文庫本の品出しを終えて再びレジの方に行くと、一ノ瀬さんが出勤していた。

一ノ瀬さんも僕と同じ遅番だったが、今日は大学の講義が長引いたため、出勤時間が一時間程後ろにずれていた。


「おはようございます」

「おはようございます。今日は遅れてしまってすみません」


礼儀正しい一ノ瀬さんは、僕に深々と頭を下げる。

遅れることは事前に連絡されていたし、代わりに松田さんが残ってくれていたから、誰の仕事に影響することもない。もちろん一ノ瀬さんが謝罪をしたからといって、僕の気分がよくなることも悪くなることもない。

ただ、謝罪をすると、その人間は無意識に弱い立場へ回ることもある。彼女は僕達に不必要な負い目を感じてしまわないか心配になった。


「今日はお客さんも少ないし、全然大丈夫だよ。それより毎日大変だね」


僕は気を遣って話題を()らす。


「いえ。わたし、要領が悪いので」


一ノ瀬さんは自分を卑下(ひげ)して話を(まと)めようとする癖がある。

自信のなさをありありと見せつけられた僕は、下がり切った彼女の自己肯定感を上げるための言葉を選ばざるを得ない。


「いやいや、大学に通いながらバイトをしてカフェの手伝いもしてて、ほんとすごいと思うよ」


彼女が少しでも上向きになればと、僕は行ったこともない大学をイメージしながら励ました。

けれど僕の配慮も(むな)しく、一ノ瀬さんは、


「いやいやいや、私なんて」


と、さらに自分を下げ始めたから、もうこれは余計なことは言わないのが賢明だと判断してさっさと話を終わらせた。

とは言っても、僕も一度気になったことはいつまでも頭から離れなくなるから大変だ。

何度かレジに立っている一ノ瀬さんに目をやると、もともと表情の変化が少ない彼女の表情が、心なしか少し暗くなっているように感じた。

商品整理をしながらさらに様子を(うかが)ってみると、何度か歯を食いしばったり(しか)めっ面をしたり、突然しゃがみ込んだりと落ち着きがない。

しばらく観察していると、すぐに理由がわかった。彼女は懸命に睡魔と戦っているんだ。

歯を食いしばったり(しか)めっ面をするのは、あくびで大きく口が開かないようしているからだ。どうしても我慢できない時は、しゃがんでお客さんから見えないようにしている。

さらに観察してみると、お客さんがレジに訪れない時は懸命にブックカバーを折ろうとしていた。

単調な作業の繰り返しは逆に眠気を助長する。頭の重心が定まっていないあの様子を見ていると、そのうち倒れてしまうのではないかと心配になる。

大学で授業を受けてからアルバイトをし、空いた時間には海猫堂の手伝いもしている一ノ瀬さんは、相当身体を酷使(こくし)していると思う。

かもめ書店は休日になると多くの家族連れが訪れ、店内が極端に混み合うこともしばしばある。反対に、今みたいに平日の夕方は、学校帰りの学生やサラリーマンが訪れるが、その時間が過ぎてしまうと、ほとんど人は訪れなくなる。
 
基本的に僕らアルバイトの人間は接客要員として割り当てられているため、お客さんがいなければレジ担当者は極端に手が空いてしまう。ただ、いつお客さんがレジへと並ぶかわからないため、安易(あんい)にその場から離れられない。

そのためレジに入っている時は、カウンターでブックカバーを折ったり、会計時に回収した防犯タグを綺麗に並べ直したりと、地味な作業しかすることがない。

盛大なあくびをかますわけにはいくまいと必死に睡魔と戦っている一ノ瀬さんを心の中で応援し、僕は自分の仕事を進める。