あれ?知り合いだったのかい。彼女の作品は実に素晴らしくてね。君も一度は見てみるといいよ。」

…知り合いだったのか。道理でだ。いつもイケメンの話をつまらなそうに聞いていた割に、名前を出した時いつもと様子が違って見えた。あれはそういう事だったのか。…やめろ。聞きたいのに聞きたくない。このままずっと真実に辿りつかなければ、私は私のままでいられるだろう。だがどうしても聞いて見たかった。


「……二人は、どういう関係…なの?」


切望の望みをかけ、私は彼等に問い掛けた。最早言葉余計な言葉は要らなかった。彼は少し照れ臭そうにこう答えた。


「そうだね。君にも伝えておこうかな。」


嫌いだ。


「僕と相川は付き合ってるんだ。」


お前なんか。



〜〜〜


…そこから先はよく覚えていない。ただ家に着くと、ボサボサの髪、走ってきた転んだ所為か両膝が血と泥でぐしゃぐしゃになっていた。握った相川の絵は最早絵と呼ぶには相応しくないくらいに汚れていた。

「ぐぅっ‼︎あぁ!やだ!やだやだやだ‼︎何で私ばっかり!アイツが!全部‼︎あぁぁあぁああ‼︎」

本棚を倒し、絵の具を踏み付け、デッサンデスクをなぎ倒した。辺りに物が散乱し、足の踏み場は無くなってしまった。私はその場で座り込んだ。頭を仕切りに振り回して、考えるのをやめたかった。

「うぅぅぅぅぅうう〜…もうやだぁ…疲れたよぉ〜…。」

目から落ちる水色がやけに薄汚れていて、何だか笑えてきてしまった。

「あはっ。あははははっ!っふ、何これ?意味分かんない。」

それが何だか悲しくて、また床を濡らしてしまった。

「…こんなもの‼︎」

私が描いた河川敷の絵を全部破り、捨てた。
全部どうでも良くなってしまった。後に残ったのは途方も無い無力感だけだった。

〜〜〜

三日が経過した。未だに私は布団から出られないままでいる。部屋は一応片付けたが、学校に行くのも億劫になってしまった。もういい。もういいのだ。疲れたんだよ、私は。休ませておくれ。外との交流を絶った私に残ったものは、ただ一つの安心感だった。母の心配する顔も、父の叱る声も、聞こえなくなっていた。私は勝ったのだ。この孤独の戦争で唯一の勝者となったのだ。ガハハ。私は布団で惰眠を貪っていると、家のインターホンがなった。宅配だろうか?私は寝巻き姿のまま玄関を開けた。

〜〜〜

三日が過ぎた。あの子が来なくなってから。彼と連絡したけれど、河川敷にも来ていない事が分かった。…もしあの子が来なかったら、私が金賞を貰うのか。舞台に立たないまま、不戦勝になるのか?それは何とも_

「…不愉快。」

部活の先生に呼ばれて私は豊田さんにプリントを渡しに行くことになった。あの子の家のチャイムを鳴らすと意外にもすんなり出て来てくれた。

「なっ…んでアンタが…⁉︎」

豊田は酷く驚いた表情をして見せた。よく見ると彼女は寝巻き姿のままで、膝に絆創膏が貼ってあるのが分かる。顔も窶れていて、目の下は赤く腫れている。

「プリントを、渡しに来たの。中に入っても?」

彼女は酷く嫌そうな顔をしながらも、渋々中に入れてくれた。まぁ私も入れてくれない限り、一歩も動くつもりはなかったのだけれど。彼女の部屋は割と小綺麗にされていた。でも、何処か不自然な箇所があった。本棚に妙な隙間があったり、ゴミ箱に捨てられた画材が目に入った。

(嗚呼なんてこと。)

彼女は絵を辞めるつもりなのだ。

(それはならない。断じてならない。)

彼女を止めなければ。

「ホラ早く。プリントちょーだいよ。で、渡したら帰ってくんない?めーわくなんだよ。」

「貴方は絵を辞めるつもり?」

「…アンタには関係無いでしょ。」

豊田さんは眉間に皺を寄せ、今にも癇癪を起こしそうな表情になった。

「いいえ。有る。」

「…何なのさホント。いつもは何にも言わないのにさ、急に良い子ちゃんにならないでよ。」

「貴方の云う良い子がどんなものか解らないけれど、私としては貴方に絵を続けて貰わなきゃとても困るの。」

「…何が困るだよ。私の事なんかどうでもいい癖に。」

その言葉に私はカッとした。

「どうでも良くない!」

その言葉に触発されてのか彼女は強い口調で怒鳴った。

「何なんだよ一体!もう嫌なんだよ描くの‼︎今更さぁ!描いて欲しいなんて!うるっさいんだよ!私なんかどうでもいいんだよ!私が一番分かってんの‼︎もうさぁ…いい加減黙れよ……疲れたよ…。」

そのまま彼女はしゃがみ込んでしまった。私も膝を折り、目線を合わせる。彼女は今にも消えてしまいそうな声で言葉をはいた。

「…描く度にさ、私の心は黒く汚れるんだ。嫌な事ばっか思い出すし、傷付く言葉ばかり頭に浮かぶ。…そんな自分が嫌になって、逃げ出したくて…。昔は楽しかった筈なのに、どうしてこうなっちゃったんだろ…。」

それが本心か。ならば私も本心を言おう。彼女がこれだけ自分を打ち明けてくれたのだ。私も出さないとフェアじゃない。

「私は貴方が好き。」

「…は?」

彼女は泣き腫らした顔を上げ、ポカンと口を開けた。

「いつも後ろから追いかけてくる貴方が、私は好きだった。どんなに打ちひしがれても、負けじと立ち上がって、筆を握る貴方が。私にはとても眩しく思えた。後ろを振り返ると、必ず貴方が居た。」

「…何それ。酷くない?」

「だから貴方が好きだった。でも、今の貴方は違う。言い訳をして逃げている。」

「…逃げてもいーじゃん。」

唇を尖らせ、拗ねた様な顔をする。だから、今のままでは駄目なのに。

「悔しいと思わないの?私を筆で負かしたいとは思わないの?」

私が責める様に言うと、口をキュッと閉じて俯いてしまった。でも少なくとも私の言葉は彼女に大きく刺さっただろう。だって貴方は

(負けず嫌い、だものね。)

「…言いたい事はそれだけ。プリント、此処に置いておくね。」

「…はぁ。」

重い扉の前で思わず溜息が漏れる。何で来てしまったのだろうか。発破を掛けられ、来てみたはいいものの。

(やだな〜。顔合わせるの。)

あんな所を見られた後で、あの女と出会いたくない。昨日の告白には衝撃を受けたが、だからといって今更私達が仲良くなる事は無いのだ。私は深呼吸をして、音を立てぬ様扉を開いた。

「ギャッ⁉︎」

目の前に相川が立っており、叫んでしまった。まさかこんな早い再開とは思わなくて、今にも心臓が飛び出しそうだった。

「来たわね。」

「えっあっはい。」

相川は安堵した表情を見せると、いつもの席に移動した。私も相川の隣の席に移動して、筆をゆっくり走らせた。まだ迷いもあるし、悩みも有るが、何だか少しだけ心のモヤが晴れた気分だ。暫く描いていると、先生にアドバイスされ修正する。その様子を見ていた相川が不満気な顔をした。

「…私のアドバイスには応えないのに、先生のアドバイスには応えるのね。」

「だって相川のアドバイスを受けたら、一生相川を追い越せないじゃん。」

私の答えに納得した様なしていない様な顔をされた。

「…確かに?」

〜〜〜


「引っ越す事になったんだ。」

「えっ⁉︎」

初耳なんですけど⁉︎いつもの河川敷に来た私は、衝撃的な告白を受ける。因みに二度目だ。

「遠い所でね。此処から電車で十時間はかかるかな。」

「十時間⁉︎そんなに⁉︎」

十時間時間かかるなんて、よっぽどの暇がない限り遊びに行けないではないか。というかいきなり過ぎるし、その事を相川に伝えたのか?

「相川にも話したよ。」

「そ、そうなんだ。」

何だ。そうか。話したのかもう。

「それじゃあね。」

「え、あちょ、待っ。」

私が止める間もなく彼は言ってしまった。仕方なく余った時間は河川敷の夕焼けを描いた。心に残ったスプーン一杯分の寂しさは、絵の具で埋めるのだ。その日の夜は上手く寝付けなくて、伸びた朝日の眩しさに思わず目が眩んだ。部室に来ても相川はいつもの澄まし顔だったが、お互いに何も話さなかった。

「それじゃあね。離れていても元気でね、二人とも。」

急行と書かれた蛍光色の文字。駅構内は人で溢れていた。がやがやと喧騒の中、私達はお互いに自分の無事を確認した。遠くへ行ってしまう。引き留めても如何にもならない事を私は良く知っていた。相川は少し寂しそうで、何だか調子が狂う。

(もし此処で…。)

あの言葉を伝えたら、彼は振り向いてくれるのだろうか?彼は困ってくれるだろうか?私のほろ暗く、甘い感情を彼は知ってくれるだろうか?

(いや。)

そうした所で、現実は変わらない。彼が引っ越すのも、相川と付き合っているのも何も変わりはしないのだ。

「ばいばい。」

彼はいつものようにそう言った。それだけだった。

「…ばいびー。」

「さようなら。」

そうして電車は行ってしまった。彼と私の繋ぐ線は呆気なく、プツンと切れてしまった。彼との日々は終わってしまった。

(何だこれ。随分と呆気ないじゃないか。これでいいのか?このままでいいのか?)



「よくない。」



私は感情の乗るままに筆で描いた。あの日常を、あの激情を、あの気持ちを、忘れないように。色褪せる前に。赤青黄色。色の感情を全てぶつけた。

「出来た…!」

完成した私の作品は自分でも素晴らしく思える出来になっていた。

コンクールで私は立派な金賞を取った。私の人生の最高傑作は見事相川に勝ったのだ!

「っっっっくぅぅぅぅ〜〜‼︎」

私はその場で飛び上がり何度も腕をふった。

(やったぁぁぁぁぁぁーーーー‼︎遂に、遂に、勝ったんだ!あの相川に勝ったんだ!)

「…おめでとう。」

「どひゃあ⁉︎あ、相川⁉︎あ、あ、ありがとう!」

隣に居た相川に気付かず私は間抜けな声を上げた。相川はいつもの澄まし顔だった。

(…あれ?)

相川の目元を見ると薄ら赤いのが分かる。泣いていたのだろうか。

(…相川も、ちゃんと人間なんだな。)

今まで、相川の事をきちんと見れていなかったんだ。相川はずっと私より上の存在だと思っていたから。偏見が先にきてしまい、ちゃんと相川として見れていなかったんだと思う。そうか。相川を特別視していたのは、私自身だったんだ。その事実が胸の奥へストンと落ちた。

「相川…その今までごめんね。」

「…次は負けないから。」

「…うん!」

相川と私の関係は分からない。でも嫌なものを見ずに決め込んでいた私はもう居なかった。相川は相川だし、私は私。その事実はいつまでも変わらないだろう。
でも、少しだけ息がしやすくなった。