二年前のあの日、私は世界が壊れていく音を初めて聴いた。

 真っ白な壁に囲まれた無機質な病室で、ベッドで横たわる母の瞼がゆっくりと降りていくのを私はみていた。

「美咲、そんな顔しないで。……笑って、笑顔をみせて。」

 瞼が完全に閉じ切る前に、薄く開いた唇から絞り出すような声で母は私にそう言った。それが、母の最後の言葉だった。山間へと落ちていく夕日から放たれたひかりが部屋の小窓から差し込み、閉じきった瞼を、母の顔を、強く照らしていた。程なくして、耳障りなアラート音が室内に響き渡ったのと同時に誰かの叫び声が聴こえてきて、今までに味わったことのない耳鳴りがした。不快で、頭の中で鳴り響くその音は、小刻みに震えながらも必死に身体を支えようとする私の両足の力を奪っていった。あとになって、あれは私の叫び声だったことを知り、耳鳴りと叫び声の混じりあったその音は私の世界が壊れていった音だったのかもしれないと、いつからか思うようになった。

 世界は、脆い。世界は、弱い。大切な人がいて、話し笑って、時に喧嘩して、昨日まで当たり前のように広がっていた自分の生きるこの世界は、たった一つの出来事をきっかけにいとも簡単に粉々に砕け散ってしまうということをまだ16年しか生きていないのにも関わらず私は知っている。いや、知ってしまった。

 私と同じくらいの年の子でそれを知っている人は少ないだろう。私の周りにいるクラスメイト達もきっと知らない。今を重ねていく未来が輝かしいことを、目の前に広がる世界がずっと続いていくことを、当たり前だと思って生きているのだと思う。

 朝のホームルームが始まるまでのこの時間、私は楽しげに和気あいあいと話すクラスメイト達の声を聞きながら、晩夏の香りが漂う教室で窓辺に視線を置き、そんなことを考えていた。別に何をみたい訳でもないが、ぼぅっとしたい時はどこか遠くの方に視線を置くのに限る。

 窓の向こうでは、校庭を囲うようにして佇む木々が風にそよがれ、揺れ動いた葉が夏のひかりを反射してる。限りなく透き通らせた青が水平線の先まで支配する空は、絵の達者な神様の一つの作品にすらみえる。以前はそんな景色を綺麗だと思えたはずなのに、私の心は波一つ立たず冷えたまま。

 ここから景色を眺めるのも、もう二年になる。

 子供の頃から絵を描くことが好きで美術系の高校へと進学した私は、この学校の方針や今や名を轟かせる卒業生達の名前に惹かれ、わざわざ県外であるこの高校に入学し寮生活を送っている。

 夢にまでみた高校生活は私の思い描いていたキラキラとしたものとは全く違った。退屈で、壊れた蛇口から滴る水の如くゆっくりと流れる時間の中で、私は無意味に二酸化炭素を吐き出す。二年前のあの日、高校に入学する少し前に母を亡くしてからの私は何をしても浮かばれなくなった。全てに興味を無くし、入学してからも誰かと話す気にすらなれず、クラスメイトに話し掛けられても当たり障りのない言葉をひとつふたつと返すだけに徹していたら、今では必要がある時以外は誰も私に話し掛けてくれなくなった。いつも一人だった。気付けば私は、笑うことも、笑い方すらも、どんな風にしていたのか思い出せなくなっていた。こんな退屈で壊れた世界で、今この瞬間も絶え間なく動き続けている私の肺や心臓は、何の為に動いているのだろう。生き続ける意味なんて私にはあるのだろうか。

 この二年の間、私の心は、頭は、その疑問の答えをずっと求めている。 

「おーい、静かにしろ。ホームルームを始めるぞー」

 騒々しかった教室がふっと静かになった気がして教卓に視線を送ると、既に先生が立っていた。四角い眼鏡がトレードマークで別け隔てなく生徒に接することで生徒からの評判は学年一の白石先生が私達の担任だ。

「起立、礼。」という学級委員の掛け声が鼓膜に触れて、一限はなんだっけと椅子に腰をおろしながら記憶を辿る。そして思い出す。私の大嫌いな数学だと。いくら美術系の学校だとはいっても、一般の高校と同じカリキュラムは勿論ある。

 時間割なんていちいち覚えてないが、数学から一限が始まる日は最悪な時間割だったことを思い出し、私は小さくため息を溢した。誰にも聞こえないくらいに、ひっそりと。

 そして、またいつものように窓越にみえる景色に視線を置こうとした時、「今日は皆に紹介したい子がいる」と白石先生が笑みを浮かべながら教室の扉の向こうへと左手を差し伸べる。

 クラスメイト達が唐突な出来事に一瞬でざわめき始める中、一人の女の子が教室の中へと入ってきた。肩にかかる程度で綺麗に切りそろえられた髪には艶があり、ほんのりと茶色に染められている。大きな目に髪色と同じような茶色の瞳を持ち、彼女の纏う白い肌が余計にそれを際立たせていた。背筋の伸びた綺麗な姿勢で白石先生の隣に立ち、小さく頭を下げたあと、彼女は笑みを浮かべた。

「えっ可愛いんだけど」
「今の時期に転校生とか珍しくない?」
「早く名前教えてよ!」

 周りにいる男子も女子も浮き足立ったように各々が好きなように口にする。今は9月の初旬。つい1週間前に夏休みが終わったばかりで、確かにこんな時期に転校生なんて珍しいなと思いながらも、白石先生が彼女の名前を黒板に書き始めたのと同時に私は窓辺に視線を向けた。関係ないと思ったからだ。どうせ私と友達になることなんかないのに、彼女の名前やどこの県から来たなどというお決まりの常套句(じょうとうく)を聞いた所でなんの意味もない。そう、思った。

 クラスメイト達の笑い声や話し声が鼓膜に触れる中、窓の向こうで揺れ動く木々や葉に意識を向ける。

 ──いつまで続くんだろう。
 ──一体いつまでこんな退屈な人生を送らなければならないのだろう。
 ──ねぇ神様、私も早くお母さんの所に連れていってよ。

 みながら、心の中でぽつりぽつりと声にならない叫びを口にしていた時、かつかつという大きな足音が鼓膜に触れた。思わずその音の方へと顔を向けると、ついさっきまで白石先生に紹介されていた彼女がこちらに向かって歩いてきている。

 私と目が合っている気がするのは気のせいだろうか。その考えが頭に浮かんだ数秒後には、彼女が私の前に立っていた。綺麗な髪が音もなく揺れて、陽だまりのような笑顔を向けてくる。私があまりにも唐突な出来事にあっけに取られて彼女の顔に見とれていると、形のいい唇がゆっくりと開いて、こう言った。

 「初めまして。私は、大橋瑠衣。ねぇ私と友達になって?」