部屋にお邪魔している身であるため食器洗いくらいはすると提案したのだが、彼女は(かたく)なにじゃんけんで決めることを譲らなかった。

わざと負けるつもりなんてないのに、どう頑張っても僕の勝率は3割にも満たないのは、おそらく彼女はじゃんけんの必勝法か僕の癖を知っているのだろう。そしてそれを見せつけないのだろう。


「高倉くんって、彼女とかいないの?」


食器を洗っていると、田中さんは冷蔵庫に入っている麦茶を取りに来たついでに訊いてきた。


「いるように見える?」

「見えない」

「それが答え」

「えー。本当かなあ」


田中さんは洗ったばかりのコップを受け取ると、僕の髪をいたずらに撫でてから冷蔵庫の扉を開ける。


「あ、これ私の好きなプリンじゃん。食べて良い?」

「良いけど、一つは残しといて」

「持って帰る?」

「いや、ここで食べる用に置いとく」

「おっけー。賞味期限、明日までだからね」


だらだらと中身のない会話ができるようになったのは、僕が彼女に、彼女が僕に馴染んできた証拠なのかもしれない。

僕が田中さんの部屋に訪れてからひと月。

この状況は周りからどう思われているのだろう。

親しくなるほど、そんな自意識過剰が芽生えてくる。

異性に対する緊張はなくなはなったが、変な気なんて起こそうとも思わなかった。

もちろん彼女が異性で、しかもフォルムのスペックが優れているという認識は常にに持っている。

物理的な距離が近づけば近づくほど心臓の鼓動が早くなることは前々から気が付いていたが、それを自覚するようになったのはつい最近。

先週一度だけ手を握ったことがある。と言ってもこれは本棚から落とした漫画を取ろうとした際に起こった事故だ。

本棚から目を逸らさずに落とした漫画を拾おうとしたら、誤って田中さんの手を最大に握ってしまったのだ。触れた瞬間軟らかい感触と同時に、ひやりした冷たさが伝わってきたのを鮮明に覚えている。

ただ、すぐにそんなことを思う自分を恥じた。

触れた瞬間真っ先に手を引っ込めた田中さんは、何事もなかったかのように漫画を手渡してくれたが、その後彼女の話し方や振る舞いが、意図的によそよそしく映るように見えるようになった。

彼女はこれ以上の関係を望んでいない。完全に思い上がりだ。

僕らはただ、お互いの存在を確認するかのように顔を合わせていたに過ぎない。

彼女の部屋に訪れる前に、そんなことを呪文のように唱えることだけは忘れなかった。