ラウス様を見送った私は今、ひたすらに、手が動くがままにお義母様に分けて頂いたハンカチーフに刺繍をしている。
 モデルは庭で目にした赤いバラだ。バラ自体はサンドレアの家にいた時も何度か刺繍をしたモチーフでもあるし、慣れたものである。それに工芸品作りもいくつかマスターしつつあった私は手先の器用さには自信があるのだ。
「モリアちゃん、器用ねぇ……」
「あ、もう葉の部分に入りましたわ!」
「義姉さん、糸足りてる? 大丈夫?」
 だが初めこそ私と同じように刺繍をしていたはずのお義母様たちの、まるで手品でも見ているかのような好奇な視線には慣れないのだ。サキヌに至ってはアンジェリカとお義母様の感嘆の声を聞きつけてやってきたというのだからプレッシャーが尋常ではない。慣れた動きの手が震えることはないが、針をつまむ指先に汗が滲んでいることは確かである。
「出来た……!」
 緊張からかいつもより時間はかかったものの、分けていただいたハンカチを無駄にすることなく仕上げられたことに胸を撫で下ろす。するともう終わったというのに、それはもう熱心な視線が手元に注がれている。
「ア、アンジェリカ?」
 キラキラキラキラと降り注ぐのはアンジェリカの視線だ。ただ一心に私の手元、もとい刺繍が終わったハンカチへと捧げられている。
「お義姉様!」
 かと思えばばっと私を見上げるように顔を振りかぶると私の二つの手首をまとめるようにして捕らえた。
「な、何でしょうか!?」
 悪いことは特にしてはいないと思うのだけど、それでも今の気持ちは捕縛される罪人のようだ。
 罪状は何だろう?
 嘘をついたこと?
 好意に甘え過ぎたこと?
 それとも気を遣わずにひたすら刺繍を続けていたことだろうか?
 だがアンジェリカの口から出たのは考えれば考えるほどに思いつくそれらとは全くの別物だった。
「よろしければそのハンカチ、私にいただけませんか!?」
「へ?」
「その美しい刺繍を抱くたびにお義姉様の顔を思い出すのです! そうすれば数々の苦痛もきっと耐えることができるでしょう……。ですから、ですからどうか私にそのハンカチを!!」
 アンジェリカは熱い視線を私へと送り続ける。そんな私はといえば、特に何も考えてはいなかった。さすがに分けて頂いた材料で作ったものを売ろうなんて、そんなこと……全く考えなかったといえば嘘になるけど今は思ってない。だがさすがに手元の刺繍の終わったハンカチの行き先までは考えていなかった。
 こんな高価そうなものを使う予定もなさそうだし、若いのに色々と気苦労が多そうなアンジェリカにプレゼントするのもいいだろう。
 確かアンジェリカは数日後、婚約者である王子様と会うというのだという。あの、部屋に引きこもるほどに嫌がった婚約者様と。なぜアンジェリカがあそこまで嫌がるのか理由はわからないが、私を囮にして彼女を部屋から出すのに成功したのも事実である。ならば今回はこのハンカチを囮にするのもいい。
「私のでよければ……」
 そしてアンジェリカの手に渡そうとすると、私と彼女の手を結ぶ空間はお義母様によって遮られた。
「ちょっと待ちなさい、アンジェリカ。年功序列というものを知らないわけではないでしょう? ということは私が先よ!」
 ……どうやらお義母様もこのハンカチが欲しいらしい。
 私の周りではこれくらい出来るのが当たり前で、これ以上出来る令嬢たちなどワラワラいるのだが二人には珍しいものらしい。放置されたそれらは縫い目が綺麗だが、私の友人たちのものと比べると少しばかり技術力が劣っている。よくよく考えれば貴族の令嬢として嗜むほどには刺繍をするのだろうけれど極めることはないのだろう。雨の日は大抵暇を持て余していた私たちとは違うのだ。
 私が手元のハンカチを凝視していると、それを困惑と受け取ったのか、横で傍観を決め込んでいたサキヌが彼女たちをやんわりと諌めた。
「アンジェリカもお母様も落ち着いて。姉さんもやっぱり初めはお兄様に贈るために作っているんだろうから、ね?」
「うっ……」
 私のために言ってくれたであろうサキヌの言葉は心にグサリと突き刺さった。一応、仮初めの、(仮)がつこうが今の私はラウス様の婚約者である。先日の外出の際、何があったかは全く覚えてはいないものの、部屋に飾られた花はラウス様からの贈り物であるというのは確認済みだ。ならば何かお返しをしなくてはならないと考えるのが貴族として、人としての常識ではないだろうか。失念していた自分が恥ずかしい……。
「義姉さん?」
「サキヌ、ありがとう」
 材料は頂き物だが、サキヌが遠回しにもそうしていいと教えてくれたのだからそうしない手はない。というより今の私にはこれくらいしかお返しものとして用意できるものなどない。
 サキヌの手を包み込むようにして心からのお礼を告げると彼の顔はなぜか少しだけ赤らんだような気がした。
「ラウスお兄様ばっかりズルイですわ……」
「そうよねぇ……。私たちだってモリアちゃんのために頑張ってるのに……」
 二人はよく似た顔を並べては頬を膨らませながらここにはいないラウス様への恨み言を呟いていた。
「初めてのお買い物だってお兄様とだったのに……」
「お茶会はお兄様よりも先に義姉さんとしただろう……」
「ラウスはお茶会なんて滅多にしないじゃない!」
「まぁそうだけど、義姉さんはお兄様の妻となるんだから仕方ないだろう?」
「私はモリアちゃんのお義母様よ!」
「私だって義妹ですわ!」
 二人はよほどハンカチが欲しいのか、サキヌがどんなに諌めようとも引くつもりはないようだ。これにはさすがの彼もお手上げ状態らしく、お義母様とアンジェリカに向き合っていた身体を今度は私の方へと向けて頭を下げた。
「義姉さん、どうか二人の分も作ってやってほしい」
「はい!」
「で……。出来れば、義姉さんの負担にならなければなんだけど……」
「はい」
「俺とお父様の分も作ってもらえるかな?」
「もちろんです!」
 申し訳なさそうに頬を掻くサキヌに元気よく返事を返した。すると彼だけではなく、お義母様とアンジェリカの顔、ひいては私の顔までも和らいでいく。
 サキヌからの申し出によって、ラウス様が不在の時間のカリバーン家での仕事が見つかったのだった。嬉しくないはずがない。
 脱 穀潰しである。