サキヌに教えてもらった通り、ここ数日ですっかりとお馴染みとなった薔薇の咲き誇る庭へと足を向けるとそこには本を捲るお義母様の姿があった。読書一つとってもこんなにも品というものが現れるものかとその姿に思わず息を呑む。すると神聖なるその場に闖入者がやってきたことに気づいたらしいお義母様はゆっくりと目を上げて、そして笑いかけた。
「モリアちゃん!」
私という異物が混入したからなのか彫刻のような上品さを保っていたお義母様はすっかりといつもの姿へと変わっていった。アンジェリカやサキヌの変化と全く同じである。やはり数日で人となりを十分に知るには難しかったということだろう。だが残念なことに私にはもう知るだけの時間は残されていない。
「ハンカチの刺繍が終わりましたので、もしよろしければ……」
やはり前の二人の時と同じように言葉を濁しながらハンカチを差し出すと、お義母様は快く受け取ってくれた。
「あら綺麗! モーチェフ様もきっと喜ばれるわ!」
最後の二枚を渡してしまった私の手にはもう何も残っていない。
そしてそれは同時にこの家ですべきことの終わりも告げていた。
「では失礼します」と深くお辞儀してからその場を立ち去ろうとする私をお義母様は何も言わずに腕を掴んで制止した。
「どうか、されましたか?」
「お話しましょう?」
「え?」
「今日は二人でお茶しましょう」
お義母様の言葉は尋ねているのではなく、この後の予定を確定させた報告であり、私に断るという選択肢はなかった。
それからすぐに私の分のカップと数回のお茶会で知られたのだろう、私のお気に入りのお菓子が運ばれてくる。そしてお義母様の正面が居場所として確立された私は、全てを見透かしてしまいそうな瞳をしたお義母様の視線を一身に受けることとなったのだ。
「モリアちゃん。今朝、ラウスが何かしでかしたようね」
その言葉でやっと私はこの場に来た時から尋問が開始される未来は出来上がっていたのだと知った。ここにサキヌとアンジェリカがいないのは私への優しさだろうか。ならば私も包み隠さずに話す必要があるだろう。
「ラウス様は……私が思い人ではないことを気づかれました」
私の重々しい告白から始まる罪の告白を打ち破ったのはお義母様の一言だった。彼女はたった一言「はぁ?」と発したのである。
「ごめんなさいモリアちゃん。あなたは悪くないのよ。そう、何も悪くないの。だけど、だけど一つだけ聞かせてちょうだい。ラウスは、あの馬鹿息子はあなたの誤解をまだ解いてなかったの!?」
「誤解、ですか?」
「あのね、モリアちゃん。ラウスが愛しているのは正真正銘あなたなのよ」
「ですが……」
「ラウスのことを全く覚えていないっていうのはあなたがこの家に来た翌日にラウスから聞かされているわ。そしてあなたが何か勘違いしているらしいってことも。会った日はあなたのデビュタントだし、顔を合わせたのはほんの少しだけって言うし、何よりあの子は迎えに行くのに五年もかかったんだから忘れられても仕方ないことよ。だから早く誤解を解いておきなさいってあれほど言ったのに、だからお買い物まで譲ったのに、何であの子はまだ何もしてないのよ!!」
それは私に向けてというよりはラウス様に向けての言葉だった。
そのせいだろう。ラウス様から口止めされていた五年という数字の謎とラウス様のことを全く覚えていない理由も一気に解決してしまった。
デビュタントの夜。
通りで全く覚えがないはずだ。あの日の記憶なら丸っと、スッポリ抜けてしまっているのだから。
よくよく考えても見れば、公爵という地位を持ちながらどの階級の夜会にも顔を見せるダイナス様を除いて下級貴族以外と手紙以外で交流を持ったのはあの一夜だけである。
我ながら何て失礼なことをしてしまったのだと頭が痛くなって来た。なんならこの罪をポンコツな頭ごと叩き割ってもらいたいくらいである。
「モリアちゃんはここで待っていて。あの馬鹿、引き摺ってでも連れてくるから!」
「いえ、私が謝罪に行きますので」
「モリアちゃんが謝ることなんて何一つもないわ!」
「全ては忘れていた私の責任です。どうか私に謝らせてください」
「モリアちゃん……」
謝って済むとは思っていない。
ラウス様は五年も私を想ってくれていたのに、私はすっかり忘れていて、あろうことか別人であるとまで言ってのけたのだから。だが一つ、引っかかるのはラウス様の『間違い』である。
彼は一体何を間違えたのだろうか?
いや、今はそんなこと気にしている場合ではない。
「モリア!」
自らの罪の重さにこうべを垂れる私の頭に降り注いで来たのはいつもと変わらず出かけたはずのラウス様だった。
時刻はまだ昼を少し過ぎたあたり。ラウス様の帰宅には些か早すぎるというものだ。驚きと早速やって来た謝罪の場に顔をゆっくりと上げ、そして目の前の人を見据えると朝とは明確に違う部分が一箇所だけ見つかった。
ラウス様は大きな白薔薇の花束を抱えていたのである。庭に咲く白薔薇と劣らないほどに無垢なその花は触れればすぐに散ってしまうほどに繊細なものだった。
「モリア、君との約束を違えてしまって本当にすまないと思っている。だが君さえよければこんな私と結婚してほしい」
その言葉は束になった繊細な薔薇達のように気をつけていなければすぐに崩れてしまいそうなほどに弱々しかった。
断られるのを怖れるように。
だが謝るのは私の方なのだ。
「悪いのは私です。あなたのことを忘れていたのですから」
「だが思い出してくれたのだろう? 私はモリアにハンカチを差し出されるまでずっと忘れていた。そして間違えた。モリアに贈るのは白薔薇でなくてはいけなかったのに……」
「ラウス様……」
「迎えに行くまでに五年もかかった。その上、約束すらまともに果たせないなんて、見損なっただろう?」
「……思い出してなどいないのです。緊張で、あの日のことは何も覚えていないのです。だから見損なわれるのは私の方です」
「…………それでも私の思いは変わらない。モリアは覚えていなくとも、私はあの夜、君が初めて参加した国王主催の夜会で君に恋をした」
「モリアちゃん!」
私という異物が混入したからなのか彫刻のような上品さを保っていたお義母様はすっかりといつもの姿へと変わっていった。アンジェリカやサキヌの変化と全く同じである。やはり数日で人となりを十分に知るには難しかったということだろう。だが残念なことに私にはもう知るだけの時間は残されていない。
「ハンカチの刺繍が終わりましたので、もしよろしければ……」
やはり前の二人の時と同じように言葉を濁しながらハンカチを差し出すと、お義母様は快く受け取ってくれた。
「あら綺麗! モーチェフ様もきっと喜ばれるわ!」
最後の二枚を渡してしまった私の手にはもう何も残っていない。
そしてそれは同時にこの家ですべきことの終わりも告げていた。
「では失礼します」と深くお辞儀してからその場を立ち去ろうとする私をお義母様は何も言わずに腕を掴んで制止した。
「どうか、されましたか?」
「お話しましょう?」
「え?」
「今日は二人でお茶しましょう」
お義母様の言葉は尋ねているのではなく、この後の予定を確定させた報告であり、私に断るという選択肢はなかった。
それからすぐに私の分のカップと数回のお茶会で知られたのだろう、私のお気に入りのお菓子が運ばれてくる。そしてお義母様の正面が居場所として確立された私は、全てを見透かしてしまいそうな瞳をしたお義母様の視線を一身に受けることとなったのだ。
「モリアちゃん。今朝、ラウスが何かしでかしたようね」
その言葉でやっと私はこの場に来た時から尋問が開始される未来は出来上がっていたのだと知った。ここにサキヌとアンジェリカがいないのは私への優しさだろうか。ならば私も包み隠さずに話す必要があるだろう。
「ラウス様は……私が思い人ではないことを気づかれました」
私の重々しい告白から始まる罪の告白を打ち破ったのはお義母様の一言だった。彼女はたった一言「はぁ?」と発したのである。
「ごめんなさいモリアちゃん。あなたは悪くないのよ。そう、何も悪くないの。だけど、だけど一つだけ聞かせてちょうだい。ラウスは、あの馬鹿息子はあなたの誤解をまだ解いてなかったの!?」
「誤解、ですか?」
「あのね、モリアちゃん。ラウスが愛しているのは正真正銘あなたなのよ」
「ですが……」
「ラウスのことを全く覚えていないっていうのはあなたがこの家に来た翌日にラウスから聞かされているわ。そしてあなたが何か勘違いしているらしいってことも。会った日はあなたのデビュタントだし、顔を合わせたのはほんの少しだけって言うし、何よりあの子は迎えに行くのに五年もかかったんだから忘れられても仕方ないことよ。だから早く誤解を解いておきなさいってあれほど言ったのに、だからお買い物まで譲ったのに、何であの子はまだ何もしてないのよ!!」
それは私に向けてというよりはラウス様に向けての言葉だった。
そのせいだろう。ラウス様から口止めされていた五年という数字の謎とラウス様のことを全く覚えていない理由も一気に解決してしまった。
デビュタントの夜。
通りで全く覚えがないはずだ。あの日の記憶なら丸っと、スッポリ抜けてしまっているのだから。
よくよく考えても見れば、公爵という地位を持ちながらどの階級の夜会にも顔を見せるダイナス様を除いて下級貴族以外と手紙以外で交流を持ったのはあの一夜だけである。
我ながら何て失礼なことをしてしまったのだと頭が痛くなって来た。なんならこの罪をポンコツな頭ごと叩き割ってもらいたいくらいである。
「モリアちゃんはここで待っていて。あの馬鹿、引き摺ってでも連れてくるから!」
「いえ、私が謝罪に行きますので」
「モリアちゃんが謝ることなんて何一つもないわ!」
「全ては忘れていた私の責任です。どうか私に謝らせてください」
「モリアちゃん……」
謝って済むとは思っていない。
ラウス様は五年も私を想ってくれていたのに、私はすっかり忘れていて、あろうことか別人であるとまで言ってのけたのだから。だが一つ、引っかかるのはラウス様の『間違い』である。
彼は一体何を間違えたのだろうか?
いや、今はそんなこと気にしている場合ではない。
「モリア!」
自らの罪の重さにこうべを垂れる私の頭に降り注いで来たのはいつもと変わらず出かけたはずのラウス様だった。
時刻はまだ昼を少し過ぎたあたり。ラウス様の帰宅には些か早すぎるというものだ。驚きと早速やって来た謝罪の場に顔をゆっくりと上げ、そして目の前の人を見据えると朝とは明確に違う部分が一箇所だけ見つかった。
ラウス様は大きな白薔薇の花束を抱えていたのである。庭に咲く白薔薇と劣らないほどに無垢なその花は触れればすぐに散ってしまうほどに繊細なものだった。
「モリア、君との約束を違えてしまって本当にすまないと思っている。だが君さえよければこんな私と結婚してほしい」
その言葉は束になった繊細な薔薇達のように気をつけていなければすぐに崩れてしまいそうなほどに弱々しかった。
断られるのを怖れるように。
だが謝るのは私の方なのだ。
「悪いのは私です。あなたのことを忘れていたのですから」
「だが思い出してくれたのだろう? 私はモリアにハンカチを差し出されるまでずっと忘れていた。そして間違えた。モリアに贈るのは白薔薇でなくてはいけなかったのに……」
「ラウス様……」
「迎えに行くまでに五年もかかった。その上、約束すらまともに果たせないなんて、見損なっただろう?」
「……思い出してなどいないのです。緊張で、あの日のことは何も覚えていないのです。だから見損なわれるのは私の方です」
「…………それでも私の思いは変わらない。モリアは覚えていなくとも、私はあの夜、君が初めて参加した国王主催の夜会で君に恋をした」