どこにいても、何をしていても、いつもどこか息苦しい――こんな自分のことが大嫌いだ。
しかしそんな俺を変えてくれた一人の少女がいた。彼女の名は……
「はあー、なんで俺が」
西日に照らさせながら俺は足早にあるクラスメートの家に向かっていた。そいつの名前は斎藤リン。
去年の文化祭以来一度も学校に来ていない不登校のやつだ。
 原因はおそらくその文化祭だろう。彼女は実行委員に楯突いたことによりクラスのほとんどから目の敵にされた。
 俺はその一員に入っていたわけではないが、それでもどこか彼女を避けていたと思う。
 そんな斎藤と俺は二年次でも同じクラスになった。
「あの時断っておけばよかったな」
 放課後、俺は担任の吉沢に呼び出され、職員室を訪れていた。
「おー望月、来たか」
吉沢は腹がどっぷりと出たおじさん教師だった。いつもコーヒー臭かったし指毛もボーボーだったがその明るい性格と
豊富な指導経験で意外にも生徒からは人気だった。
 俺もこの人のことは好きだ。
「どうしたんですか。返却物ならご自分でどうぞ」
 普段冗談なんて言うことはないがこの人なら大丈夫だろう。すると吉沢はにやっとしながら言った。
「そんなんじゃないって」コーヒーくさい。
「お前、斎藤と家が近いんだってな。実は斎藤に渡すものがあるんだが届けてやってくれないか」
 俺の微妙な表情の変化を感じ取ったのか、吉沢は
「まあ、気持ちはわかる。お前も斎藤とあまり関わったこともないだろうし、何より
女子だしな。年頃の男が意識しちゃうのもわかるけど……担任の頼みとして一個、聞いて
くれないか」
 吉沢はそう言うと俺にクリアファイルに入ったプリントを渡してきた。
「いやそう言うわけじゃ……」
「じゃ、これから職員会議だから。生徒は出てけよー」
 吉沢は軽く言うと俺を外に追い出し、ドアをぴしゃっと閉めた。
 そして今に至るわけである。
 斎藤の家は俺の家の真後ろにあった。ただ通り抜けができないためわざわざ裏側の道を使わなければならない。
よってものすごく遠回りになって面倒なのだ。
 そう本当に面倒なことだ。そもそも斎藤は親の事情でこっちに越してきただけで、俺は近所だからといってあまり面識が
ないのだ。(いや同じクラスではあったがしかし……)
 そんなこんなで歩いていると斎藤の家が見えてきた。全体がレンガ調で出来ていて外壁はベージュ、屋根は
オレンジと白のミックスで、玄関には少し青みがかった緑色のドアがある。庭には木が一本生えているが、剪定された後もなく葉や枝が無造作に広がっている。花壇には、すっかり枯れた雑草まじりの花があった。
 おそらく造りたての頃はもっと鮮やかだったのだろう。しかし今はそんな気配を微塵も感じない。
 インターホンの前に立つ。すぐ横には、『斎藤』と書かれた表札があった。
 俺はどことなく緊張していた。なぜなら相手は斎藤リンだからだ。協調性が皆無で何を考えているかわからない。
容姿端麗なだけあって自然と人が寄ってくるが、その全員を弾き飛ばすようなやつだ。正直関わりづらいし、どう話せばいいかわからない。
 俺は深呼吸を入れる。思えば誰かの家を尋ねるなんて緊張して当たり前のことだ。全くの初対面として接しよう。
よし。これならいける。
 俺はいつの間にかその場に立ちすくんでしまっていた。自分の影の長さに気が付く。
いかんいかん。日が暮れる前に早く済ませよう。
インターホンのスイッチを押そうとした矢先、背後に足音を感じた。
「あれ、君は……」
 慌てて振り向くと、そこには同い年くらいの女性がいた。肩まで伸びたその髪は寝ぐせがついていて所々はねていたが、
それでもつやがあった。目は二重で、それでいて少しばかり垂れている。
 背丈は平均的で体型も普通だった。
 一番目を引いたのは彼女の服装だった。男性用のワイシャツだろうか。身長に全く合っておらず、裾が膝くらい
まできている。袖も長すぎて手が見えない。
 明らかにファッション、というよりかは汚れないための作業着といった感じだった。
「ええと、斎藤リンさんはいらっしゃいますか」
 なぜかかしこまった口調になってしまった。
「私がそうですけど」
 そう、彼女が斎藤リンだった。相変わらずつっけんどんな口調は変わっていなかったが、しかし以前よりも少しだけ
生気のある顔をしていた。
「何か用?」
 唖然としていると斎藤は声をかけてきた。
「あっ…えっと、プリントを…」
「プリント?」
 ファイルを渡すと斎藤はそれを無表情で眺めていた。
「ああ、進路の話か。別にもう行く気ないんだけどな」
 斎藤のぼそっと放った言葉に俺は思わずえっ、と聞き返しそうになった。が、我慢した。
それよりも早く帰らないと。斎藤とつるんでいると噂されたら面倒だ。
「じゃあ、俺はこれで」
「あっ、ちょっと待って」
 足早に立ち去ろうとした俺を斎藤は呼び止める。
「君、望月君だよね。…望月求太郎君」
「えっ…」
「同じクラスだったの覚えてる。プリント、ありがとう」
 驚いた。まさか自分の名前を覚えているとは思わなかったからだ。
 言葉に詰まる俺を見て斎藤は困惑した様子だった。何かしら会話を続けなければ。
「えっと…もう学校って、来ないの?」さっき斎藤が言っていたことだった。
「うん…ちょっと事情があってね」
 彼女は少し複雑な表情をしていた。理由は明白だった。これ以上突っ込むべきではないだろう。
 しかし俺の脳みそからの電気信号は思慮分別よりも好奇心の方が速かった。これは俺の悪い癖だ。わかっているくせに
本人の口から聞かないと納得できない。気になって仕方がないのだ。
 そして今回もそれと同様だった。
「それってさ…去年の文化祭が原因……とか?」
やってしまった。急速に頭の熱が下がっていくのを感じる。
「あっ、ご、ごめん!本当にデリカシーのないことを聞いた。本当にごめん」
遅れて正常な信号が届く。しかし斎藤は怒るわけでもなく、むしろ少しだけ笑っていた。
「謝りすぎだって。別に気にしてないからいいよ」斎藤が言う。「あと、休んでるのはそれが原因じゃないから」
「そ、そうなの?」
「うん。教えてあげてもいいけど…」
 彼女は何か考えるそぶりをしていた。
「今日はちょっと都合が悪いから明日またうちに来てくれる?」
「あ、明日?」
「そう。たぶん、家にはいるから、学校終わったら来て」
「え、ちょっと」
「じゃ」
 斎藤はそそくさと家の中へ入っていってしまった。
俺は急な出来事にその場に立ち尽くしていた。口が大きく開いたままだった。
あまりにも不細工な顔だったので見た人はきっと笑い転げるだろう。それほど滑稽な顔だった。
 
 翌日の昼休み、にぎやかな声が飛び交う教室で俺は一人弁当を食べていた。斎藤の不登校の理由。それがあの文化祭でない
としたらいったい何なんだろう。気になる。
 なんとなく行きたくない、それか学校の授業がつまらないだろうか。いやもしかすると、
「あんな幼稚な授業受けてるくらいなら一人で勉強したほうがましだわ」という具合に
 いつかは大学に飛び級してしまうほどの天才なんだろうか。
 はたまた何か病気を患っているか。だとしたら俺の苦手な分野だ。また俺の悪い癖が出てしまうかもしれない。
今日に備えて何があってもいいようにしっかり脳に言い聞かせておくべきだ。
「よお、望月」
 ふと話しかけてきたのはクラスメートの赤石と草野だった。俺の嫌いなやつらだ。なぜなら俺がテストで悪い点数をとる度に執拗にバカにしてくるからだ。見返そうにもやつらは頭がいい。結果バカにされるだけで何も言い返せず、今では
いいストレス発散器具にされている。
「なに……?」
「いやあ、いいところにいたからさ、話しかけようと思って」赤石が言う。「なあ、草野?」
「うん、お前、この前の数学ダメダメだったじゃん?だから教えてあげようかなって」
「別にいい」
 目も合わせず冷たく返したつもりだ。
「ほんとかよ?よーくそんなダメダメなのに立派な志望校書けるよな。やめといたほう
がいいって。あ、草野お前、こいつに化学教えてもらえよ。こいつの受験科目だから」
「えーいいって。おれより点数低いんだから」
「そーだったなー」
 二人はげらげら笑いながら去っていった。怒りというよりただただ辛かった。お前らにそんなこと言われる筋合いはない……そう言い返せればいいのだが。
 なんだかせっかくの弁当を戻しそうだった。

 放課後、夕日が教室の窓から差し込み、真っ黒な影をつくっていた。影は俺の背中に大きく生えている。
結局、あの後もやつらは絡んできて、何も言い返さない俺に言うだけ言って満足げに帰っていった。今さっきだってそうだ。
そしてこれが毎日続いている。
 ……そもそもどうして学校なんてところに自分から行かなければならないのだろう。
学校はつまらないし、それにバカにされる。なのに俺は毎日通っている。どうすればもっと気楽に通えるのだろう。
 「もういっそ不登校に……」不登校になりたい。だが俺がどことなく避けていた斎藤は不登校で、俺が不登校になれば
神様はきっと『筋の通せないお前は失格だ』とか言って天罰を下すだろう。
 ちらっと時計を見る。今の時刻は四時ちょうど。
「行くか……」
 俺はやるせない気持ちを抱えながら教室を去った。

 玄関のチャイムを鳴らした。すると斎藤の声がノイズ混じりにに聞こえてきた。
「勝手に上がってきて。階段を上った先」そこにある部屋という意味らしい。
人様の家に許可があるとはいえ、自分から入っていくのは少し気が引けた。
 斎藤家の中は、失礼ながら外見に反して綺麗だった。といってもまだまだ新築なので当たり前かもしれないが。そして
確かに右手に階段があったのでのぼっていくと正面に名札もなにもない扉があった。おそらくこの部屋だろう。
「望月です」ノックしながら言う。しかし応答がない。どうかしたのだろうか。もう一度尋ねてみたがやはり返事がなかった。仕方なく俺は言ったからという保険をかけたうえで中へ入っていった。

 扉を開くと一気に西日があふれ出てくる。俺はまぶしさに耐えながらも部屋へ進んだ。
少し埃臭い部屋だった。
 斎藤は、ちょうど光が当たらない場所、部屋の中心にポツンといた。
 彼女はイーゼルに乗った一枚の絵と向き合っていた。右手には筆を持っている。その絵にはふたりの少女が描かれていた。
互いに向かい合い両手で手をつないでいて、非常に仲睦まじい様子が見て取れる。
 しかし俺はこの絵にどこか違和感を覚えた。違和感の正体。それはこのふたりの容姿だった。
 なんとこの少女たちは全くの同一人物だったのだ。淡い青の瞳に三つ編みにされた栗色の髪。靡いた数本の髪は日の光に
照らされて金色に輝いていた。
 瓜二つの双子でも鏡に映ったものでもない。全くの同一人物で全くの別人だった。
 そしてこのふたりからは屈託のない笑顔が見て取れた。互いを信頼しきった先に得られる笑顔、そんな気がした。
きっとふたりには恐怖とか、不安とか、そういったものはない。あるのは純粋な心だけだった。
 俺はこの絵に度肝を抜かれた。はたからみたら不気味と思うのかもしれない。しかしそれ以上にこの絵には何か俺にとって
とても……言葉では表しづらいがとても大事なことを伝えてくれている気がした。
「すごい……」思いがけず口に出ていた。「斎藤、すごいよ!」
 斎藤は興奮気味の俺を無視して筆を取り続けた。どうやら集中すると周りの音が聞こえなくなるタイプらしい。
 そこで俺は近くにあった椅子に座り、彼女の作業が終わるまで後ろで待たせてもらうことにした。
 椅子に倒れこむように座る。いまだに興奮が続いていた。自分の鼓動がうるさかった。
 あの斎藤が、クラスで居場所のなかった斎藤が、今はとても大きく、そして輝いて見えた。絵も彼女もその両方に俺は
衝撃を受けていた。
 深呼吸をし、少し落ち着いてから俺はふと周囲を見渡してみた。そういえば、絵に目を奪われて全く気が付かなかったが
斎藤はやはりあのダボダボの服を着ていた。やはりこの服は絵の具で汚れないための作業着だったのだ。
 そして斎藤の周りにはたくさんの画材があった。道具を見るにこれは油絵のようだった。瓶に入った油、木箱の中で散らかったチューブ絵の具。そして木製のパレット。
 パレットにはいくつもの色が塗り重ねられていた。干上がった色、まだ光沢のある色。綺麗な色や、暗い色。それらが
織りなす厚みと多様な色彩は、彼女の今までの努力を容易に想像させた。
 だんだんと西日が弱くなる。足元近くの夕日は部屋の塵をチラチラと光らせる。少し体を伸ばすたびに椅子がぎしぎし鳴る。筆がキャンバスをこする音が聞こえる。
 とても静かで、とても落ち着く空間だ。今だけは学校のことなど忘れられそうだった。
 斎藤は休んでいる間、ずっとこんなことをしていたのだろうか。だとしたらものすごく憧れを感じる。
 ふと筆を置く音が聞こえた。どうやら作業がひと段落したらしい。斎藤は椅子に座ったまま欠伸をしている。
「ごめん、ほったらかしにしてて」斎藤は思い出したかのように言った。
「いや、大丈夫。……全然退屈しなかったからさ」
「そっか」
「うん…」
 なんだかギクシャクしてしまった。さっきの静けさはとても豊かで充実していたのに今は居心地が悪かった。
「あの、昨日はごめん」
 斎藤が突然この沈黙を破った。
「一方的に話を進めちゃって。私とつるんでて君まで悪く見られるのはよくないよね。だからもし嫌だったこの話はなしに…」
「いや、大丈夫」
 俺はきっぱりと言った。斎藤は一瞬驚いていたが納得してくれたようだった。
 今度は俺から口を開いた。
「あの、その絵ってさ、斎藤が描いたの?」
 俺はその場に居たにもかかわらずこの質問をした。きっかけがほしかったからだ。
 すると斎藤は急に真剣な顔つきになった。普段は穏やかだが仕事となると突然、職人の顔になる、まさに今の斎藤は
それだった。
「この絵、どう思う?」
「えっ」
「私が描いた。この絵、どう思う?」
 急な質問に俺は動揺した。何か試されているんだろうか。しかしこの絵に対して思ったことがあるのは確かだ。
 俺はおそるおそる自分の感じたことをそのまま伝えた。
「俺、絵画とかを見ても何がすごいとかよくわからないんだ。例えばピカソとか、ごちゃごちゃしててよくわからないし、
そもそも抽象的すぎるし。パッと見ただけで何を伝えたいとか全然理解できないんだけど…」
 ちらっと彼女を見た。彼女は急かすわけでもなく、ただ真剣に俺の話を聞いていた。
「でもこの絵は違った。見ただけで心に響いたんだ。視野の狭い俺に新しい価値観を与え
てくれたっていうか。えっと、言葉ではうまく表しづらいんだけど、とにかく初めて絵を
見て感動ってものを知ったんだ」
 斎藤は俺の言葉を胸の中で反芻していた。なんだか珍しく嬉しそうな顔だった。
 やはりあのころとは違うようだ。
「そっか。よかった」
 斎藤は再び自分の絵と向き合う。
「この絵はね、ちょうど私が学校のことで悩んでいる時に描いたんだ。君も知ってると思うけどあの文化祭の日ね」
 一瞬どきっとした。
 彼女は絵の中の左側少女を指さした。
「見てよ、この子。この子はね、ずっと周りから誤解されてきたんだ。実はこの子耳が聞こえないんだ。それで空気が読めないだの、気持ち悪いだの言われてきた。この子はひたすら耳が聞こえない自分を責めた」斎藤は続けた。
「でもある時気づいたの。周りを変えることはできないけど自分を変えることはできるって。
耳が聞こえなきくてもそれが自分なんだって気づいたの。それでようやく…」
 斎藤はもう片方の少女を指さす。
「本当の自分と向き合うことができた」
 本当の自分。それが俺の心を動かしたんだろうか。
「私もそうだった。私、集団行動が苦手でね、個人とじゃなきゃまともに話せないんだ。だから誤解もされやすかった。
正直、しんどかったし、いつかやめたいとは思ってた」
 彼女は遠くを見つめていた。
「だからあの文化祭はいい転機だった」
「どういうこと?」
 斎藤の表情が曇る。
「ごめん。無理だったら大丈夫」
「いや、せっかくだから…」
 彼女は俺に向き合った。どうやら話してくれるようだ。
「あの時、実行委員がクラスの女子全員で衣装買おうって話をしたんだ。すごいキラキラしたやつ。
でも私はそんなキャラじゃないし、苦手だったから、代わりに別の仕事をさせてくれって頼んだ。そしたら……」
「そしたら?」
「空気が読めない、とかで嫌われた。まあ、もともと目は付けられてたから仕方ないね」
 斎藤が吐き捨てるように言う。
 俺はこのとき困惑していた。なぜなら聞いた話では斎藤が持ち前の協調性のなさで企画を頭ごなしに否定した
らしかったからだ。
 すると斎藤がうつむきながら俺に声をかけた。
「望月君、なんで私が学校行かないのか気になってたよね」
「えっ、うん。まあ…」
「理由はこれ」彼女の指はあのふたりの少女をさしていた。
「絵を描くこと?」
「まあ、それもそうなんだけど」
 斎藤が絵のほうを向く。
「君も知ってる通りそのあとは学校に行かなかった。最初はただ行きにくかったってだけなんだけど…でも思ったんだ」
「学校って場所はきっとこれから先も私を受け入れてくれることはない。だったら自分で創ればいいんじゃないかなって。
本当の私は私しかわからない。だからこの子たちみたいに自分自身をごまかさないって決めたの。自分を最大限に発揮できる場所、それが絵を描くことだった」
 斎藤は振り返って俺を見る。さっきの曇り顔はどこかへ消えていた。
「だからもう学校になんて行かない。それが私の不登校の理由」

 辺りがすっかり暗くなったころ俺は帰路についていた。一本道を街路灯が等間隔に照らしている。
 斎藤の不登校の理由。それはどうやら自分らしさを追及した上での決断だったらしい。
彼女は学校という合わない環境より自分の世界を選んだ。
 そして俺は斎藤に対して誤解していたようだ。彼女は口下手なだけで、本当は輝くような才能をもつ、俺なんかとは比較
出来ないほどすごいやつだった。
 なのに俺は周りに流され彼女を避けた。これは立派な罪だと思った。
 十字路に差し掛かる。俺の家がある側の道路は街路灯の一つもなかった。
 ふと斎藤に言われたことを思い出す。それは斎藤があの少女たちの絵について話しているときだった。
「望月君、さっきこの絵に感動したって言ったでしょ」
「うん」
「てことは、君も何か悩んでてこのふたりから解決のヒントを得たってことじゃないかな」
「悩んでること?」
 思い当たることと言えばそれは赤石や草野だった。
「確かにそれははある。……不登校になりたいって思ってしまうくらい」
「へえ、いいじゃん。なってみれば。きっと君にもヒントは見つけられるよ」
「さっきから言ってるヒントって何」
「さあ」
 彼女は何食わぬ顔をして言う。
「でも私は見つけられた。だから君もいつか見つかるといいね」
 斎藤は締めくくるように言った。
 解決のヒント?確かに学校で生きづらいと感じたことはあるがそれでもやはり不登校
にはなれない。斎藤のように特別な才能があるわけでもない。勉強をするのも赤石や草野
に対抗したいからだし誰かにちやほやされたり周りの評価がほしいからだ。
 よくよく考えると俺は今まで自分と向き合ったことなどないのかもしれない。
 
 数日後、俺は再び斎藤家を訪れていた。布団の中で考えた結果、やはり今まで彼女を避けていたことについて謝らなければ
いけないと思ったからだ。
「入っていいよ」
斎藤は今日もあの埃臭い部屋の中心にいた。そしていつも通りイーゼルを立てていた。
「何?」
 斎藤から話しかけてきた。どうやら今日はまだ集中モードではないらしい。
 俺は一呼吸置いて心を落ち着かせてから、一歩踏み出した。
 ところで話は変わるが俺にはこの前の電気信号もそうだが、実はもう一つ悪い癖があった。
それは緊張するとどんくさくなってしまうことだ。
 踏み出した瞬間、制服の袖が近くの棚の角に引っ掛かった。その上には運悪くキャンバスが置いてあった。揺れる
キャンバス。そして何枚かは大きな音とともに埃を舞い上がらせながら地面に落ちた。
「あっ、ご、ごめん!どんくさくて……本当にごめん」俺は慌てて謝った。しかし斎藤は怒るわけでもなく、むしろ少しだけ
笑顔だった。
「謝りすぎだって。別に何も描いてないやつだからいいよ」
 斎藤は少し笑顔のまま続けた。 
「なんだかこの前もこんなことがあった気がする」
「う、うん。そうだね」
 俺と斎藤はしばらく話し合った。この前会ったときよりかは少し仲良くなれた気がした。
 そして俺はついに本題へ乗り出した。
「斎藤、実は俺まだ謝らなきゃいけないことがあって…」
「まだあるの?」
「うん…」
 俺は話す内容を思い出す。
「斎藤、この前自分のこと誤解されやすいって言ってたでしょ。実はなんだけど俺も君のことを誤解してきた方の人間なんだ。まんまと噂に流されてよく知りもしないのに勝手に斎藤のことを避けてた」 
 彼女の目を見て話す。
「だから今日はそのことを謝りに来たんだ。今まで本当にごめん」
 俺は頭を下げた。斎藤がどんな顔をしているのかわからなかった。が、誠心誠意、謝罪したつもりだ。
 すると斎藤が口を開く。
「頭上げなよ。もう昔のことだからいいよ」
「い、いいの。てっきりもう顔も見たくないって言われるかと…」
「あー別に大丈夫、大丈夫」彼女は手を横に激しくふる。
 なんだかあれだけ身構えていたわりにあっさりと終わってしまった。
「それより見つかったの?」
「えっ」
「だからー、君の解決のヒント」
「あー、そのことも考えたんだけどさ……」
頭をポリポリと掻いた。少しのふけが床に落ちていった。
「やっぱり、俺には斎藤みたいな特別な才能なんてない。だからとりあえず学校には通うことにするよ。でも…」
「でも?」
 言葉に詰まる。胸の奥から何か熱いものが噴き出して来そうだった。
「でも、もう俺は、あの時の絵や斎藤みたいにもう自分を卑下しないって決めた。思えば俺、いっつも他人の評価を大事にして生きてきた。だから誰かに馬鹿にされたくないからってする勉強とかもうやめる」
 俺は斎藤を見ながらきっぱり言った。彼女もまた、こちらをまっすぐ見ていた。
「これからは、ちゃんと自分と向き合ってやりたいことを決めていく。それが、俺の解決のヒントだと思う」
 荒い息づかいが聞こえる。鼓動の音が俺の中で反射している。
 斎藤は笑顔というより、にやにやしていた。まるで正解とでも言いたげな顔だ。
「そう。見つかってよかったね」
 すると斎藤は部屋のクローゼットへ向かい何かを探し始めた。
「はい。これ」
 斎藤から手渡されたのはあの少女たちの絵だった。
「えっ、どういうこと」
「君すごい気に入ってみたいだし。それにさっきの決心が揺らがないように、ね。それ
あげるよ」
 斎藤がグイっと絵を押し付けてくる。
「でも、斎藤が描いたんだし…」
「私は自分で描いたし、もう揺らぐことはないから大丈夫」
 もう一度グイっと押してきた。
 仕方なく俺はその絵を両手で受け取った。
「ありがとう」
「うん」
 斎藤は再びイーゼルの前へ戻っていく。
 俺は改めて絵を見た。やはり何度見てもこのふたりは幸せそうだ。俺もすぐには無理でも少しずつこれに近づいていきたい、そう思った。
「それよりさ、私誰かに自分の絵を見せるなんてことなかったからずっと感想とか聞きたいって思ってたんだ。だからこれからもちょくちょく絵の感想を聞かせてほしいって思ってるんだけど」
 斎藤がそう言った。俺は彼女に自分というものを気づかせてもらった。それに俺は彼女の絵がすごく好きだった。
 だから断る理由など見つかるはずもなかった。
「うん。もちろん」
 俺は少女たちの絵を強く抱きしめながら深呼吸をした。少しだけ息がしやすくなった気がした。