夏の終わりはキミの香りがする。

“__林檎は、お前の兄妹だな”

 小学生の時、秋雄が言った。
 林檎の苗が実をつけるようになるまで約五年程。寿命は数十年。その間、両親は子供を育てるように雨の日も風の日も林檎を守り天塩にかけて育てる。
 農園の手伝いをしていた秋雄は、娘である私よりも先にそのことに気づいていた。
 無神経なようでどこか繊細で。他人に無関心なくせに観察力には長けていて。そんな秋雄の人間性に私は惹かれたのだ。

「林檎が食いたいなー」と、突然不貞腐れたように唇を尖らせる。

「幽霊ってお腹空くものなの?」

「全く」

「なら、食べなくてもいいじゃない。食費はかからないし太らないし。羨ましい限り」

 すると、首をやれやれと横に振りながら大きな溜め息を吐く。

「本当。つまらない」

 いつから「つまらない」が口癖になったのだろう。そう思う程に昨日から何度も耳にしている。

「ナツは食べることが大好きだったじゃないか。なのに何だよ。体重なんて気にしてるから、三日月みたいな顎して棒みたいな手足して。胸なんてまな板」

「煩いなっ! スリムって言いなさいよ!」

 セクハラ紛いの言葉を遮ると秋雄はまた唇を歪ませては変な顔をする。

「ナツ。死んだら何も食えないんだぞ?」

 そう言った秋雄は至って真面目な顔をする。この切り替えの早さに私は昔からついていけない。ふざけていたと思うといきなり神妙な顔をしたり。冗談を言っていたかと思うと突然真面目な話をしたり。よく、こいつの頭の中を覗いてみたいと思っていた。
「食べることは生きている証拠。食べられることは豊かな証拠。健康な証拠。食べれる環境に感謝しろよ」

「そ、そんなのわかってるよ!」

 そう咄嗟に答えものの「本当に自分はわかっているのだろうか」と、改めて考える。
 食べることが当たり前で。食べようと思えばいつでも食べれる状況が当たり前で。その当たり前のことを私は果たして感謝しているのだろうか。
 食事の時間を無駄だと思ったり、太ることを恐れ食事をしなかったり。そんな私は本当に秋雄の言葉を理解しているのだろうか。

「今もちゃんと手を合わせて「頂きます」してるか?」
 
「……それは」

 黙ってしまった私に秋雄は悲しそうな顔をする。

「つまらない大人でも、それだけは忘れるな。命を頂いてるんだから」

 農家の多いこの長野に生まれ。自分も農園の娘として生まれ。そんな私は幼い頃から教えられてきた。
 __命を育て命を頂く。そうして私達の命が繋がっていくこと。
 しかし思い返せば、いつから食事の前に手を合わせなくなってしまったのだろう。「頂きます」「ごちそうさま」と、命を頂くことへの感謝の言葉を忘れてしまっていたのだろう。

「俺は、ナツが飯を食ってる時の幸せそうな顔が好きだった」

 この日差しにも負けないぐらいのキラキラと輝く笑顔は今の私には眩しすぎる。
 __好き。
 死んでから言われても嬉しくない。それに「だった」なんて、私がもう秋雄の好きな私ではないと言われたようで胸がチクリと痛む。
 実際、現在の私と秋雄の間には九年という厚い壁がある。そして秋雄が好きだった私は、その厚い壁の向こう側にいる。
「ナツー!」

 顔を上げると、いつの間にか遠くにいた秋雄がこちらに向かって両手を大きく振っている。
 相手は幽霊だ。過去の人だ。私とは別の次元の人だ。そうわかりながらも、その壁を越えたいと思う。

「待ってよー!」

 あの頃のように秋雄の元まで駆けていく。しかし情けないぐらいに息が上がる姿に苦笑いを浮かべながら、秋雄は農園の端に停めてあった父の軽トラの荷台に飛び乗った。

「ナツも来いよ」と、そんな簡単に言われても大人には勇気がいる。

「誰か来たら、恥ずかしいから嫌だ」

「は?」

「荷台で何してるの? って、話になるでしょ」

 すると秋雄はまた大きな溜め息を吐きながら「つまらない」と、呟く。その言葉に若干カチンとくる。

「秋雄は、いつから「つまらない」が口癖になったわけ?」

「それを言うならナツの方こそいつから「恥ずかしい」が、口癖になったんだよ?」

「そ、それは。大人になると恥ずかしいことが増えるの!」

「本当に?」

 硝子のような綺麗な瞳が、この心をそっと覗き込む。

「ナツが「恥ずかしい」って思ってることは、本当に恥ずかしいことなのか?」

「そ、それは」

 “__大きな声で呼ばないでって言ってるでしょ? 恥ずかしい”
 私の名前を呼ぶ母の声も。
 “__お父さん。迎えに来るなら着替えてよ。恥ずかしい”
 忙しい農園の仕事の合間に迎えに来てくれた父の格好も。
 “__首に巻くのは恥ずかしいから嫌”
 汗を拭う為の手拭いも。

 __本当に恥ずかしい?

「……大人は他人の目を気にしないといけないの」

 まるで自分に言い聞かせるように呟いた言葉が、頼りなく地面へ落ちていく。
 溢れないように。省かれないように。波風立てずに生きていくためには、他人の価値観に合わせ大衆に紛れ息を潜めていた方がいい。それは生きていく為に学んだ術だ。
「だから、それが「つまらない」って言ってるんだよ。この瞬間、お前がどうしたいかを大事にしろよ」

「それは、子供の考えだよ」

 秋雄は十二歳のまま。大人の世界を知らないから純粋でいられる。だけど私は二十二歳。もう大人になってしまった。

「そうか? いつ死ぬかわからないのは子供も大人も同じだろ?」

 顔を上げると秋雄はシニカルな笑みを浮かべている。
 何故、このタイミングに人の生死が関わってくるのか理解できない私はただその顔を見つめる。

「この瞬間はもう二度と戻らない。それは俺にもナツにも言えることだろ?」

 それは秋雄が死んだ時に散々思い知ったことだ。
 さっきまで、目の前で笑っていた人が一秒後には死んでしまうことだってある。そして二度と会えなくなることだってある。それは年齢も性別も関係ない。
 一秒先は誰にとっても未知だ。だから確実に存在する「現在」を大切にしなければならない。
 そんな人の命の儚さを、私はあの時に心に痛く刻み込んだはずなのに……。

「だから、ナツにはその瞬間を大事にして欲しい。 ナツだって明日、死ぬかもしれないんだぞ? それならダイエットなんて言ってんなよ。好きな物をたくさん食って、やりたいことは思う存分やって。そうじゃないと後悔するぞ?」

 __後悔。
 秋雄は知らない。
 もはや私の人生は後悔ばかりだということを。だから今更、後悔が一つ二つ増えた所でたいして変わらない。けれどこれだけはわかる。
 こんなことを幽霊に言わせるべきではなかった。

「……ごめん」

 死んだ人間の気持ちは私にはわからない。わからないからこそ、今の秋雄が望んでも手に入れることのできない「生きている瞬間」を大事にしなければならなかったのに。幽霊に説教させるなんて最悪だ。 

「素直な所は変わらないな」と、苦笑する秋雄に教えてあげたい。

 人目を気にするようになった私はあの頃と比べたら、大分素直ではなくなった。なのに、そんな私に秋雄はあの頃と変わらぬ優しい笑顔を見せてくれる。

「ナツ。お前は今、俺と荷台に乗りたいか乗りたくないか。どっち?」

 軽トラの荷台から純粋な瞳で尋ねられる。

 __そんなの、今の私には簡単な問いだ。
「乗りたいに決まってるじゃない」

 他人の目よりも、今秋雄が目の前にいるこの瞬間を大事にしたい。
 __この瞬間が消えてしまう前に。この瞬間を失ってしまう前に。

「よし! なら早く来い!」
 
 秋雄は嬉しそうに笑っている。私はなんとか荷台に這い上がると、空の収穫コンテナを逆さまにしてその上に立つ。すると少し高くなった視界からは農園が一面に見渡せる。
 目の奥が痛くなる程の真っ青な空。海のように広がる緑色の木々。風に揺れるのは燃えるような紅色の林檎。
 これが、子供の頃に見ていた私の世界。

「綺麗。ねぇ、秋雄も。って、あれ?」

 この景色を今すぐ共有したい。なのに、先程まで隣にいたはずの姿が忽然と消えていた。いくら辺りを見渡してもどこにもいない。

「夏実。そんな所で何してるんだ?」

 空になった収穫コンテナを抱え、不思議そうな顔でこちらを見ている父。正気に戻った私は、すぐに軽トラの荷台から飛び降りる。

「ちょ、ちょっと、久しぶりに乗ってみたくなってさ」

 笑って誤魔化す私を、父は懐かしそうに目を細めながら見つめていた。

「昔は、父さんの目を盗んで秋雄と一緒に乗っていたっけな」

 その秋雄が先程までここにいたなんて父には言えない。私以外に見えない以上、存在する証拠はない。それに消えてしまった今、私自身もわからなくなっている。
 秋雄の存在が夢か現実か。
 いつも過ぎ去った時間は、現実味を失い記憶の中に映像として残る。まさか白昼夢でも見ていたのだろうか。
 だけど鼓膜の奥にはさっきまで隣にいた秋雄の声が山びこの如く、何度も何度も響いてはこの心をトントンと優しく叩く。
 “__ナツが「恥ずかしい」って思ってることは、本当に恥ずかしいことなのか?”
 “__だから、ナツにはその瞬間を大事にして欲しい”

「お父さん」

 荷台に乗って収穫コンテナを片していた父は、首に巻かれた手拭いで汗を拭きながら振り返る。

「……ごめんね」

 __謝れる瞬間に謝ること。
 __感謝できる瞬間に感謝すること。
 羞恥心よりも大事なことを私はいつしか忘れていた。

「軽トラもお父さんの格好も、恥ずかしいなんて言ってごめんなさい」

 一生懸命に働き続ける父の姿が恥ずかしいわけがない。服についた汗も土も、他人から見たらただの「汚れ」かもしれない。けれど、それは農園を守る父の勲章だ。

「……夏実」

 灰色の瞳を潤ませる父にそっと微笑む。

「今度は、この軽トラで迎えに来て」
 
 “__小林農園”
 大きく書かれた軽トラを幼い頃は格好良いと思っていた。しかし同級生に笑われた瞬間、それらが「恥ずかしいもの」へと変わってしまった。だけど本当は他者ではなく私自身の心が決めることだった。

「格好良いよ。お父さんも軽トラ
も。いつもありがとう」

 言い切った私はまるで逃げるようにその場を後にする。振り返ると、父はキャップを外し露になった白髪だらけの頭を手のひらで撫でながら、この真っ青な空を優しい瞳で見上げていた。
「お、おはよう」

「おはよう」

 昨日のこともあり父とは少しぎこちなく挨拶を交わすと、キッチンで朝食の支度をしている母の手伝いをする。

「今日もサラダ?」

「今日はトーストも貰おうかな。久しぶりに、我が家特製の林檎ジャムも食べたいから」

「ダイエットはやめたの?」

「うん。食べれる幸せに感謝して遠慮なく頂くことにした」

 すると母は少し垂れた瞼で何度も瞬きを繰り返した後「そうね」と、優しく微笑んだ。

 __食べれることは健康な証拠。
 __食べれることは豊かな証拠。
 __食べれることは生きている証拠。

 健康の為のダイエットは必要なことだけれど、必要以上のダイエットは人生損しているように思う。

 “__死んだら何も食えないんだぞ?”
 そんな秋雄の言葉は、この胸の奥深くに突き刺さった。
 この身体が健康なことも。自分が生きていることも。当たり前ではない。ならば健康で生きているうちに、その幸せを噛みしめたい。美味しいと感じることができるのに、幸せを感じることができるのに我慢するなんて勿体ないから。

「いただきます」

 しっかり手を合わる私の顔を揃って凝視する両親の視線は気にせずに、こんがりきつね色に焼き上がったトーストにマーガリンと自家製林檎ジャムをたっぷり塗る。そして、大きな口でかぶりつくと最後に甘いアップルティーで流し込む。

「……美味しい」

 懐かしい実家の味に思わず目頭を押さえながらガクリと項垂れる。

「大袈裟ね」

 母は呆れているけれど長らくサラダしか食べてこなかった私の脳が、朝の糖分に恐ろしい程の幸せ物質を分泌させている。

「何か、昔の夏実に戻ったみたいだな」

 お茶を飲みながら父は笑っているけれど、私は一緒に笑うことはできなかった。
 だって、過去の自分はあまり好きではないから。
 今よりぽっちゃりとした身体。ボサボサの眉毛。毎日キャラ物のTシャツとジャージを着て、身嗜みを気にせずに生きていた。今思うと相当ダサい。
 だけどこの心は、今よりも多くの幸せを感じていた。人目も気にせずに好きな服を着て。好きな物を食べて。好きな人達と笑い合って……。

「所で啓太さんとは結婚の話は進んでるの?」と、尋ねる母に私は心の中で溜め息をつく。

 いつから、未来の話に心が弾まなくなったのだろう。
 将来何になりたいのか。将来何をしたいのか。どんな大人になりたいのか。昔は、友達と未来を想像しては心を踊らせていた。
 なのに、実際大人になってみるとその先の未来に不安しか抱かない。
 __老後のこと。
 __農園のこと。
 現実的な問題がこの身体と心に重くのし掛かる。

「まだ、忙しいし無理かな」

 __忙しい。
 お決まりの言い訳をする自分自身に、また溜め息が漏れた。
 しかし母は、ただ「そう」と返事をしただけで深く尋ねてくることはなかった。
 
 “__秋頃、籍を入れないか”

 啓太は忙しいのに、その合間にも二人の未来のことを考えてくれている。それはとても幸せなことだとわかりながらも、この心が動くことがないのは何故だろう。
 同棲。結納。式場探し。結婚式。
 いざ結婚となれば、これから考えなければならないことが増えるから?このままの距離感が、心地よいから?
 正直、自分の気持ちが私にもよくわからないのだった。
 朝食を済ませると、たまには片付けの手伝いをしようと両親の食器も洗ってから自室へと戻る。満腹感で満たされた身体をベッドの上で休ませると、枕カバーやシーツからは柔軟剤の良い香りがした。

「……癒されるな」

 開け放した窓から流れ込む優しい風。外から聞こえる蝉の声。年に一度は帰省しているのに、こんな気持ちになるのは久しぶりだ。
 いつもは殻に籠るように、スマホの動画を一人眺めているだけだった。実家に戻ってきても、東京に一人でいる時と変わらぬ生活をしていた。

 なのに今年は初日から北村宅に行くことになり。その帰りには秋雄の幽霊と遭遇して。昨日は久しぶりに一緒に軽トラの荷台に乗って。今日は久しぶりに実家の朝食を食べて……。
 すると不思議なことに詰まっていた息が自然と吐き出せるようになった。固まっていた心が柔らかくなって、何だか穏やかな気持ちになっていく。

「……秋雄」

 私は枕元に置いてあった一枚の写真を手に取る。紺色の浴衣を着た秋雄と桃色の浴衣を着た私は、相変わらず楽しそうに笑っている。あの頃の私は秋雄の隣にいるだけで、ただ楽しくていつも心が弾んでいた。
  ふと、この胸に自分の両手を当ててみる。けれど、あの頃のように弾むこともない。ただ一定のリズムを刻むだけ。
 ……恋って、どんな感覚だったけ?
 白い天井にできた染みを眺めながら呆然としていると、心の奥にスースーと冷たい風が通り抜けていく。この心の穴は、空いたままもう二度と塞がることはない。そんなことはもうわかっている。

「……ふっ」

 今更、過去の感覚を思い出そうとしている自分に苦笑する。
 __恋なんて子供がするもの。大人には、もっと大事なことがある。
 大きな溜め息を吐きながら目を閉じると瞼の裏に啓太の顔が映る。
 __早く答えを出さなければ。
 だけどもう少しだけ、この穏やかな時間に流さていたい。
 窓の外から聞こえる蝉の声が。優しい風が。カーテンを揺らす音が。まるで子守唄のように私を眠りへと誘った。

夏の終わりはキミの香りがする。

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