「ではお義姉様、私、私……」
「アンジェリカ、頑張って……」
 三週間ほど前は自分のことで余裕がなく、あまり気にしてあげられなかったのだが、今ならアンジェリカの顔の白さが一層際立っていることに気付くことができる。
 それは明らかに婚約者に会いに行くご令嬢のものとは程遠く、例えピーマンが大嫌いな子どもの口に無理矢理詰め込んだとしてもそうはならないだろう。
 部屋から出てきた時には今にも倒れてしまうのではないかと心配したものだが、アンジェリカのことをよく知るシェードいわく『いつものこと』らしく、今回は前回の訪問から期間が短いためにここまで気分を悪くしているらしいのだ。会う前にはストライキを起こすほどに全身全霊の駄々を捏ねるのが常なのだが、当日になればどんなに嫌でもちゃんと出向くのだという。
 あれだけ好意を示してもらって、彼女のことを妹のように思えてきた私ではあるが、こんな時は本当に無力であるとしか言いようがない。
「お義姉様……!!」
 振り返り、そして最後にせめてと抱きつくアンジェリカの頭を撫でてやると彼女は決心したような力強い瞳で見上げる。
「行ってまいります!」
 その姿はまさに御伽噺の勇者のようで、そんな彼女を見送った私は部屋へと戻ると夕方には帰って来るだろう彼女のために新たな刺繍を施すことにした。
 以前、予備で入れてくれたであろうハンカチに今度は薔薇ではなく、アンジェリカの笑顔にピッタリな黄色いチューリップを刺繍する。
 喜んでくれるだろうか?
 悲しげな表情も、強かな表情もなく、ただアンジェリカの歳にふさわしい明るく柔らかな笑みを浮かべてくれれば手の中の花も浮かばれることだろう。

「よし」
 目の前に掲げた黄色いチューリップを咲かすハンカチを眺める。心の中で我ながら上手くできたんじゃないかと自画自賛をしていると何やら外からの物音が目立つようになってきた。
 いつも通りに揃って出かけたお義父様とラウス様が帰って来るにはまだ早すぎる時間で、サキヌは今日は婚約者と遠駆けに出かけるのだと昼食を持って出かけていたから、やはり彼もまだ帰って来るには早すぎる。
 それにサキヌの場合はアンジェリカとは正反対の、頬が緩む一歩手前で何とか堪えているといった表情を浮かべていた。そんな彼が予定よりも早く帰って来るなんてことはないだろう。
 お義母様はといえば今日は手紙の返信に忙しいのだと、お茶会を催せないことに申し訳なさそうな表情を抱えて自室へと去って行った。その後を数歩遅れて歩く使用人の手には当たり前のように大量の手紙が乗せられていた。パッと見えただけでもサンドレア家に届く年間数ほどあり、これを一日で終わらせるつもりなのかと驚いたものだった。
 ……となればこの物音の正体はアンジェリカで間違いはないだろう。だがおかしなことに彼女の声が一向に聞こえてこない。
 何かあったのだろうか?
 ドアからそろりと顔を覗かせて廊下を探ると階段付近に5〜6人の使用人達がまとまって歩みを進めていた。その中にこの屋敷では特徴的な銀色の髪をしたシェードの姿がまず見つかった。ということは自然とそこにアンジェリカもいると考えていいだろう。おそらくは使用人達の真ん中に隠れてしまっているのだろう。そう考えをまとめていると次第に使用人達の歩みは加速して行き、そしてアンジェリカの自室のドアまで辿り着くとシェードを含めた全員がその前で止まってしまった。
「シェード、アンジェリカに何かあったの?」
 すっかり馴染みとなったシェードの側へとさささと近寄り、小さな声で尋ねると周りの使用人達に視線で合図を送った。
「モリア様、こちらへ……」
 するとシェードはアンジェリカの部屋から少し離れた場所へと移動した後で何があったかをかいつまんで教えてくれた。
「実はその……先日モリア様から頂いたハンカチをマクベス様が取り上げてしまわれまして……」
 時折申し訳なさそうにするのは私がアンジェリカを怒りはしないかと心配してのことだろう。そんなことするはずがないのだが、あんなにも喜びを表してくれた彼女のことだから海より深く落ち込んでいるに違いない。
 アンジェリカとマクベス王子との間に何があったかはわからないがシェードが「モリア様さえ良ければ、アンジェリカ様に声をかけていただきたく……」と口ごもっているところから察するに励ましに行っても構わないらしい。タイミングよく、私の部屋には先程完成したばかりのアンジェリカに渡すハンカチがある。
「あの、アンジェリカに渡したいものがあるのでちょっと部屋に取りに帰ってもいいですか?」
「モリア様! ありがとうございます……!」
 溢れそうになる涙を隠すようにして頭を下げるシェードを背に足早に部屋へと戻り、そして目当ての物を手に取った。後はアンジェリカの部屋を目指すだけだとドアノブに手をかけると再び外が騒がしくなってきた。
 今度は物音だけではなく、人の声も混じって。
 その声の主達は皆感情を露わにしているらしく、声だけでも彼らが苛立たしげであったり、また必死に誰かを静止するように声を押し殺しつつも懇願するような姿勢がうかがえる。後者は何度か耳にしたこの家の、カリバーン家の使用人のものだが、前者は初めて耳にする、まだ歳若い男性の声だった。
 その声はどんどん大きくなり、そして私がドアを開けていいのかどうか迷っているうちに遠ざかって行った。
 ハリケーンが過ぎ去ったとばかりに少しだけドアを開けると目に入ったのは、先程からアンジェリカの部屋の前で待機している使用人達に新たに加わった仲間とシェード。そして見慣れぬアンジェリカよりも二つか三つほど年上であろう炎を纏ったかのような紅の髪をした少年と、彼に付き添う頭から足のつま先まで全身黒で塗り固めたシェードと同じくらいの青年であった。