それから結婚式には大きな会場を用意することと、そして嫁入り道具として刺繍の入った生地を贈ってもらうことに決めた私達は、式の日時が決まり次第また連絡しに来ると告げてサンドレア領を去った。
 思い出のたくさん詰まったそのドレスは「確認が取れたから持って行っていいわよ」とのお姉様の言葉をもらい、カリバーン屋敷に身を移すことになった。
 もう何も恐れることのなくなった私には急に睡魔が襲いかかる。それは足の上でぬくぬくとした体温を与えながら寝ているグスタフから移ってきたに違いない。
「モリア、無理して起きていなくてもいい」
 ユラユラと船を漕ぎ始めた私はラウス様の肩に寄りかかるようにして馬車の中で眠りについた。

 夢で見るのはあの日の出来事――そして私はあの夜の全てを思い出した。

 壁の花を決め込んでいた私にミリアール様が手を滑らせてぶどうジュースをかけてしまったこと。
 慌てて婚約者のダイナス様を呼びに戻ったミリアール様。
 そして残された私はたまたまミリアール様のジュースがかかってしまったラウス様を見つけた。
 私のことは気にするなと言うラウス様の手を半ば強引に引っ張って、途中であった王家の使用人さんから洗剤を分けてもらうと休憩室に入り込んだ。

 そして乾かすまではラウス様のお話通り。

 だがその話には実は続きがあったのだ。ラウス様の口から語られることのなかった、彼の知らない出来事が。

 ラウス様と別れた後、私達を心配してダイナス様とミリアール様は私のいる休憩室を訪れた。そしてラウス様と共に夜会を抜け出した私が、他のご令嬢方に見つからないで無事に夜会から出られるようにと付けてくれたのだ。
「私、借りは作らない主義ですの!」とプリプリと怒りながら「私たちが気を引いている間に早く行きなさい」と私の背を押してくれた。
 あのフリルは刺繍を隠すためのものであり、そして私を守るためのものだったのだ。
 なぜ今さら思い出すのかと寝坊助な記憶に呆れたものだが、今さらで、全てが片付いた後で良かったのではないかとも思う私がいる。
 確かにあの日、私の中で恋が芽生えたのかもしれない。だがそれはあまりに小さな若葉で、記憶が残っていたとしても身分差を前に押しつぶされて枯れてしまっていたことだろうから。
 ミリアール様には今度会った時にお礼を言わなくてはならない。そしてお友達になってくれてありがとうと改めてご挨拶もするべきだろう。
 顔を染めながら可愛らしく怒った様子のミリアール様ならきっと「仕方ないわね!」と頬を緩めてくれるだろう。
 カリバーン家に戻ると目を赤く腫らしたアンジェリカが私達の元に突進するようにしてやってきた。
「私のせいで、お姉様がいなくなってしまったのかとばかり……」
「そんなことないわ。だからほら、涙拭いて」
「でもっ、でもっ、私はお姉様を守れませんでした……。帰って来てくれないと、不安で……」
「アンジェリカ、私はこうして帰って来たわ。サンドレア家にはね、これからカリバーンのお嫁さんとして暮らしていくってお話に行って来たのよ」
 結果的にそうなったのだから間違いではない。それにあの日のことを未だに悔やみ続けてくれる心優しいアンジェリカに、わざわざドレスの確認に行ったなんて告げることはないだろう。

 私はこれからもラウス様の隣に居られることになったのだから。

「本当ですか?」
「そうだぞ、アンジェリカ。お兄様はちゃんとモリアのご家族と式場の話し合いをして来た」
 頬を赤らめながらアンジェリカは遅れてやって来たお義母様に駆け寄った。
「お母様、お姉様のウェディングドレスは確か一週間後には完成するんですよね!」
「そうよ、先週頼みに行って完成を早めてもらったんだから!」
「お義母様……」
「モリアちゃんはもうカリバーン家の立派なお嫁さんなの。勘違いなんてこの私が許しませんから!」
 お義母様はその功績をラウス様に自慢するとラウス様はクシャリと笑って「ありがとう」と呟いた。お義母様はラウス様に慈愛の笑みを浮かべると、すぐに私達の手元に視線を移した。
「ところでそのドレスはどうしたの?」
「これは5年前の夜会で着たもので」
「まぁまぁまぁまぁ!! モリアちゃん、早速着てみましょう?」
「え?」
「ラウスも久し振りにこのドレスを着たモリアちゃん、見たいわよね?」
「まぁ……はい」
「アンジェリカ、モーチェフ様とサキヌを先にリビングに連れて行っておいて」
「はい!」
 私はお義母様と彼女の引き連れた使用人さん達に囲まれて、たちまちに5年前の姿へと変わっていった。
 あの日と違うのは私の顔が緊張で引きつった表情から幸せを噛みしめる女性の顔へと変わっていたことと、そして幸せを詰め込みすぎたせいか少し胸の辺りがキツくなったことだろう。
 5年ぶりに陽の目を浴びたそのドレスはこれから家族になっていく人たちの声に応えるかのように、あの日よりも色鮮やかに身を染めているような気がした。

 あれからウェディングドレスの最終調整や結婚式の日取り決めにとてんやわんやの私の元に珍しい来客が訪れた。
「久しいな。モリア=サンドレア」
 その名に耳を疑った私が来客室へと赴くとそこで待ち受けていたのは使用人さんに聞いた通りの人、マクベス王子だった。
 私の名前を口にしたことからアンジェリカと間違えて呼び出した、というわけでもなさそうだ。
「失礼します」
 そう一声かけて彼の目の前の席に着くとしばらく何とも言えない空気が私達の間をゆっくりと漂い始めた。けれどあの日のようにピリピリと肌を刺激するような空気ではないことに、私は少しだけホッとした。
 あの日はアンジェリカが居たが、一人であの空気は到底耐えられるはずがないからだ。
 用意されたお茶に口をつけたマクベス王子はカップを置くと、ゆっくりと、そして深々と頭を下げた。
「あの日のことは本当に申し訳なかったと反省している」
 彼の口から出たのは謝罪の言葉だった。
 それだけでも自分の目と耳の機能を疑っていた私だが、マクベス王子はまた一つ、私には信じがたい言葉を落とした。

「アンジェリカとの婚約は凍結状態になった」――と。

「え……」
 謝罪の言葉よりも信じがたいそれはマクベス王子自ら言い出したことらしい。
 あの日、最後に残したアンジェリカの冷たい視線はよく尖った氷のナイフとして胸に突き刺さったのだと、後悔を目に浮かべながらポツリポツリと教えてくださった。
「嫉妬、していたんだ。アンジェリカが興味を持つもの全てが憎くてたまらなかった。だが、もうそれも終わりにしようと思う。同じものを見て、そして大事に思えるような男になりたい。そしてアンジェリカに認めてもらえる男になったら、そうしたらもう一度正式な婚約者として彼女を迎え入れたいんだ」
 マクベス王子の目には後悔の他に、温かな希望が秘められていた。
「きっといつかその日が来ますよ」
「その時は、お前を義姉さんと呼んでやるからな! 首を長くして待っているといい」
「楽しみにしていますね」
「ああ!」
 それだけ告げるとマクベス王子は応接間を去っていった。去り際に王子の見せたその笑顔はアンジェリカとよく似ていて、二人がわかり合う日もさほど遠くはないのではないかと安心した。
 氷はいつか溶けるから。
 その時に聞ける「義姉さん」はきっと陽だまりのように温かいことだろう。