結局何も言えなかった。


「今の電話って、大友ちゃんですか?」


真っ暗になったスマホの画面を見続けていると、下げものを片付けた一ノ瀬さんが取り越しに訊いた。両手で重そうに持っているお盆の上には食器が器用に重ねられていて、見ているこちらが心配になる。


「大友さん、今病院にいるって」


そう答えると、一ノ瀬さんは間髪入れずに言った。


「高倉さん。今すぐ大友ちゃんのところに行ってあげてください」

「え?」

「すぐに行ってあげてください!お願いします」


彼女の真剣な眼差しは、僕に選択の余地を与えない。

お盆の上に重ねられた食器は一ノ瀬さんの勢いに圧倒されたのか、カタカタと音を立てている。いつの間にか一ノ瀬さんは物語の主人公に相応しい人間に成長していた。


「わ、わかった!」


席を立ち上がり、出入り口にいる誠司さんにコーヒー代を支払う。

郁江さんにもよろしく伝えてもらうように言って、弾かれるように喫茶店を飛び出す。足取りが妙に軽いのは、本心と行動が一致しているからかもしれない。

けれど、それだったら、なぜあの時大友さんに何も言えなかったんだろう。

そんなことを考えながら、汐丘駅に向かった。

松田さんから教えてもらった病院名をスマホの地図アプリに入力すると、汐丘駅から30キロほど離れた街にある病院だということがわかった。

汐丘駅のホームに降りた瞬間にちょうど電車が到着したから、まるで世界が彼女のところへ急かしているようだなんて、気持ち悪いことを考えた。

終点までの時間があっという間に感じたのは、僕自身が考え事をしていたからであり、決して世界が僕に味方をしているわけではない。


あの時誰かの後押しがあれば、僕は田中さんのところに向かっていただろうか。

僕にとって田中さんは、どういう存在だったのだろう。

僕にとって大友さんは、どういう存在なのだろう。

汐丘駅に負けず劣らず閑散(かんさん)とした駅に降りると、スマホの地図アプリを頼りに誘導されるまま歩く。

駅前に交わる大通りを道沿いに歩いていくと、すぐに病院らしき建物が見えてきた。年季が入っているのか、コンクリートが剥き出しの壁は所々が苔に覆われていて、一昔前の刑務所のようにも思えた。