それから私は、春奈達と距離を置くことに決めた。
 いつもは三人が登校して来ると、一番に駆けつけて「おはよう」と声をかけていたけれど、それももうやめた。

 「中畑さん、看板のデザインのことで相談があるんだけど今いいかな?」
 「あ、うん!大丈夫だよ!」

 春奈達にこだわらなくなってから、少しずつ変化が訪れた。
 まずは小さな不安を感じることがなくなった。
 いつだって春奈の機嫌を伺いながら、置いていかれないように、忘れられないように必死だった毎日が一変して、今はすべて自分のペースで動くことができている。

 その分、一人になることも増えた。
 移動教室のときは一人で移動するようになって、授業の間にある十分休憩も自分の席で過ごすことが多くなった。

 だけど一人になった私に声をかけてくれるクラスメイトもいる。
 もちろん今は文化祭の話がメインで、私が実行リーダーだからというのもあるけれど、それでもこうしていろんな人と話せることがこんなにも嬉しいことなんだって初めて知った。

 春奈達のことが全く気にならなくなったと言ったら嘘になる。
 ふとした時に、三人のそばを離れた私のことをどう思っているのだろうって考えてしまうし、今でも春奈達のことを無意識に目で追ってしまうこともある。

 だけどグッと堪えて、大きく首を振りながら自分に言い聞かせる。
 もうこれ以上春奈達に甘えちゃダメだって。
 一人になってもいいから離れると決めたのは自分でしょう、と。

 「中畑さん、今日も来るでしょ?」
 「柳橋くん……。うん、行く」
 「じゃあ行こうか」

 そしてあの日以来、柳橋くんはいつも私をお昼ご飯に誘ってくれる。
 場所は決まって他のクラスの実行リーダー達が集まる準備室で、今日もみんなは各々に口をモグモグ動かしながら、文化祭の話で盛り上がっていた。

 「ねぇ、中畑ちゃん!三年の実行リーダーが時間足りないから手伝ってうるさいんだけど、どうする!?」
 「え、先輩達そんなに大変なの?」
 「うーん、でもあたし達にそんな余裕あるかな?」
 「そうだね、二年も結構スケジュール厳しいよね。一年生はどうだろ」

 今では私がここに来ることが当たり前のようになって、こうして違和感なく接してくれることに感謝している。
 教室で居場所を失った私の、唯一の拠り所になっている。

 文化祭が終わったら、きっとこのメンバーでご飯を一緒に食べることはなくなるだろう。
 ここが大切だと実感していくたびに、今度は終わりが来ることが怖くなる。

 だけど今は、目の前にあるこの楽しいひとときだけを味わっていたいから。

 「……なぁ。もう今日の放課後くらいさ、みんな早く帰らね?」
 「うわ、B組のリーダーが今めちゃくちゃいいこと言った」
 「ってかさ、どうせならこのメンバーで放課後どっか遊びに行かない?」
 「うわうわ!D組のリーダーがもっといいこと言った!」
 「C組、大賛成です!」
 「E組も同じく大賛成!」
 「……あれ、A組は?」

 みんなは次々と手を挙げて、賛成の意を示していく。
 気付けば手を挙げていないのが私達A組だけになって、全員が私と柳橋くんのほうを見て問いかけた。

 「……って言ってるけど、中畑さんどう?」
 「え、あ、えっと、柳橋くんは?」
 「俺は中畑さんが賛成なら賛成、かな」

 あぁ、ほんの少し前までは、こうしてみんなの前で意見を言うのが大嫌いだった。
 なるべく穏便に済む方法ばかり考えて、自分の意見はいつだって後回しにしていた。

 だけど、今は心の底から思うよ。

 「うん、私もみんなと遊びに行きたい!」
 「よっしゃ!じゃあ海行こうぜ、海!」
 「今日くらい俺らの休みがあったってバチ当たんないわ!」

 こんなふうに笑ったのは、いつぶりだろう。
 あれだけ嫌だった実行リーダーが、今では何よりかけがえのないものになっている。

 あのときのくじ引きはハズレくじなんかじゃなかった。
 大当たりだったんだ。

 「じゃあまた放課後な!」
 「帰りのホームルームが終わったら校門前に集合ね!」

 お昼休みの終わりを告げる予鈴のチャイムが鳴って、みんなはそれぞれのクラスへ帰っていく。
 放課後に海へ行くなんて初めてだ。 今から楽しみでたまらない。

 今にもスキップでもしてしまいそうなほどの勢いで教室に戻ると、ちょうど五限が始まるチャイムが鳴った。
 慌てて席について、ふと視界に入った春奈の席。
 そこに、彼女の姿はどこにもなかった。

・・・

 「なんだかすごく楽しそうだね、葵ちゃん!」
 「わっ!ビックリした!だから、いきなり現れないでってば!」

 夜の公園に来るのは久しぶりだった。
 毎日遅くまで残って文化祭の準備や進行チェックに追われていた私は、ここ数日、公園に立ち寄る体力すら残っていなかった。

 夜、ごはんを食べてお風呂に入って、どうにか課題を終わらせることが精いっぱいの多忙人間になっていた。

 「今日はため息吐いてないしね!何かいいことあったんでしょー!」
 「そ、そんなことないし」

 放課後、二学年の実行リーダー全員で、学校から一番近い海に行った。
 砂浜を裸足で歩いて、足だけだったけれど海にも浸かった。

 男子群は大はしゃぎして、制服のまま結局最後は全身びしょ濡れになっていた。
 それを見ていた私達女子群は大笑いして、本当にいい思い出を残すことができた。

 春奈達と海に行ったことはなかった。
 彼女は日焼けや暑さがダメだという理由から、いつも遊ぶ場所はショッピングモールやカフェが多かった。

 春奈や美佳達とも、海に行って大笑いしてみたかった。
 そんな考えがよぎったことは、オネーサンにも内緒だ。
 もしかしたら知っているのかもしれないけれど。

 「海、楽しかったよね」
 「オネーサンも経験した?」
 「もちろんだよ。だって私はキミの未来だから」

 とびっきり眩しい笑顔で私を見た彼女は、またいつものようにブランコを勢いよく漕いでいく。
 気のせいだろうか。
 今日はなんだかいつもより空気が澄んでいるように感じる。

 いつもは錆びついたこのブランコがいつか壊れてしまいそうで怖かったけれど、今日は私もオネーサンと同じようにブランコを漕いでみることにした。

 地面を思いきり蹴って、前に後ろに風を切る。
 ブランコはギリギリと嫌な音を立てながらも、一生懸命に仕事をしてくれた。

 頬に当たるふんわりとした風が、心地いい。
 
 「楽しいねぇ!ひゃっふーい!」
 「ちょっと、夜なんだから大きな声出さないで!」

 オネーサンも負けじとスピードを加速させて、なぜか最後はお互いに競い合うように立ち漕ぎで汗だくになっていた。

 「オネーサンっ、大人なのに……っ、大人気ない!」
 「何言ってるの、葵ちゃんっ。勝負にね、子供も大人も……っ、ないんだよ!」

 高校生にもなって、こんな小さな公園の遊具で本気を出すなんて。
 だけどとなりで私よりももっと一生懸命にブランコを漕いでいる彼女は、スーツを着た大人だ。

 そう考えると余計に可笑しくなってきて、私とオネーサンは辺りを気にすることもやめて大笑いした。
  二人の愉快な笑い声はいつまでも響き続けた。

 「葵ちゃん、もう大丈夫だね」
 「え?」

 火照った身体と荒い呼吸を整えて、やっと落ち着きを取り戻したとき、オネーサンは唐突にそう言った。
 彼女が笑っていないときは、決まって何か大事な話があるときだ。

 「やっぱりさ、何があっても悩み事って消えないじゃない?特に私達、なんでもすーぐ悪いほうに考えちゃうし、小さいことでもウダウダ悩んじゃう性格でしょ?」
 「確かに!すごく厄介!」
 「だよねー!!」

 そうだ、オネーサンの言う通りだ。
 基本的に悪いことばかりを想像してしまう性格だから、余計に思い詰めてしまうことがある。
 考えなくていいことまで考えて、それを悩みにしてしまう悪い癖だとも思う。

 あれだけ楽しいことをして、大笑いした今でさえ、心の中に押し込んだはずの一番の悩みは消えないまま。
 ずっと、頭の中をグルグルしている。

 このままでいいのかなって。
 こうして離れたままでいいのかなって。
 
 「でもね、大丈夫だから。葵ちゃん」
 「オネーサンの大丈夫は全然信用ならないし。何回聞いても、結局未来のことは教えてくれないし」

 拗ねたように口を尖らせて、夜空を見上げた。
 オネーサンは頑なに私のこれから先の未来について教えようとはしない。

 私のこれからの楽しみを奪いたくないからという、意味不明な理由で。

 「ねぇ、私のことちゃんと見て?」
 「だから、見てるってば」
 「私、ちゃんと笑ってるでしょ?大人になった中畑 葵は、ちゃんと笑えているでしょ?」
 「……本当だ」

 そうだ、確かにそうだ。
 最初、彼女が『大人になった中畑葵』だと告げるまで、私はまったくの別人だと思っていた。
 それくらい、オネーサンは眩しいくらいによく笑う人だった。
 今の私とは、想像もつかないくらいに。

 「(じゃあ、未来の私は……こんなふうに笑えるってこと?)」
 そういう未来が待っている、ということなのかな。

 グッと顔を覗き込むように視線を合わせてきた彼女は、きれいな弧を描くように口角を上げてまた微笑んだ。

 「これから先ね、いろーんなことが待ってるよ!もちろん悲しいことも、つらいこともある。でもね、大切な人がいて、大事な友達がいつも近くにいてくれる。葵ちゃんは一人じゃないから」
 「……」
 「だから、これからも楽しんで」
 「あれ、オネーサン?」

 疲れているせいだろうか。
 となりにいるはずの彼女が、少しずつ霞んで見える。
 
 「自分が思うことに、正直になっていいんだからね」
 「ちょっと、オネーサン!? 透けてるよ!?」
 「キミがしたいと思うことに全力になって。それが例え、どんなに勇気がいることでも、ね」
 「ねぇ、どうしちゃったの!?」 
 「大丈夫だから。大人になったキミが言うんだから、間違いないよ」
 「……っ」
 「じゃあね──……」
 「オネーサン!」

 オネーサンが、消えた。
 となりのブランコは、微かにゆらゆらと揺れていた。