彼女を初めて見かけたのは私が15歳になる少し前。

 王家が主催したお茶会で、王子の婚姻者候補が初めて公開された日のことだった。

 

 選ばれたのは慣習通り、王子と年の近いご令嬢達だった。リーゼロット=ペシャワール、クシャーラ=プラント、ユタリア=ハリンストンの3人である。

 未来の王子妃候補に選ばれるだけあって、3人とも地位も教養も申し分なく、何より彼女達は皆、顔だちがよく整っていた。

 

 そんな3人の中で、1人だけ人形のように微笑む少女がいた。真っ白な、まるでウェディングドレスかと思うほどの美しいドレスを身に纏ったその少女はユタリア=ハリンストン。

 私はそんな彼女に強く、心を惹かれた。簡単に言えば一目惚れである。

 

 だがそれと同時に私は、同じ会場内に彼女に惚れた男を何人も見つけてしまったのだ。その中には勝ち目のない相手が1人だけ混ざっていた。

 

 王子だ。

 ユタリアを見る目だけ、妙に柔らかくて、けれど彼女の身体が近くなるたびに身体を固くさせていた。

 

 ――その姿はまるで初めて恋を知った子どものようだ。

 

 よりによって王子になんて勝てるわけがない。そう悟ったと同時に産まれたばかりの淡い片思いが消えた…………ならどれほど良かったことだろう。

 

 話をしたこともない少女へ未練がましく手を伸ばし続けるために、次男という立場を利用して、私は婚約者を作ることを拒んだ。

 父は元々選ばれなかった少女のどちらかと結婚させるつもりだったらしく、それでも構わないと言ってくれた。

 

 後は、身分目当てに擦り寄ってくるご令嬢方を避けつつ、ただひたすらに剣を振るった。

 良くも悪くも平凡と言われるこの国で、騎士が剣を振るう機会などほとんどないというのに、それでも叶う可能性がほぼゼロの恋心をこれ以上育たせないようにするにはそれが一番簡単な方法だった。

 

 兄や幼馴染のリガードはそんな私を『真面目』だと言うが、現実から目を背け続けるような私がそう呼ばれるのはとても申し訳が立たないような気がして、いつからか彼らの見える私に少しでも近づけたならと願うようにもなっていた。

 そして父から剣の腕を認められるようになった頃には、どうせ騎士になるのならこのまま剣の道に没頭してしまうのもいいのではないかとぼんやりと未来を思い描いていた。





 だが王子が18歳を迎えるまで残り数日といった頃、転機が起きた。

 



「王子はお相手にクシャーラ=プラント嬢をお選びになったそうだ」

 

 父の口からそう告げられた途端、思い描いていた道すじが徐々に消えていくのを感じた。

 

 誰が王子妃としてクシャーラ嬢が選ばれることを予想しただろうか?

 

 王子の気持ちを知っている者なら誰もがユタリア嬢が選ばれることを疑わず、そうでなければ貴族の模範に相応しいリーゼロット嬢が選ばれると読んでいたはずだ。

 確かに在学中、王子はクシャーラ嬢と共に時間を過ごすことが多かったようにも思える。だがそれはあくまで、緊張してユタリア嬢と話が長く続かないせいなのだろうと思い込んでいた。それはきっと私だけではないだろう。

 

 だから父の言葉が信じられなかった。

 

「当家はハリンストンのご令嬢に婚姻の申し込みをしようと思うが、異論はあるか?」

「いえ……」

 

 ユタリア=ハリンストンはずっとずっと、手が届けばいいと願った相手だった。

 けれど何故だかこの会話が夢の中の出来事のようで、夢から覚めたら彼女こそが王子妃に選ばれるのではないかと疑わずにはいられなかった。

 

「少し、出てきます」

 

 頭を冷やして、出来ることなら歩いている最中に目が覚めてくれればいいのにと願った。

 

 気づくと城下町まで出ていた。

 巡回のルートが身体に染み付いてしまったせいだろう。いつも通りの道のりをただひたすらにまっすぐ歩いて、歩いて。

 

 

「ちゃんと前見て歩きなさいよ!」

 だからそう叫ばれるまでは、少女にぶつかってしまったことにも気づかなかった。

 少女の顔はどこかユタリア嬢に似ていて、ああやはりこれは夢なのだと、町娘をユタリアだと勘違いしてしまう自分の頭に呆れてしまう。

 

 彼女がこんなところで町娘の服装をしているはずがないのに。

 

 視界にチラリと映ったクレープが彼女の怒りの原因を作り出したのだろうと、ポケットから適当に貨幣を取り出すと少女に握らせた。

 

 そしていつになったらこの夢は覚めるのだろうかと思いながら、歩みを再開した。

 

 

 ――そしてクシャーラ嬢が選ばれたことが夢ではなかったことに気づいたのは、翌日の夜のことだった。

 

 だがどこからが夢で、どこからが現実なのか、境が全く分からなかった。

 ただユタリア嬢が王子妃に選ばれなかったこと、そしてハリンストンから婚約の誘いを断られたことだけは確固として事実であった。

 

 それでも父はハリンストンを取る意思を曲げなかった。

 当家と同等の力を持つファラデー家がペシャワールの婚姻相手に名乗りを上げているからというのもあるが、おそらくはユタリア嬢の方が私に合うと思ってのことだろう。



 リーゼロット嬢のような女性は何といえばいいか……隣にいて疲れてしまいそうな気がしてならないのだ。出来過ぎた彼女はまさに薔薇の花で、触れば棘を指に刺してしまいそうになる。

 その点、ユタリア嬢は白百合のように儚く美しく、それでいて相手を立ててくれる。リーゼロット嬢が貴族の模範というならば、彼女は妻として最良の女性と言っても過言ではないだろう。隣にいても変なプレッシャーはなく、安心できるだろうと思っていた。

 

 

 そう、それまではユタリア嬢こそが最高の女性だと疑っていなかった。

 

 けれど私はとある少女に出会ってしまったのだ。

 

 ――それはある日のことだった。

 

「次の社交界でハリンストン家のご令嬢と縁を結べないとなったらシュタイナー家の令嬢を妻に迎えなさい」

 朝食のついでとばかりに伝えられた父からの言葉を反芻しながら路地裏を歩いていた。

 気分転換をするために何か良いものはないかと数人に聞いたところ、第三騎士団の友人がいい甘味の店があると教えてくれたのだ。

 

「わかりにくいとこにあるからな、看板見逃すなよ」と忠告を受けただけあってなかなかに見つからない。

 二階部分あたりにあるらしい看板を探すこと数分。

 そろそろ休み時間が終わってしまうが、これだけ探して何も買わずに帰るものかと、足は自然と早く回る。

 やっと見つけた!

 そう声を上げかけた時だった。

 

「いった……」

 胸のあたりに小さな衝撃を受け、足元あたりで若い女が小さく声を上げたのは。



「すみません。お嬢さん、大丈夫ですか?」

 完全に私の前方不注意だと少女に手を差し出して、思いのほか軽い身体を立たせる。すると少女はパンパンと音を立ててドレスの裾についた砂埃を払った。

 

 その間に周りに散らばってしまった彼女の所持品を拾って一つの袋に入れる。

 そして言葉とともにそれを差し出した。



「どこか、怪我はしていませんか?」

「ええ、まぁ……」

 彼女は差し出した袋を受け取ると、私の顔を見つけるやいなやピタリと動きを止めた。

「どこか痛みますか? よろしければ近くの病院にお連れいたしますが」

「いえ、結構です」

 どこか打ったかと心配で顔を覗き込んで見たものの、彼女は素早く口を動かすだけだった。

「ですが……」

「健康状態に支障はありませんので、失礼いたします」

 ならばせめて治療費だけでも出させて欲しいと願い出るよりも早く、少女は軽く会釈をするとその場を立ち去ってしまった。

 

 頭上ではまた一刻と経過したことを告げる鐘がリンゴーンと鳴り響く。

 結局教えてもらった甘味の店には辿り着くことはできなかった。けれど代わりに今日もまた町娘がユタリア嬢に見えてしまうほどに疲れているのだと。

 

 その日から私は、仕事中は考え事が出来ないほどに仕事を受け、そして時間きっかりに帰るようにした。

 

「エリオット、お前どうしたんだ?」

 多くの同僚が心配そうに尋ねてきたが、なんでもないのだと笑って誤魔化す。すると彼らは納得いかなさそうにではあるがそうかと口だけは納得したように引き下がってくれた。

 

 …………のだが数日後、私は疲れて錯覚してしまった訳ではなかったのだと理解した。

 

 巡回中にあの少女を見つけたのだ。

 さすがに定時で上がっておいて、さらに睡眠時間をいつもより2刻ほど増やしておいて幻覚が見えるほど疲れているわけがない。



「君はこの前の……」

 クレープを頬張っている手を下ろす彼女との距離を詰める。すると彼女の表情は途端に暗いものへと変わっていく。

「あの後、痛みが出たとか、怪我していたことに気付いたとか、そういうことはなかったか?」

「ご心配いただきありがとうございます。ですが、以前も申し上げました通り心配していただかなくても結構ですので」

 

 ペコリと形式的に頭を下げると残りのクレープをがっついたように食らった。

 その姿がどこか可愛らしくて、不躾にもじいっと見つめてしまった自分がいた。



「だが……」

「それでは失礼いたします」

「いや、せめて治療代だけでも受け取ってくれ!」

 立ち上がる彼女の腕を掴み、せめてもと腰に下げている袋をそのまま彼女の手に乗せる。

 治療費と言えるほどはあるだろうが、足りないと言われれば彼女の言い値で出すつもりである。

 けれど少女は顔をしかめるばかりで、いつまでたってもその手を自らへと引き寄せようとはしない。

 しまいには「必要ありません」と言い出した。

 なんと心の広いことだろう。

 だがそれでは私の気が済まない。

 

「ですが、せめてこれくらいは……」

「ただぶつかっただけです! 怪我なんてしていませんので治療費も必要ありません!」

「ですが女性にぶつかって謝罪もしないというのは騎士として、いえ男としてあってはならないことです」

『騎士として』なんて取ってつけた理由ではある。自分でもわざとらしいとは思う。だがそれで謝罪の気持ちを受け取ってもらえるならば……。

 けれどその言葉は彼女の気に障ったようで、途端に顔を歪めた。

 

「あなたがそれを言いますか!」

「え?」

「ともかくこのお金は受け取れませんし、今回のことでの謝罪はすでに受け取りましたので、失礼します」

 

 それはまるであの日、ぶつかってしまった少女の叫びのようだった。

 私が謝りもしなかった、お金だけ渡して解決した気になっていたその少女の。

 

 悪いことをしてしまったと罪悪感が湧き上がる。けれど私はその少女のことを何も知らないのだ。

 

 どうしたらいいのかと立ち尽くしていると、同僚にポンと肩を叩かれた。

「ほら俺たちも帰るぞ」

 今まで静観していた彼にそう告げられた時にはすでに少女の姿はそこにはなかった。

 

 城へと帰る道中、ずっと見ていた彼にはコッテリと怒られた。

「あれはない」

 バッサリとそう切り捨ててからの説教は仕事が終わってからも酒場に連れ込まれて数刻ほど続いた。

 途中から説教というよりも女の口説き方になっていたのだが、それは簡単に受け流させてもらう。

 

 私には女性を口説く機会などないのだから。

 

 それから時間が開くたびに彼女ともう一度会えたのならどう詫びようかと考えるようになった。

 もう関わってやるなと言われたものの、やはりそれはなんだか申し訳ない。

 けれど探されてるとなればきっと彼女はいい気はしないだろう。

 

 だから『もし会えたならば』――と。

 

 だがいくら考えたところで答えなど出なかった。

 いや、案なら浮かんだのだ。

 だがそれはどれも彼女が喜んでくれそうなものではなく、むしろあの端正な顔を歪めそうなもの。

 

 

 ウンウンと唸りながら巡回も兼ねて城下町を散策していると、神からの贈り物かと尋ねたくなるほどのこのタイミングで、今にもスキップしだしそうなほどに楽しそうに歩く彼女の姿を見つけた。

 

 近くの本屋の名前が印字されたその袋を胸に抱えた彼女は空を仰いだ。

 

 見上げたくなるほどよく晴れた空に感謝をして、逃げられないうちに少女との距離を詰める。

 そして頭を下げた。

「先日は失礼なことをいたしました。……後であれは失礼だったと同僚に叱られまして……」

「はぁ……」

 ここまでは考えていた通りである。

 だがその次は……と考えているとふと頭にある食べ物が浮かんだ。

 

 あの時彼女が頬張っていた甘味である。

「それで、その……せめてもの償いにクレープをご馳走させていただければと思いまして……」

「クレープを?」

「以前お会いした時に食べていらしたのでお好きなのかと」

「クレープは好きですが、以前も申し上げました通り、ただぶつかっただけですし、どうかそこまでお気になさらないでください」

「ですが……」

「……わかりました。クレープ、奢ってください。本当にそれで全部チャラですからね?」

「はい!」

 

 ――と謝罪の気持ちで奢ると言ったのだが、純粋に私もそれを食べてみたかったというのもある。

 ただ単純に甘いものが好きだというのもあるが、彼女があれだけ幸せそうに頬張っていたそれが気になるのだ。

 

 頼んだのは彼女と同じ、チョコバナナクレープ。

 彼女の隣に並んで座ると大きく口を開けてそれを口へと運んだ。

 すると途端にあの日の少女への罪悪感が溢れ出す。

 

 これを私はダメにしてしまったのか――と。

 

 これほど美味しいものに出会ったことはなかった。

 この生地はもっちりとしており、チョコとバナナ、生クリームは絶妙なバランスで甘さという名のハーモニーを紡いでいる。

 

 これがクレープ、なのか。

 

 一言で今の気持ちを表すならばまさに『幸せ』である。

 ほおっと一息ついていると隣からチラチラと視線を感じた。

「あの……お仕事はいいんですか?」

 

 聞かれて途端に現実へと引き寄せられる。

 そう、私は今まさに仕事中だったのだ。息抜きも兼ねて、と言われはしたものの、さすがにこんなにくつろいでいいはずがない。

 ついつい素早く左右を確認して同僚の姿がないか確認する。

 

「大丈夫です」

 とりあえずは同僚の姿は近くには見つけられなかったためそう答える。

 

「そうですか」

 そして彼女が納得したように頷いたのを確認してから、再び柔らかなクレープを口いっぱいに頬張った。

 

 





『いつからその少女のことを気になっていたのか』と聞かれれば私はそれに正確に答えることなど出来ない。

 

 だがただ一つだけ確かに言えることはある。

 

「私はエリオット=ブラントンだ。君の名前は?」

「……ユリアンナです」

 

 果実のように綺麗なその唇がその名前を紡いだ時にはすでに私にとってその少女は『幸せのひととき』の一部だった。

 

「ユリアンナ、か。いい名前だな」

「ありがとうございます」

「ユリアンナ、よければ家まで送ろう」

「いえ、そう遠くはないので大丈夫です」

「そう、ですか……」

「クレープ、ありがとうございました」

 お詫びだったそれにお礼を告げて深々とお辞儀をするユリアンナはまるで貴族の令嬢のようだと感じた。けれどそれは同時に自分の願望でしかないのだと冷静な部分の自分が毒づいていた。

 





 ――のちにこの出会いが私の頭を抱えさせることとなるのだが、この時の、ユリアンナはユタリアと瓜二つの町娘であると信じて疑わなかった私は知る余地もないのである。