注文品を持って来たのは一ノ瀬さんだった。

呆気(あっけ)に取られていると、彼女は慎重にソーサーごとコーヒーカップをテーブルに移す。そのぎこちない動作からは十分に緊張が伝わってきたから、僕はテーブルの上にソーサーが無事に着地するまで息を殺した。


「あ、えっと。郁江(いくえ)さんが足りない材料を買い出しに外に出ちゃってて。わたしが代わりに」


どうやら店主は郁江さんと言う名前らしい。

接客用に精一杯取り繕った表情を僕に向ける一ノ瀬さんを見ていると、書店での彼女の姿を思い出した。

というか、緊張しいの一ノ瀬さんに良くもまあ易々(やすやす)と店番を頼めるものだ。

幸い店内には僕ともうひと組、若いカップルのお客さんがいるくらいだから大丈夫だと思うが、お客さんが混んできたらどうするつもりなのだろう。なんて、余計なことを考える。


「一ノ瀬さんって、このお店でも働いてるの?」


余計なことを聞いてしまうのは悪い癖だ。そのせいで、過去に上司と何度もトラブルになったことがある。


「いえ。お手伝いしているだけです」

「え、でも、お店を任されちゃってるけど」

「土日もたまにお手伝いさせてもらってるので、これくらい大丈夫です。それに、郁江さん、すぐに戻ってきますし」


悪いが僕には理解ができない。見方を変えれば使いパシリにされているのと同じではないのか。そのつもりがないと言うのなら、きっちり対価を払わなければいけないのでは。

無論、関係の無い僕が関係の無い事を口出しする権利はない。けれど、胸の中に沸々と黒い感情が湧いてくる。


「一ノ瀬さんは、いい人だね」

「ありがとうございます」


褒める意味で言った訳ではなかった。けれど、彼女は表情を明るくし、深々と頭を下げた。

それから、一ノ瀬さんは気恥(きは)ずかしそうに「ごゆっくりどうぞ」と言って、カウンターに戻っていった。

そこからは、もう仕事どころではなかった。彼女がどう動くのかという好奇心が優ってしまったのだ。

カウンター席にいるカップルが一ノ瀬さんにオーダーを頼む。

ミルクティーとオリジナルコーヒーを1つずつ。ビーフシチューとオムライス、食後にブルーベリーのケーキと、結構なボリュームだった。

まさかオーダーメニューまで作り始めてしまうのではないだろうか。良い人である一ノ瀬さんのことだからやり()ねないと思いながら、僕は広げたノートパソコンの画面越しに彼女を観察する。

すると一ノ瀬さんは、注文を丁寧にメモしながら、


「すみません。今お店の人が買い物に出ちゃってて、お食事の方は少しお時間いただいてもよろしいでしょうか」


と丁寧に事情を説明していた。カップルの二人は若干戸惑いながらも、「大丈夫ですよ」と、一ノ瀬さんに寛容な態度を示したから僕は安堵(あんど)した。

が、その安心も束の間、カップルの男の人の方は、とりあえずドリンクだけ先に欲しいと言った。

さすがに何も提供できないのはまずいのでは。