「そうだ、モリア。何か不便に感じていることはないか?」
「ありません。皆様、本当に親切にしてくださっていて……」
 ラウス様の唐突な質問に模範解答とも言える言葉を返した私だったが、言った後でそれは間違えだったと気づいた。
 私の隣のラウス様は困ったような表情を浮かべていたのだ。
 ないこともないのだが、そろそろ勘違いに気づいてほしいなんてラウス様が私のことを自分が惚れた相手だと信じきっている以上は言って仕方のないことだ。
 私が地道に探してラウス様の前に連れてくるか、ラウス様の前に現れてくれることを祈る他ない。
 そのほかに困っていることといえば、まず頭に浮かぶのはここ数日での運動不足で、これもまたラウス様に相談するようなことではない。これからもひたすら自室で筋力トレーニングに励むだけである。
「本当に何もないのか? どんな些細なことでもいいんだ」
 相変わらず困ったような表情を浮かべながら問いかけてくるラウス様に、これは何とかして困っていることを見つけなくてはと思ってしまう。
 何か困っていること、困っていること……。
「あ!」
「何かあったか?」
「いえ、困っているってほどではないのですが……」
「何でもいいんだ。言ってみてくれないか?」
「部屋、なのですが少し暗いイメージがあるので少し彩があった方がいいかなと思いまして……」
 それは以前ふと思ったことだった。
 私が今現在あの部屋を使う際に困っているわけではないが、本当のラウス様の想い人が今後あの部屋に来た場合、もう少し彩があった方が心が安らぐのでは?と感じたのだ。
「彩、か」
「はい。花を飾るだけでも華やかになると思います」
「モリアは花が好きなんだな」
「はい、綺麗ですから。それに花といっても種類がたくさんありますから花そのものが嫌いな人は少ないと思います」
 だから趣味嗜好がわからない相手に用意する部屋だとしても飾りやすい。ずっとそこに飾り続けるというよりは定期的に入れ替えて楽しめるものだから、後でその人の好みに変えられるからだ。細かいものは後で、誕生日だとか結婚記念日だとか、好みを知った後でお祝い事の時にプレゼントしていけばいいのだ。
 自分のことを考えて選んでくれたとなれば嬉しいものだろう。
「モリアはどんな花が好きなんだ?」
「私ですか? そうですね……私はレモン色やオレンジ色といった明るい色の花、でしょうか。見ていて明るい気持ちになれます」
「明るい気持ちに……か」
「あ、あくまで私はというだけで他の女性もそうであるとは限りませんからね」
 納得したように深く頷いてみせたラウス様に私は慌てて付け足す。
 それが一般的な女性の花に対するイメージだとは限らない。
 香りに癒されたい人もいれば、落ち着いた色合いの花を好む人もいるだろう。
 好きな花の種類なんて人それぞれなのだ。
「ああ、わかっているさ」
 そう返したラウス様は楽しそうに笑った。
 本当にわかってくれたのだろうか?
 少し心配だ。今日はいつにも増して機嫌がいいのは喜ばしいことだが、そんなラウス様の心情はいつにも増して読めないのだった。
「ラウス様はどんな花がお好きですか?」
「私は花はあまり詳しくなくて……。だがモリアの植えた花は綺麗だと思う」
 私の植えた花というのはおそらくあの、庭師たちの仕事を邪魔しながら玄関先に植えた、花壇の花のことだろう。それを生業とする彼らが選んだ花なのだから色合いのバランスもバッチリである。私はそれを彼らのアドバイスを受けながら植えていただけで私の成果などほとんどないのだが、ほんの少しだけ自分が関わっていたこともあり、嬉しくなる。
「ありがとうございます」
 出来ることなら彼らに直接聞かせてあげたい言葉で、ここにいないことが悔やまれる。後で私からラウス様が綺麗だとおっしゃっていたと伝えたところで効果は半減だろう。
 走り続けた馬車が止まり、ラウス様に支えられながら降りた先で見たのは宝飾店のガラス張りのウィンドウだった。
 まさか買い物ってここで?と思いカクカクと首を機械のように動かしながら横を見上げるとラウス様の視線は真っ直ぐに、ガラス張りのウィンドウに固定されていた。
 どうやら今日のお買い物はここでするらしい。
 買い物って見るだけでも楽しいと思っていた自分を今からでも怒りたい。拒否権はないのでここに来る未来は変わらなかったのだろうが、だとしても心積もりがあるかないかで大きく変わる。
 ただでさえ花瓶一つを恐れている私が、いくら頑丈に作られたショーウィンドウで守られているとはいえ、傷のつきやすいものばかりが揃う宝飾店に緊張感を全く持たずして臨むということがどれだけ無謀なことか、他ならぬ私がよく知っている。
「モリア? どうかしたのか?」
「いえ、なんでもありません」
 今すぐに緊張感を最大限に発揮して臨むしかあるまい。
 ここは王都、ここは王都。と頭に何度も語りかけながら一歩、また一歩を踏み出す。
 ――店員によって開かれたドアの先の風景は私の記憶に刻まれることはなかった。

 そして気付いた時にはベッドの上にいた。
 デビュタントの夜やカリバーン家に来た夜と同じだ。
 窓から見える風景は闇夜一色で、私があの宝飾店でのことをやり切ったことを語っていた。
 それが果たして上手くやれていたかはわからないが、そればかりは商品に傷をつけて買取になって、そのせいでまた借金が膨れ上がっていた……なんてことがないように願う他ない。もう夜も遅い。今日はとにかく休んで明日にでも何となくラウス様に聞いてみることにしよう。
 再び意識を手放す前に思ったのは、そういえば今日は筋力トレーニングをしていないなということだった。