注文品を持って来たのは一ノ瀬さんだった。
呆気に取られていると、彼女は慎重にソーサーごとコーヒーカップをテーブルに移す。そのぎこちない動作からは十分に緊張が伝わってきたから、僕はテーブルの上にソーサーが無事に着地するまで息を殺した。
「あ、えっと。郁江さんが足りない材料を買い出しに外に出ちゃってて。わたしが代わりに」
どうやら店主は郁江さんと言う名前らしい。
接客用に精一杯取り繕った表情を僕に向ける一ノ瀬さんを見ていると、書店での彼女の姿を思い出した。
というか、緊張しいの一ノ瀬さんに良くもまあ易々と店番を頼めるものだ。
幸い店内には僕ともうひと組、若いカップルのお客さんがいるくらいだから大丈夫だと思うが、お客さんが混んできたらどうするつもりなのだろう。なんて、余計なことを考える。
「一ノ瀬さんって、このお店でも働いてるの?」
余計なことを聞いてしまうのは悪い癖だ。そのせいで、過去に上司と何度もトラブルになったことがある。
「いえ。お手伝いしているだけです」
「え、でも、お店を任されちゃってるけど」
「土日もたまにお手伝いさせてもらってるので、これくらい大丈夫です。それに、郁江さん、すぐに戻ってきますし」
悪いが僕には理解ができない。見方を変えれば使いパシリにされているのと同じではないのか。そのつもりがないと言うのなら、きっちり対価を払わなければいけないのでは。
無論、関係の無い僕が関係の無い事を口出しする権利はない。けれど、胸の中に沸々と黒い感情が湧いてくる。
「一ノ瀬さんは、いい人だね」
「ありがとうございます」
褒める意味で言った訳ではなかった。けれど、彼女は表情を明るくし、深々と頭を下げた。
それから、一ノ瀬さんは気恥ずかしそうに「ごゆっくりどうぞ」と言って、カウンターに戻っていった。
そこからは、もう仕事どころではなかった。彼女がどう動くのかという好奇心が優ってしまったのだ。
カウンター席にいるカップルが一ノ瀬さんにオーダーを頼む。
ミルクティーとオリジナルコーヒーを1つずつ。ビーフシチューとオムライス、食後にブルーベリーのケーキと、結構なボリュームだった。
まさかオーダーメニューまで作り始めてしまうのではないだろうか。良い人である一ノ瀬さんのことだからやり兼ねないと思いながら、僕は広げたノートパソコンの画面越しに彼女を観察する。
すると一ノ瀬さんは、注文を丁寧にメモしながら、
「すみません。今お店の人が買い物に出ちゃってて、お食事の方は少しお時間いただいてもよろしいでしょうか」
と丁寧に事情を説明していた。カップルの二人は若干戸惑いながらも、「大丈夫ですよ」と、一ノ瀬さんに寛容な態度を示したから僕は安堵した。
が、その安心も束の間、カップルの男の人の方は、とりあえずドリンクだけ先に欲しいと言った。
さすがに何も提供できないのはまずいのでは。
一ノ瀬さんはバイト先の書店ではお世辞にも自分から積極的に動くタイプの人間ではない。
言われたことはきちんとその場でメモを残し、指示通りに動いてくれる彼女に初めこそ好感を抱いたことがある。
けれど、次第に彼女がどのような人間なのかが見えてくると、僕は彼女のことを何も思わなくなった。
品出しに追われていた時、レジを担当していた一ノ瀬さんに仕事をお願いしたことがある。100枚ほどある伝票の束に1枚ずつ店舗のゴム印を押すという仕事だった。
この伝票にゴム印を押しといて貰えますか。僕はそう言うと、彼女は快く引き受けてくれた。
しかし品出しを終えて戻ってくると、1番上の伝票のみゴム印が押してある状態だった。伝票の上に丁寧にゴム印とスタンプ台が纏めてくれた一ノ瀬さんは、退勤時間が過ぎていたため、もういなかった。
無論、1枚1枚に押して欲しいと言わなかった僕が悪いのは間違いない。帰宅する前には進捗を報告しておくものだと思い込んでいた僕が悪い。
言葉通りの任務を遂行した彼女に落ち度はない。
ただ、その時僕は一ノ瀬さんがどういう人間なのかを上書きした。
そんな彼女がどうやってこの逆境を乗り越えるのだろう。
汚い野次馬精神で傍観していると、一ノ瀬さんは、いそいそととカウンターキッチンに向かい、慣れた手つきでカウンター台にサイフォンを置いた。
あの一ノ瀬さんが人前でコーヒーを淹れるなんて。しかも本格的なサイフォンを使って。
フラスコ内の沸騰したお湯がロート管を伝って上部に引き上げられるそれは、理科の実験を彷彿とさせる。
サイフォンを使っての抽出はお客さんを楽しませる意味合いも含まれているが、もちろんお湯の量や攪拌の仕方など、技術的な難易度も高い。それをあの一ノ瀬さんが。
ぼんやりと眺めていると、彼女と目が合ってしまったため、僕は慌てて画面の方へと向き直す。これ以上余計なことを考えていると、本当に仕事が終わらない。
僕はリュックサックの内ポケットからワイヤレスイヤホンを取り出し、耳に押し込んだ。
Bluetoothの接続を告げるアナウンスを確認せず音楽アプリを再生したため、スマホから音が漏れてしまった。作業に集中するためのピアノ曲集だったからよかった。
チャットツールから文章データと納品完了のメッセージを送り終える。画面の時計を見ると、時刻は8時半を過ぎていた。
「お疲れさま。よかったら召し上がって」
画面を閉じて軽く伸びをしていると、店主の郁江さんがケーキを一切れ机の上に置いてくれた。
「いいんですか?」
「売れ残りで申し訳ないんだけど」
柔らかな笑みを向けられると、断ることなんてできやしない。
「ありがとうございます」
「毎日熱心ね。大学生さん?」
「いえ……」
そう訊かれると、いつも答えるのに躊躇する。
学生でもなければ、勤め人でもない。しかし無職かと言うと、一応は働いているためそうではないとも言える。
ではフリーターなのか。開業届は出しているからそれも違うような。自分が社会で中途半端な位置にいることを、まざまざと痛感する。
今のように文章の仕事をしていると考えると、自営業をしているとも言えなくもないが、それだけの収入では生きていけないのも事実だ。
今は書店でも働いているが、所詮はアルバイトの立場。ライターとしての収入が得られない時の保険としているに過ぎない。
いずれにせよ、今の立ち位置では、怪我や病気で仕事ができなくなれば、あっという間に無職へと変わる。
悩んだ挙句、僕は自分の面子を保つ意味と、相手がわかりやすい職業をという意味で、
「自営業です。文章を書く仕事をしてて……」
と言った。自信が無い時は、語尾の歯切れを悪くしがちだ。
「あら、もしかして作家さん?」
まるで芸能人にでも遭遇したかのような郁江さんの表情に、僕はますます気まずくなる。もっとも、この流れも想定内ではあるが。
「ええと、ウェブライターと言って、企業のサイト内などにある文章を書いたりしています」
今まで作家ではないと言うことを告げた途端に怪訝な顔をされることもあった。そしてそんな顔をされると、なぜか僕の方が申し訳なく思う。
けれど郁江さんは、まるで子供のように目をきらきらさせながら、
「へえー!あなたも!やっぱり文章が書ける人って格好いいわよね!」
なんてことを言った。あなたもって、どなたも?
「いやいや、誰でもできることなので」
この言葉には、謙遜と事実の両方を含んでいる。
日本人の識字率はほぼ100パーセントであるため、この仕事は誰でもやろうと思えばできる。確かに構成の仕方や読みやすさを意識した書き方など、いくつかテクニックは必要ではあるが、どれもたいしたことではない。
小さい頃から読書家だというわけでもなければ、製造現場の仕事は頭よりも身体を使う仕事が多かった。
そんな僕が、今こうして文章書く仕事ができているのは奇跡に近いし、諸刃の剣でもある。
「そんなことないわよ。私の知り合いにも似たようなお仕事をしている人がいてね。ねえ、沙希ちゃん!」
郁江さんは必死にノートパソコンを睨んでいる一ノ瀬さんに言った。
彼女は肩をびくりと動かし、恐々と僕らの方を向いた。
後ろで縛っていた髪はすっかり下ろされ、肩元で内側に巻いている。呼びかけに驚いたそぶりを見せるのは、書店で働く時も変わらないから、きっと彼女の癖なのだろう。
撮影や接客をしていた時に醸し出していた緊張感は、もう無くなっているように思える。
こちらに向けられていたノートパソコンの画面をちらりと覗いてみると、写真加工用のソフトで海猫堂の店内写真を加工している最中だった。
「沙希ちゃんの知り合いに、ライターさんがいなかった?ほら、あの元気な人」
「えと、茂さんのことですか?」
彼女が自然に話に加われているのは、きっと作業をしながら僕達の話を耳に入れていたからだろう。
「そうそう。沙希ちゃんの叔父さんだったわよね」
「叔父さん?」
僕の問いかけに、一ノ瀬さんは落ち着いて答える。
「はい。元々都内の広告代理店で勤めていたんですけど、今は独立して地方の情報誌や本を出版しているみたいです。あと、田舎で民泊も経営しています」
「えっ、そうなんだ」
気になったのは、田舎でも民泊でもなく、地元に戻ってきたということ。都内の広告代理店ということは、エリート街道を突き進んでいたはずだ。そんな人が、どうしてわざわざ仕事を辞めて地元に戻ったのだろう。
とは言え、見ず知らずの他人が脱サラした動機なんて、気になっても訊けるものでもない。
郁江さんに同業者のように言われていい気分もしなかった。別に茂さんという人間に嫌悪感を抱くとかではなく、ただ、僕なんかが肩を並べるのはおかしいというか、おこがましいと思った。
そんな僕の遠慮を一ノ瀬さんは知ってかしらずか、田舎で民泊をしていることについて掘り下げ始めた。
「地元で古民家を借りて住んでいたみたいなんですけど、広すぎるからって空いた部屋を宿泊施設にしちゃったんです」
「行動力がすごいね。できる人って感じ」
「全然そんな風には見えないですよ。マイペースでちょっと抜けてるおじさんっていう感じです」
そう言って、一ノ瀬さんは僕に控えめに作った笑顔を向ける。
能ある鷹は爪を隠すと言う言葉のように、仕事ができる人や自信がある人ほど隙があるように振る舞う。
それだけならいいのだが、もちろん逆もまた然り。
できない人ほど立場や権力に頼って横柄に振る舞うのだ。それが見苦しいのは言うまでもなくて。そう言う人間を、嫌と言うほど見てしまった。
「さて、ちょっと早いけど、そろそろ閉店の準備をさせてもらうわね。もちろんお店が終わるまでゆっくりしていってちょうだい」
「郁江さん、わたしも手伝います」
閉店時間の9時には届いていなかったが、店内には僕達しかいないため、郁江さんは少し早めに店仕舞いを始めた。
その大雑把さも含めて、このお店と郁江さんという人間のよさなのだろうと解釈し、あらためて別世界の人間だと線引きをしておく。
結局僕はブルーベリーケーキに手を付けながら、閉店まで2人を観察して過ごした。
カウンターでお会計を済ませてからお店を出ようとしたら、郁江さんと一ノ瀬さんは、わざわざ店の外まで見送りに来てくれた。
一ノ瀬さんは「またバイト先でよろしくお願いします」と言い、僕に頭を下げる。
外に出ると、現実世界に引き戻されたような気がした。名残惜しいと感じたのか、僕は電車内で、海猫堂で味わった暖かな雰囲気の余韻に浸った。
書店でのアルバイトがなければ、身体を動かすタイミングなんて皆無だ。
長時間同じ姿勢で過ごすデスクワークは全身の血の巡りを悪くし、脳の動きも鈍らせる。
ただ、だらしない身体になると、ますます自分が嫌いになるから、気分転換に外を歩いたり、自重トレーニングをしたりして代謝を上げるようにはしている。
遅番の今日はお昼前に起床しても夕方のバイトには十分間に合うが、アルバイトまでに今日の仕事をこなしてしまわなければならない。
連日の疲れからか、2時間ほどしか仕事に集中できなかったことを後悔しながら上り方面へと向かう電車に乗る。
最寄駅から2つ目の浜岡駅を降り、そこから歩いて15分ほどのところにかもめ書店はある。
海猫堂がある汐岡駅ほどではないが、浜岡駅も普通電車しか停車しない小さな駅だ。
駅周辺は地元住民の生活の基盤を支える場所になっているらしく、昔ながらの八百屋や金物屋などが点在している。
ただ、駅から歩いて30分ほどのところに中規模のショッピングモールが建設されてから、地元の小売店は苦戦しているように見える。
この一体がシャター街にならないよう、食料品の買い物はこのあたりでするようにしてはいるが、所詮はわずかな延命行為にしかならないだろう。
幸いショッピングモールの中には書店が入らなかったため、かもめ書店は訪れる人が増えたことによる売り上げ増加の恩恵を受けるという、旨みだけを得ることができていた。
お店の入り口から店内に入ると、すぐにレジの横に設置してあるパソコンへと向かう。このお店で働く人は、お店に着いたらすぐにタイムカードを先に通すのが通例になっている。
時計は午後3時50分。
このお店の賃金形態は時計の15分刻みで賃金が計算される仕組みとなっている。
例えばタイムカードを3時50分に通しても自動的に4時出勤となり、10分間の賃金は発生しない。また、4時01分にタイムカードを通せば自動的に4時15分出勤となり、14分間ただ働きとなる。
もちろん退勤時もそう。例えば9時29分にタイムカードを通せば、9時15分退勤となり、以下同様。
このシステムに若干の不平等を感じてしまうのは、決して僕だけではないだろう。
藤野店長を含むお店で働く人は、着替えている間に15分の区切りを跨いでしまわないよう、お店に着くと何よりも先に出勤登録を済ます。
出勤登録を済ますと、丁度お客さんへの案内を終えたパート従業員の松田さんに挨拶をし、バックヤードの奥にあるロッカーへと向かう。ジャケットをハンガーにかけてからロッカー入れてあるエプロンを付け、事務所へと向かう。
「おはよう」
「藤野店長、おはようございます」
藤野店長は僕の気配に気が付くと、パソコンから僕の方に視線を向け、ひらひらと手を振る。
藤野店長は僕より二回りほど歳が離れている男性で、このお店で働く唯一の正社員だ。
安っぽいメガネをかけており、普段から飄々としているその振る舞いからは、横柄さや威厳など微塵も感じない。誰に対してもいつも先に挨拶をするのは、藤野店長の方からだ。
かもめ書店の面接に訪れた時から藤野店長は物腰と言葉の両方が柔らかさを存分に発揮しており、そのことに僕は結構な衝撃を受けた。
今まで見てきたそれなりの立場にいる人間は、焦燥感を漂わせているか、反対に威厳を振るっているかのどちらかだったから。
藤野店長は、面接時に記入する簡易的なテスト用紙を印刷し忘れていたり、そもそも面接をする場所を用意し忘れたりと、締まりの無い姿を僕に躊躇なく見せた。
面接時に僕が文章の仕事をしていると言うと、藤野店長はいきなり立ち上がり事務所を飛び出した。何事かと思っていたら、その後すぐ一冊の雑誌を持ってきて、
「うちのお店は地元の出版社が発行する雑誌も置いてるんだ」
と、無邪気な笑顔を向け、わざわざ雑誌を僕に紹介してくれた。
ウェブ媒体でしか文章を書いていない僕からすれば、紙媒体の文章はかなり崇高な存在として映ったため、心の中でそこまで立派なことはしてませんと謝罪をしておいた。
アルバイト先に書店を選んだのは、これからライターの仕事をしていく上でレベルが高い文章に触れておきたいと思ったから。
商業的に出版された本は僕みたいなぱっと出の人間ではなく、文章に人生をかけてきた作家が編集者と2人3脚で作ったものだと考えている。
だから書店で働き、常日頃からそういうものに触れておくことで、自分の慢心や驕りを防いでおきたかったのだ。
志望の動機を聞かれた時、そんなことを言った。体裁的に用意した模範解答でもある。
本当は、穏やかな人間がいるところに身を置きたかったのと、別の社会や集団で生きていけるかどうかを確認しておきたかっただけ。
ただ、それだけ。
前職の現場では、いつも先輩や上司にプレッシャーをかけられていた。
それに、現場で働く期間従業員の中には、全身に刺青が入った人間や、どう見ても指を切り落としたであろう訳ありな人間も混ざっていて、時折待遇の悪さを八つ当たりされたことがあった。
書店は物静かな人間が働いているというイメージを持つ僕は、正直、静かな環境に身を置きたかったのだ。
面接時にはお店の売り場作りやPOP作りに興味が無いかと言われたが、できれば面倒なことはやりたくなかった。
けれど思っていることを正直に言うと意欲がないと判断されてしまうと思ったから「面白そうですね。もちろんやってみたいです」と答えておいた。
すると藤野店長は、嬉しそうに「そっかそっか。うん、高倉くん、面白いね」と、履歴書を眺めながら何度も頷いていた。
面接を受けてみたものの、実際に働いてみるかどうかは迷っていた。
この地域に引っ越してきた当時、ライターの仕事で食っていくのがギリギリの状態ではあったが、会社員時代に蓄えた貯金はあったため、早急にお金を稼がなければいけない状況ではなかった。
そんな僕がかもめ書店で働く決定打となったのは、採用連絡の際に藤野店長が『一緒に働きませんか』と言ってくれたことだったと今では思う。『ぜひお願いします』と言ってしまったのは、決して流されただけの理由ではないはず。
決断の際の決定打は、そんな些細なことなのかもしれない。
朝番の人の仕事を引き継ごうと売り場に向かうと、いつもレジにいるはずの大友さんが文庫本の品出しをしていた。
「大友さん、おはよう」
「あ、蒼さん。おはようございます」
大友さんは僕に視線を送ることなく、平台に面陳された文庫本を睨みつけている。眉間には皺を寄せ、わかりやすく口元をへの字に結びながら。
「今日は大友さんが品出ししてくれているんだ」
「はい。時間があったのでやれるだけやっておきました」
「ありがとう。で、何かあったの?」
「いや、ね、ここに並んでいる本を書いた人達がライバルなんだと思うと、つい」
「は?」
大友さんが睨みつけている棚に目をやると、本屋大賞に選ばれた大御所作家や、読書好きでない人にも認知されている文豪の小説が置いてあった。威嚇先はもう少し考えたほうが良いのでは。
「大友さんは、小説家を目指してるんだっけ」
「はい!だからこの売り場にいる作家さんはみんなライバルなんです」
大友さんはさらに鋭く目を細める。こういう言い方をするのは失礼だが、随分威勢が良いなこいつは。
そこに並んでいるのは、文才を携えた人間が創った文章を編集者が洗練させ、そこにイラストレーターやデザイナーなど様々な人間が関わり一冊の作品として世に出たもの。
それをライバルだと言ってのけるのは、よほどの自信家か、ただ単に無知なのか。
「大友さんは、どうして小説家を目指してるの?」
「なんか格好良いじゃないですか。文章の達人って感じがして」
一応は認めているようだから、無知ではなさそう。
「格好良いだけだったら、別に小説家じゃなくても……」
「いえ、小説家じゃないと駄目なんです」
大友さんは僕が余計な口出しをすると、大抵話を遮るように反論してくる。彼女が反論してくれるおかげで、罪悪感を感じなくては済むが。
「まあ、目標は高いに越したことはないよね」
これ以上彼女の機嫌が悪くならないように、できる限り肯定しておくと、大友さんは満足そうに
「蒼さんもそう思いますよね!来週はよろしくお願いします!」
と、この前の約束を口にした。
彼女は小説家ではない僕にどうして教えを乞うのだろう。小説家を目指す前に、文章でお金を稼ぐ方法でも知りたいのか。
だったら、虫がいいとすら思う。
けれど、この前は引き下がってもらうためだとはいえ、承諾してしまったものは仕方がない。まあいい。
僕の仕事なんて所詮誰でも出来るし、世の中には変えはごまんといる。大友さんに教えようが教えまいが、別に僕の仕事が減るわけでもない。
それに失礼だが、大友さんがこの仕事ができるとは思えないし、彼女が本気で小説家を目指しているのかも甚だ疑問だったから、試してみたいとも思った。
「あまり期待しない方が良いよ」
そう言うと、大友さんは僕の顔をまじまじと見つめる。
「蒼さんって、なんか冷めてますよね」
「……どういう意味?」
「や、なんか、余力を残しているというか……いつも本気出してない感じがします」
図星を突かれた。そんな気がした。
「真面目に仕事してるけどなあ」
僕は精一杯とぼけたふりをする。
「あ……!ごめんなさい!あたし、また余計なことを……」
「いや、いい。本当のことだし」
いつからだろう。世の中を俯瞰するようになったのは。
どこにいても何をしても、地に足が付かないような、浮ついた感覚がある。まるで自転車の乗り方を忘れてしまったかのように、当たり前のことができなくなってしまったかのように、必死になれない自分がいる。
最近は、そのことに戸惑うことすら蓋をしていた。
もちろんこのお店で働き始めた頃は、それなりに頑張ってはいたつもりではある。
書店で働くことはもちろん、接客業自体が初めてだったから、仕事を覚えるのにかなりの労力を費やした。少し早く出勤して棚のジャンルを覚えたり、勤務時間後にも残って他の人の仕事を手伝ったりもした。
文章を書く仕事を始めた時も、図書館に籠って資料を読み漁ったり、知人に話を聞きに行ったりと、できることは何でもした。
初めてのことばかりで、やり始めた頃はそれなりに充実感を感じていた。けれど、いつも仕事を終えると、時間だけが過ぎてしまったような喪失感が残った。
本当は、何かに必死になりたい。
でも、もう前のようには戻れない。
……あれ?
以前はそんなに必死になれたのだろうか。
しばらく考え込んでからようやく我に返ると、大友さんは顔はこわばらせていた。
どうやら彼女は自らの発言で僕を大分困らせてしまったと思っているらしい。彼女は度々失礼なことを言うが、優しい人間だと思う。
「気にしてないよ。むしろありがとう」
急にお礼を言われることは想定していなかったのだろう。
大友さんは今度は一瞬ぽかんとしてから「え、あ、はい。どういたしまして」と言った。ころころと表情を変える大友さんは、見ていて飽きることはない。
「おい!兄ちゃん!ちょっといいか!」
突然背後からどすの効いた威嚇的な声が僕達を襲った。
僕と大友さんが同時に振り向くと、白い顎髭を蓄えた背の低い老人が、顔を真っ赤にしながら立っていた。その人は月に2、3度ほど訪れる面倒な常連さんだとすぐに認知したのは、僕だけだった。
普段から早番に入ることがない大友さんは、この茹で蛸のようになった小さいお爺さんは一体何者なんだろうと思っているに違いない。
お爺さんは僕に右手を突き出す。
その手には検索機から印刷された紙を持っていた。すぐにわかった。どうやら探している本が見つからなくて、機嫌を悪くしたのだろう。
「何かお探しですか?」
面食らった大友さんを横に僕がそう言うと、お爺さんは、
「お探しですかって、これ見たらわかるだろ!『在庫あり』ってなっとるのに、どこにあるのか全くわからん!」
と言って、再び紙を僕に突き付ける。
「今から検索してみますので、少々お待ちください」
「お前店員だろ!これくらい見てすぐにわからんのか!」
どうしてこんなに余計な言葉がすらすらと出てくるのだろう。
「申し訳ございません。探してみますね」
苛々している感情を問答無用で押し付けられたのはさすがにむかついたが、そんなことは思って仕方がない。闇雲に感情を表に出すと、ろくなことは起こらない。僕は余計な感情を押し殺し、事務的に対応する。
検索システムと連動しているパソコンへ向かう前に、大友さんに声をかけておく。
「大友さんは4時までだよね。あとはやっておくから、先にあがって」
言ってからその言葉の意味を考える。「あがる」というのは、終わらせるという意味も含まれているから、おかしくはないはずだ。
時折そんなどうでもいい事が気になる事がある。
「あたしも探すの手伝いますよ。どの道4時過ぎちゃってるので、もう少し残って4時15分あがりにしちゃいたいですし」
純粋に僕を助けてくれる気持ちからか、それともただお金が欲しいだけなのか。まあ、どちらでもいいか。
「ありがとう。じゃあちょっと棚番を調べてくるよ」
それから僕と大友さんは、検索結果が示した棚や、その本がありそうなジャンルの棚を片っ端から見て回る。けれど目的の商品はなかなか見つからなかった。
探している本が見つからないなんてことはざらにある。
言い訳をするつもりはないが、かもめ書店の検索システム自体はかなりアバウトに作られている。検索結果で探している本の棚番がわかっても、棚の範囲が広すぎるあまり、探すのが困難なのだ。
僕や大友さんのような書店経験の浅い人間や、そもそもその棚の担当者でない人間が探すとなると、ある程度の時間や根気が必要になる。
それに、検索機のデータはリアルタイムで更新されるわけではないため、検索結果に『在庫あり』と表示されていても、売り場では既に売り切れていることもある。
さらに所詮品出しは人の手で行われるため、間違って別の棚に出しされているということも少なくない。
しばらく探しても商品が見つからなければ、売り切れていることにして注文へと回す。
僕達が商品探しに時間をかければその分お客さんの苛々は募る一方であるため、余計に時間をかけるわけにはいかない。
ある程度探しても見つからなければ、割り切って注文に回す。僕らはベテランスタッフからそう教わった。
大抵のお客さんは店員が見つけられないのであればと諦めてくれるが、中には納得がいかないように喰い下がる人もいる。
そして今回は、言うまでもなく後者。けれど、見つからないものは仕方がない。
僕は棚の端から端まで隈無く探している大友さんに、そっと声をかける。
「大友さん、これだけ探しても見つからないから、もう注文に回そう」
「え、でも、あのお爺ちゃん結構面倒臭そうですよ。絶対怒ってきますって」
「しー。声が大きいって。あのお客さんは常連さんで、時間がかかる方のが面倒なんだ。それに、どのみちもう怒ってるじゃないか」
「でも、怒られるってわかっててお爺ちゃんのところに行くの、なんか嫌です。負けたような気がしますし」
「僕が行くよ」
躊躇っている大友さんにいいところを見せたい訳ではない。ただ、彼女にわざわざあのお客さんの相手をさせる必要もない。それに、冷めている僕はこの役が向いている。
懸命に探したふりをするために、小走りでお客さんのもとへ向かう。
「大変申し訳ございません。棚を確認したら既に売り切れておりまして……」
予想通り、お客さんは僕に怒りをぶつける。
「『在庫あり』って書いてあるだろ!これは嘘なのか⁉︎この店は嘘の情報を流してるのか!」
一気に沸点に到達して早口になったお客さんの前で、僕はひたすら話を聞いているふりをする。火はいつまでも燃え続けられない。勢いが収まるのを待てばいいだけ。
店内に響き渡る罵声は、しばらくすると勢いがなくなってきた。
それでもお客さんは、必死に自分を正当化するために今度は次第にお店の経営方針についてや書店業界への文句まで言い始めた。これは長期戦になりそうだ。
そう思った僕は、慣れない笑顔を作りながら「そうですね」「おっしゃる通りです」と唱えておく。
やがて言いたいことが尽きたのだろう。最後は、次回来店した時までにその本を仕入れておくという代替え案を承諾してくれた。
完全に勢いがなくなったところで、僕は残り火を踏み消す。
「ためになるお話を聞かせてくださりありがとうございます。ぜひまたいらしてください」
「おう、また頼むよ」
「はい、ぜひ」
「兄ちゃん、あんた、大学生か?」
「いえ」
「あんた、学生じゃないのにこんなところに居ちゃいかん。もっとまともな仕事をしたらどうだ」
つくづく面倒な人だ。
まともに聞いていたら、よろしくない感情が一気に押し寄せてきそうだ。このお店を馬鹿にするような発言を聞いていると、さすがに気分が悪くなる。
その直後、お客さんの後ろにあった本を載せている台車が勢いよく傾いた。直後、ぐらりと傾いた台車はガシャン!と大きな音を立てながら、なんとか体勢を維持する。大友さんが力一杯台車を引っ張ったのだ。