どこにいても、何をしていても、いつもどこか息苦しい――こんな自分のことが大嫌いだ。
別に他の誰かじゃない。
自分で自分をその状況へと陥らせてしまったのだ。

最低。
裏切もの。
消えてしまえ。

心の中に潜んでいるもう一人の自分が、止め処なく言葉の刃物を浴びせてた。
学校にいるときも、家にいるときも、朝から夜まで、ずっと、ずっと。
ここ数日は寝ているときもそうだったかもしれない。
目が覚めれば、赤黒い血の代わりに透明の涙を流していた。

不安で、
悔しくて、
情けない。

でも、そう感じてしまうのはまぎれもない〝わたし〟自身のせいだった。

  * * *

体育館に響く歌声に気づかされる。

あと一時間もすれば、私の手には卒業証書が入った筒がある。
その筒を掲げてクラスメイトや友達と写真を撮っているかもしれない。
そう考えただけで、立っている体がパイプ椅子へと吸い込まれそうになった。
徐々に口ごもり始めて、やがて言葉を紡いでいた私の口は完全に閉じ切っていた。
誰にも言われてないはずなのに、邪魔者のレッテルを貼られている気がしてしまう。
本当は分かっている。そのレッテルは私自身が勝手に貼り付けたものにすぎないと。
ちょうどサビ部分が歌われる、というところで自問自答を繰り返した。
 
私はこの場にいていいのだろうか。
このまま大嫌いな自分を卒業させていいのだろうか。
一体私は、何から卒業するというのだろうか。

そもそも卒業式は、学生たちが次のステージへ進むことを祝うためのものだ。
大学なり専門学校、はたまた社会人、そんな各々が決めたステージへ進むための節目として設けられた式典。次なるステージが用意されていない私に、その晴れ舞台に参加する資格なんてないのだ。

周りを見れば、私を除く生徒全員が艶のある瞳をまっすぐにしている。
過去が溶けていくこと。
未来が彩られようとしていること。
そして――新しい一歩を踏み出すこと。
 
そんなことに、一切の迷いはなく感じられた。

そんな中で私はただ一人、一歩を踏み出すどころか、立ち止まっているどころか、後ずさりしようとさえしている。

未来をこじ開けようとする私と、未来を閉ざとするもう一人のわたし。
心の中で容赦なくせめぎ合っていた。
 
私は果たして、どちらの味方なのか。
それすらも分からなくなっていた。
 
この場合、きっと前者だ。
アニメでも漫画でも、未来を切り開くヒーローが勝つのが、この世のしきたり。
私の中のヒーローが未来をこじ開ける、そんな瞬間だった――。
 
――ここにあなたの居場所はない。
もう一人のわたしが、グサッとトドメを刺した。
目まぐるしく交わるハッピーエンドとバットエンド。
全身がざわめいて、体がふらっと揺らぐ。

私の居場所じゃない。そう思うと――息が止まりそうだった。
苦しくて、
逃げたくて、
消えてしまいたい。
 
徐々に蘇っていく記憶に流されるようにして、私の体は勝手に動いていた。
前に進めないのなら、
立ち止まってしまうくらいなら、
思いきり、全力で、後ずさりしてやろう。
 
美声の響く体育館を背に――私は走り出していた。

 * * *

きっと誰もが想像するような卒業式。
雲一つない晴天に恵まれ、かすかなピンク色を彩った木々があちこちで優しく揺れている。
 
みんなにはきっと綺麗に見えているんだろうな。
そんな思いが私の歩みに拍車をかける。
 
誰もいない校舎をただ一人、私だけが彷徨っていて、近くの体育館からは透き通るかすかな歌声がほんの少しだけ漏れていた。
その声が、過去の記憶を煽り立てているような気がして反射的に耳を塞ぐ。

ガタガタガタ、聞きなれた教室の扉を滑らす。
体育館から若干離れたこの教室に、歌声が届くことはない。
ひとまず私は、教室の中へ逃げ込むことにした。

ガタンッ。
外の世界との繋がりを遮断したい、という思いを込めて静寂に包まれている校舎内に響かせる。
閉じた瞬間、扉の前で膝から崩れ落ちた。
普段感じることのないひんやりとした床の冷たさが手の震えをごまかす。
体は正直。この言葉の意味を生まれて初めて理解した。
どうして震えているのか。考えても考えても正解に辿り着く気がしなかった。
見えない〝なにか〟に、私は怯えている。
 それがなにかは分からない。けれど、これだけははっきりとしている。
 そのなにかはきっと、私自身が生み出したものだ――。

 * * *

桜舞う木々のなか、掲示板の前で希望が散った、あの日のことを忘れない。
一週間前、私は大学受験に失敗した。
周りが歓喜や祝福の声で称え合っている隅で、ただ一人、私だけがその場で立ち尽くしていた。今まで感じたことのない疎外感。時代に、世間に、社会に取り残される感覚。
受験票に書かれた自分の番号を、何度も、何度も、幾度となく確認した。
けれど――私の番号はそこになかった。
涙さえ流すことはなかったけれど、ありとあらゆる感情が表情として顔に現れることはなかった。真顔、とも少し違う領域。

希望が膨らめば膨らむだけ、それが断たれたときの代償は大きい。覚悟さえしていたけれど、到底すぐに受け入れられるものではなかった。

そして知った。人間は絶望を通り過ぎると〝無の境地〟に辿り着くということを。
喪失感。
虚無感。
罪悪感。
そんなもので脳内が染まっていく。
外れることのない鎖のように、頭の片隅でそっと、深くこびりついた。

 * * *

ふらつく体をどうにか起こした私は、あてもなく教室のあちこちに視線をやった。
【卒業おめでとう】
カラフルに彩られている黒板の周りには思い出を喚起させるような写真が貼り付けられている。
 
部活ごとに撮影されたユーモア溢れた写真。
修学旅行先で撮ったクラス写真。
汗水流しながらヨレヨレの履きなれたジャージで撮影された体育祭の集合写真。
私の足音だけが響く教室で、一つ一つに目を通していった。

今となっては後悔している。勉強時間を確保するために入りたかった部活には入部しなかったし、日中は観光に楽しさを注いだものの、泊まった宿先ではクラスメイトがカードゲームやボードゲーム、深夜に突如として始まった恋バナで盛り上がっている端でただ一人、私は黙々と勉強をしていた。体育祭や文化祭、合唱会のことあるごとに開かれた打ち上げには三年間、一度も参加したことはなかった。

一年生の頃は毎度誘われていたが、二年生へと学年が上がると年間を通して一度も参加することなかった私の元に誘いの声がかかることはなかった。いじめではない。配慮っていうやつだ。
 だけど、そんな思い出を犠牲にした努力は〝不合格〟というたった三文字の事実と共にあっけなく散っていった。
 こんな結果になるくらいなら、入りたかった部活にも入って、学校行事も全力で楽しんだ方が良かったのかもしれない。学校帰りに友達とカフェにいったり、カラオケにいったり、もっと学生らしいことをちゃんとしておけば……
そんな消化しきれない後悔だけが残ってしまった。

何もかも犠牲にした果てに形成された私は、未来もなければ過去もない空っぽの人間だ。未来がない人間は残酷だ。未来がない、という不安を埋めるために過去にすがりはじめる。すがれるほどの過去があるならまだいい。
けれど、私にはすがりたい。そう思える過去すら残っていなかった。

落ちていたチョークを拾い上げようとすると、教卓のなかにあったとあるものに目が留まった。しっとりとした光沢を放ち肌触りの良さそうな素材で包まれているそれは、これから配られるであろう卒業アルバムだった。
最初は気にも留めないで、チョークで汚れた手をバシバシと払っていたが私だったが、気がつくと視線はそれへと向いていた。そして数秒後には綺麗になっているとは言えない手で触れていた。
ダメだと分かっていても、底から湧き出る好奇心には逆らえない。人間のもつ心理とはそういうものだ。

結局、私は好奇心に逆らえることなくアルバムをめくっていた。こんな状況でアルバムの内容がすんなり頭の中に入る訳もなく、流し読みにほど近い速度で読み進めていった。
写真越しにもかかわらず、どの私も冴えない表情をしている。きっと写真として収められる瞬間も、きっと私の脳内では勉強のことばかりだったのだろう。淀んだ瞳からひしひしと伝わる不安と希望は、果たして思い出を犠牲にするほどの価値があったんだろうか。
 
あっという間に読み終えそうなところまできて、めくっていた手が止まった。
【〇〇年後の自分へ】
太い見出しで色鮮やかに装飾されているそのページは一年前、未来の自分に書いたものだ。〇〇の中に入る数字は自分で決めることができる。
その手紙を書いてから一年という月日が経っている。当然のことではあるが一年前の私が何年後に設定していたかも、どんな内容を書いたかも記憶の断片すらない。

友人の手紙に軽く目を通したあと、すぐに私のを見つけた。
整頓された空虚な教室の端で、恐る恐る読み進める。
 
一年後の自分へ
                                 二年 麻川 玲奈
一年後の私、おめでとう!
まずはあなたに、この言葉を贈りたいと思います。
 
今年の桜は例年より綺麗に見えてますか?
合格したとき、どんな気持ちでしたか?
「おめでとう」だけじゃなくて今まで頑張ってきた自分に「ありがとう」の感謝も、忘れずに伝えてあげてくださいね。

この手紙を書くときに、真っ先に思い浮かべたのは受験に合格した私の姿でした。
勉強も、運動も、なにもかもが中途半端だった私は都内の名立たる難関大学への合格を志します。「中途半端」これは唯一ある私のコンプレックスでした。
テストはいつも平均点より少し高いくらだし、運動もそこそこ。悪くはないけど凄い良いわけではないそれは、唯一の悩みでした。
そんな自分から脱却するために、勉学に励むこととを決意します。人生で初めて覚悟とやらを決めたのか、これまでの私とは見違えるほど努力をするようになりました。みんなが勉強しているときはもちろん、していないときもずっと、ずっと机に向かい続けてました。
そして、これから一年はもっと努力しなければいけないと思います。いまの成績じゃ合格なんて程遠いし、学力面だけじゃなくて、不安とかプレッシャーとか精神面も相当追いやられると思う。けど、私は信じてるから。きっと、一年後の私なら成し遂げてくれるってね。中途半端な私はやめたい。そう自分に誓ったのは――たしかだから。
だから、私はこうしていま、一年後のあなたに向けて自信をもって言えることができます。
三年間、がむしゃらに頑張ってきた私、ありがとう。
そして、一年後の私――おめでとう。
                   
         
「ごめん……ごめん、ね、わたし……」
読み終えた私は過去の自分に向けて、繰り返すように謝罪の言葉を紡むいでいた。
私は過去の自分の期待に応えることはできなかったのだ。
いくら努力しても、〝不合格〟という結果は過去の私を裏切ることになってしまった。
塾に通わせてくれた両親はもちろん、励ましの言葉をかけてくれた友達にも、〝合格〟
この結果を届けたかった。
そして、一番届けたかった相手は――この手紙を書いている頃の希望に満ちていた自分に向けてだった。
もっと努力していたら、もっと違うやり方をしていたら、そんな後悔すら感じることはないけれど、過去の自分を裏切ることだけは避けたかった。

ここまで、幾度とないつらさを抱えながら日々を送ってきていた。不安で、怖くて、ときには眠れない夜も、他人の合格を偽りの笑顔と言葉で祝福した日も、涙を流すことは一度もなかった。いや、流れなかった。

その理由が、いまとなってはわかる気がした。
きっと、過去の私は合格できる未来を信じて疑ったことがなかったからだ。
どんなに逃げ出したくても、苦しくても、勉強をし続けられたのは心の中で貯めてきた涙を、未来の自分が笑顔に変えてくれることを信じていたからだ。

他人ではない、自分で自分を傷つけることのつらさ。

今までどんなにつらいことも、ペンを握り、机に向かうことで誤魔化すことができていた。前を向くことで、意識をそらすことで、見て見ぬふりをしてきた。
けれど、その未知なるつらさを、見逃すことはできなかった。自分で自分を見放してしまう気がして。
「ごめんなさい……ごめ……んな……さ……」
震え声だけが反響している教室の片隅で、逃げ場のない私の瞳からは、三年間ものあいだせき止められていた涙の粒が絶えず頬を流れた。
悔しさからなのか、悲しさからなのか、どこからくるものなのかは分からないけれど、もしもその涙の一粒一粒に名前をつけることができるのであれば――努力の結晶。そう呼んであげたい。

外は晴天だというのに、私のいる教室だけは雨が降っていた。
拭っても拭っても、瞳から湧き出る涙の粒。
机の上に広がる水たまりは、カーテンの隙から放たれる光で限りなく光り輝いていた。
滲む視界を、水分がしみこみ渡った制服の裾で、何度も、何度も、拭い続ける。
肌に涙が浸透しきる、そのときだった――。

ガラガラガラ。
勢いよく開かれる扉。
驚きのあまり、目元を拭っていた手も思わず宙に浮いている。
淀む瞳に映っていたのは――クラスメイトの隼瀬君だった。

誰もいないであろう教室に人がいる。その事実に驚いているのか、開いた扉から手を放さずにいる。
「なんで、玲奈さんがいるの……」
瞳をパチパチさせながら、口から零れるかすかな声量。
「おいっ! 卒業式の最中になにをしている!」
重なる怒号。鼓膜を刺激するその声の方向へ一瞬だけ顔を向ける隼瀬君。
その刹那――涙のせいで凝縮された私の袖を、躊躇いなく扉の先へと引いた。
「よし、逃げるぞ」
なんで? どうして? そう尋ねる間もなく私は廊下へと足を踏み入れていた。
「二人とも! 待ちなさい!」
呼吸を止めれば脈音すら聴こえそうな廊下に響く声。いい具合にコントラストが効いていて聴こえやすい。
その声がする方向へ振り返ることはなかった。
それと引き換えかのように一瞬だけ、廊下の窓から見えた白みがかる澄んだ青空。
夢中で駆けていたせいで、正確に捉えられはしなかったが心なしか、涼しげな虹がかかっているような、そんな気がした――。

* * *

「高槻先生のやつ、まさか校門の近くまで追いかけてくるとはな。さすが体育教員だけあるな」
息を切らしながらかすれた声で呟く隼瀬君。もちろん私も息切れは当然のごとく、それを通り越してありったけの集中力を呼吸へと注いだ。
言葉で返事ができない代わりに、俯いたまま生気が感じ取れない顔を少しだけ縦に揺らす。
あのあと私たちは校舎を駆け抜け、そのまま学校の敷地内から完全に抜け出した。
その抜け出した余韻のせいか、そこからさらに遠ざかったいかにも子供から大人まで幅広い世代の憩いの場として相応しいそうな公園へと流れつくように訪れていた。

ここに至るまでに隼瀬君とは一切の言葉を交わすことはなかった。
すぐに大丈夫であると確信を得たのか制服の裾を引っ張っていた隼瀬君の手は校舎を出る頃には解かれていた。そのこともあってか駆けている最中は存在すらも忘れかけているほどだった。
呼吸が徐々に整え始め、隼瀬君の存在を改めて認識する。
どうやら相当疲れているのか、私が顔を上げられるようになる頃も変わらず深い呼吸をしていた。俯く隼瀬君を見ながらふと疑問が浮かび上がる。

なぜ隼瀬君が卒業式を抜け出したのか。まずはそこからだった。
彼はクラス内で性別問わずに好かれる愛されキャラだ。整った顔立ちにスラっとしている体系は異性から評判がいいと修学旅行の宿先での私を除いた会話から判断できた。その上、彼はサッカー部に所属し、キャプテンを務めるほどの運動神経は男子からも評価されている。あまり学校生活を過ごすうえで接点はなかったが、絵にかいたような青春を謳歌してそうな隼瀬君。
私が抜け出した理由を陰とするならば、彼が抜け出した理由はきっと陽だ。

そしてもう一つ、なぜ私と一緒に逃げたか、ということだ。
あの瞬間、私をほっといて一人で逃げても良かったはずだ。ましてや先生が怒号を響かせ近づいてきていたなら尚更だ。見ず知らずのクラスメイトが涙を流していたから。そう言われるとそうかもしれないが確証は持てずにいた。

「少しさぁ、歩かない?」
息が整うなり、隼瀬君が口を開いた。
さっきまで学校で見ていたものよりも色濃さを増した桜に挟まれるように広がるアスファルトをゆっくりと歩きだす。あちこちで子どもたちが騒いでいたり、家族連れが散歩をしている。あまりにも牧歌的な空間はついさっきまで涙を流していたことさえ忘れさせた。チラっと隣を見る。青空を反射させている彼の瞳はどこか切なく思えた。

「なんで泣いてたの?」
私が疑問を投じるより先だった。
「そんな大したことじゃないよ」
「大したことじゃなかったらあんなことになってないでしょ」
的をついた返事に表情が硬直してしまう。
「卒業式の日に、しかもこんな青空の下でする話じゃないんだけどさ。私、受験に失敗しちゃって。それで卒業式のあの場にいることがなんかつらくて……逃げ出したんだよね」
返事が返ってきたのは一拍置いてからだった。
「そっか。じゃあ、おれら――仲間だね」
仲間。その言葉が一緒に卒業式を抜け出したこと、という意味を指していないことに気づいたのはそれからだった。
「おれもなんだ。受験、落ちたの。なんとなく、ここにいるべきじゃないなって気がしちゃって。その……胸が締め付けられるそんな感覚。それで教室に逃げ込んだら……」

 
そうだったんだね……、なんていうべきか分からなかった私の口からはその言葉しか発することができなかった。どうやら私の予想は外れたらしい。いまにも零れだしそうな雫を目に、彼は続けた。
「元々どっか適当なとこに進学しようとしてたんだよ。なんせおれ、勉強苦手で……そんななか、ひたむきに勉強している玲奈さんのこと見てて思ったんだよね。このままに進学していいのかなって。入れそうな大学入って、入れそうな会社務めて、やれそうな仕事だけこなす人生。そんな人生考えたら……なんか息苦しくなった。人によってそれをどう捉えるかは分からない。けど、少なくともおれは、そんな人生を過ごす自分を許せなかった。だから、当然おれなんかがそう易々と入れないレベルの高い大学に、進路変えたんだよね。まぁ、ダメだったんだけど」

――ひたむきに勉強する私を見てて思った。
彼はいま、そう口にしたのだ。
進路という人生の分かれ道ともなりえるその局面で、まさか私の存在が影響しているなんて思ってもみなかった。
 
「これから……どうするの?」
自分に尋ねるかの如く一文字一文字を噛みしめながら訊いた。
「もちろん、もう一年頑張るよ。ここまできて諦めるとか……少なからず今まで努力した過去の自分が許すわけないし、合格したかった。その自分の気持ちを押し殺しながら生きていくことなんて、できるはずないよ」

――もう一年頑張る。
彼が言う一年は、今まで過ごしてきた年月とは全くの別物を指している。
同じ歩幅で進んできた友人に、クラスメイトに、社会に取り残されながらもあがき続けなければならない一年。
そのことを覚悟しているのか、言葉のアクセントが少しだけ強く聴こえた。
通路のベンチに腰掛けた私たちの目の前には、小学生くらいの子どもが和気あいあいと戯れている。
「お兄さん、ボール取って!」
足元に落ちているボールをひょいと拾う隼瀬君。
満面の笑みを添えて手渡す彼に「ありがとう!」と無邪気な子どもたちは真っ白な歯を見せて笑っている。
子どもたちの笑顔を見送るように、隼瀬君は大げさに手を振らせている。クラスメイトの女子が彼に黄色い声を上げている理由がどこか解る気がした。
「おれらもあのくらいのとき……何かしら悩み、抱えてただろ? でもさぁ、いまとなっては思い出せないんだよ。その悩みがどんなのかわかってても、そのつらさが。だからおれらがいま抱えてる悩みも、ときが経てばあまり大したことないのかもな」 

言葉の端々から読み取れる彼の心情。諦めたとか割り切ったとか、自分を見放すことはなくて、どこか楽観的で、前向きに感じられた。
だから、思わず尋ねてみた。
「隼瀬君は……怖くないの? 世間に、社会に取り残される感覚」
「怖いよ。不安もある。やめてしまいたい、逃げ出したい、そんなこと思うことなんて数えきれない。でも、それと同じだけワクワクしてる自分がいる。一番苦しいときに、人一倍努力して、その乗り越えた先に、新しい自分が待っているんじゃないかってね。そう思わせてくれたのは――紛れもない、玲奈さん、君のおかげだよ」

躊躇いもなく帰ってきた返事。こちらへと振り返る彼。表情さえ太陽の眩しさに隠れていたけれど、それに等しいくらい眩しく、希望に満ちている表情をしている気がした。
きっと同じつらさを経験したはずなのに、彼はすでに前を、未来を見据えているかのように見えた。
それと対照的な私。
どちらが良いとか、そんな風に考えることはないけれど、彼と同じような思考でいられたら。少なからずそう強く願う自分がいた。
ベンチから立ち上がり再度歩き出す。
「努力って、目に見えないし、おれらみたいに報われることはないかもしれないけど、だからこそし甲斐があるし、儚いものだと思う」
言葉にすることはなかったけど、きっと桜に例えているんだろう。
日々つぼみが膨らんでいく過程は決して目に見えるものではないし、その過程で花開くことができなくなる可能性だってある。でも、だからこそ、それであってこそ花開いた桜はこんなにも華やかで輝かしいものであるということに。

「玲奈さんは、これからどうするの?」
落ちていく桜を眺めながら、過ぎた日々を思い返す。
「…………諦めるわけないじゃん……諦められないよ……」
握る拳が、徐々に歪み始める。
ありふれた日々のなか、世間や社会が、どんなにめまぐる変わり続けようとも、たった一つだけ、変わらない想いがあった。
――中途半端な私をやめたい。
どんなにつらくても、どんなに逃げたくとも、どんなに逸らしたい現実が目の前にあっても、それすらもかき消けしてきた自分との誓い。
その誓いを見て見ぬふりをして生きることは、嫌いな私のまま生きるということなのだ。
もう迷いたくない。新しい自分を築きたい。過去のわたしに「ありがとう」を、伝えてあげたい。だとしたら、私は――。
「私も、もう一回……頑張るよ……今日流した涙の量だけ、笑顔にしなくちゃ」
「あっ、また泣いて……」
「かっ、からかわないでよ!」
隣で笑いかける彼の肩に軽く拳を押し付ける。
私と彼の狭間でクルクルと宙を舞う一枚の花びら。
手のひらに吸い込まれるように着地したそれを、そっと制服のポケットにしまった。

いつか私が花開く、その日まで――。

* * *

桜が微笑みだす頃、いつか希望が散ったあの場所に訪れていた。
視界いっぱいに降り注ぐ桜を前で、そっと胸を撫でおろす。
ふとポケットに手を突っ込むと、柔らかい感触がした。
中から取り出したそれは、どこか懐かしく、春の訪れを感じる。
ふわっと流れた春の風に、いつしか私の手から消え去っていった。
その軌道がちょっとだけ不格好で、思わず頬が緩む。
大空を仰ぐようにして、ゆっくりと呼吸を整える。
少しだけ息がしやすくなった気がした。