「行くか……」
ウジウジして、忙しいラウス様の貴重な朝の時間をこれ以上奪うわけにはいかない。
これでラウス様が先に食事を始めてくれていると嬉しいのだが、昨日の朝、ダイニングルームを去った私をわざわざ追いかけてきたくらいだし、先に始めているというのはないのだろう。
ゆっくりと深呼吸とため息を兼ねた息を吐き出してドアを押し出す。すると斜め下に固定した視線には何やら人の足らしきものが写り込んだ。
開けたのは紛れもなく自室のドアであり、使用人が出ていってからさほど時間は経っていないものの、忘れ物か何かがあればドアの前で待ち続けるということもないだろう。それに何より私の視線に写り込んだのはカリバーン家の女性の使用人が着ている黒と白のかっちりとしたワンピースの制服ではない。どこからどう見ても男性の、それもピッタリと足にフィットした仕立てのいい真っ黒のパンツなのだ。
おずおずと視線を上へと動かして行くと、そこにあったのはラウス様の顔だった。
「ラウス、様?」
「着替え終わったか? それでは行こうか」
なぜラウス様が部屋の前で私の着替えを待っていたのかを理解できずにいると、すっかり頭が覚醒したラウス様は手を差し出す。
先ほど戸惑っていた人とは思えない。
ウジウジと悩み続ける私なんかよりずっと切り替えが上手い。私なんかと比べること自体間違っているのだろうが、これがエリート一家と呼ばれる所以なのだろう。
「はい」
ならば私もこれ以上悩むのはやめてしまおう。
元来私はここまでウジウジと悩む方ではない。
一応とはいえ貴族の端くれではあるため、昔からそれなりの教育は受けさせてもらっていた。だから最低限の知識はあるのだ。これでも、一応。けれど私の知識は教えられたものをそのまま暗記したものであり、自分で考えるのはからっきし。ザックリいってしまうと頭はあまりよろしくない。
お兄様みたいに領地を治める訳ではないし、それでもいいと思っていた。お兄様達もお姉様達も『モリアはそのままでいい』と言ってくれた。
そのせいか昔から難しいことを考えるのが苦手なのだ。すぐに頭が痛くなってしまう。
私は難しいことを考えるのが苦手で、けれどラウス様はこの国随一の頭脳を有する人のなる職の宰相の補佐なんてものを務めているくらいだからきっと考え事は得意だろう。
そんなラウス様が気にせず振舞っているのならばあまり難しく考えない方がいいのではと思ってしまう。自分にいいように考えてしまっているだけかも知れないけれど、私に出来ることはさほど多くはないのだ。
サンドレア家の借金返済のために、ラウス様の本当の想い人が見つかるまでの間、カリバーン家の、ラウス様の隣で彼を支えればいい。細かいことは抜きにしてこの大きな目標を達成できるように励めばいいのだ。
そうと決まれば、もう迷うことなどないもない。
差し出された手に遠慮なく自分の手を重ねるとラウス様は今までにもたくさんの令嬢を魅了してきたのであろう、蕩けてしまいそうな顔で微笑みを浮かべる。
こんな顔を向けられたら、人違いでもラウス様が幸せならそれでもいいかな、なんて思ってしまいそうになる。これじゃあ夜会にいる令嬢を野生のケモノみたいだなんて言えない。彼女達もこの微笑みに魅了されてしまったに過ぎないのだろう。
こんなの……一発で落ちるに決まってる。
もう一度その微笑みを浮かべて欲しくて、自分だけに向けて欲しくて。貪欲と思われようが、手を伸ばさずにはいられないのだろう。
私もさっきの目標を掲げていなければ我を忘れて陥落するところだった。危機一髪というやつだろう。危ない危ない。
「お義姉様!」
私がラウス様の数多の女性を虜にしてきた微笑みから現実に戻りかけていると、それを手助けするかのような声が廊下に響いた。
その声の主はアンジェリカ様だ。髪を軽やかに靡かせながらこちらへ勢いよく向かってくる。
ここでいきなりの自慢であるが私のお姉様達もなかなか綺麗な顔立ちではあった。極たまにではあったが本当に私って家族と血が繋がっているのかと思ってしまうほどに。
まぁそんなことを口に出すと『モリアは誰が拾ってきたのか、これから誰が育てていくのか問題』がお兄様達とお姉様達の間で熱い議論が昼夜問わず交わされ、止めようとしても「モリアは誰がいいの?」と威圧感の強い笑みで迫られるので一度しか口にしたことはないのだが……。
そんな私と違って美人なお姉様達でも、私の目の前で笑顔を浮かべるアンジェリカ様と比較してしまうと一気に霞んでしまう。これが天使のような女性というのだろう。窓から差し込む日の光がアンジェリカ様の髪に降り注いで天使の輪っかのようなものさえ見えてくる。本当にこの家にいると人の顔の価値観が狂いそうになる。ここまでいくともう自己嫌悪にすら陥らなくなるのだから不思議なものだ。
目の前の少女がただ愛おしくてたまらない。
「アンジェリカ様、おはようございます」
「おはようございます、お義姉様、お兄様」
彼女の小さな歩幅で三歩分ほど離れた位置で立ち止まったアンジェリカ様に挨拶をするとその可愛らしい顔で私とラウス様を見上げるようにして挨拶を返した。
「ああ、おはよう」
ラウス様も遅れて挨拶を返すが、アンジェリカ様の瞳にはすでにラウス様は映っていない。
「お義姉様、今日のお茶会なのですが少し時間を早めて昼食も庭でとるのはいかがでしょう?」
「はい。アンジェリカ様の都合がよければ私はいつからでも……」
どうせやることといっても筋力トレーニングぐらいしかない。だが思い立ったその日から全力で取り組めばきっとすぐに身体の方が根を上げてしまうだろう。だから今日は元々軽めに済まそうと思っていた。
それなら寝る前の短時間でもいい。
「本当ですか! なら今からでもみんなで!」
私の返答が予想以上だったらしく、アンジェリカ様の瞳は一層輝きを増していく。
「……それはダメだ。俺とお父様の食事が間に合わなくなる」
アンジェリカ様の提案を拒むことに少しだけ躊躇ったのはきっとすぐに否定してしまってはアンジェリカ様を可哀想に思ったのだろう。けれどそれよりも出勤前の朝食の重要性の方が勝ったというわけだ。さすが朝食を大事に考えているラウス様だ。こんなに可愛らしいアンジェリカ様の上目遣いにも折れかかることはあれどなんとかたち直す。するとアンジェリカ様はテディベアを抱きかかえながら口を一文字にしながら思案する。
「それは、まぁ、そう……ですわね……。お兄様とお父様を仲間外れにしたらかわいそうですものね……」
つい昨日『仲間外れ』にされたばかりのアンジェリカ様は同じ思いをお義父様やラウス様にさせたくはないのだろう。
そこまで私との食事がお義父様やラウス様にとって重要かどうかはさておきとして、アンジェリカ様にとってはとても重要なことらしい。理由はわからないが光栄なことだ。
「ああ、だから昼食とお茶で我慢してくれ」
ラウス様はうーんと唸るアンジェリカ様を励ますため、彼女の頭を撫でようとラウス様が手を伸ばす。すると、ばっとアンジェリカ様は上を見上げた。
「あ! でしたら、夜。夜なら大丈夫ですわ!」
必死で見つけ出した答えをどうだ!とばかりにラウス様に突き出すアンジェリカ様はその答えが否定されることを一切疑っていない。
窓から差し込む日の光か、天井から吊るされたライトの光なのか、それともその両方なのか、それらはアンジェリカ様の元に一気に集まって彼女を照らしているみたいだ。
「…………モリアはそれでいいか?」
それなら仕方ないかと抵抗することを諦めたらしいラウス様は申し訳なさそうな顔でこちらを伺った。
「ええ、構いません」
私もアンジェリカ様には勝てそうもないのだからそう答えるしかない。
ウジウジして、忙しいラウス様の貴重な朝の時間をこれ以上奪うわけにはいかない。
これでラウス様が先に食事を始めてくれていると嬉しいのだが、昨日の朝、ダイニングルームを去った私をわざわざ追いかけてきたくらいだし、先に始めているというのはないのだろう。
ゆっくりと深呼吸とため息を兼ねた息を吐き出してドアを押し出す。すると斜め下に固定した視線には何やら人の足らしきものが写り込んだ。
開けたのは紛れもなく自室のドアであり、使用人が出ていってからさほど時間は経っていないものの、忘れ物か何かがあればドアの前で待ち続けるということもないだろう。それに何より私の視線に写り込んだのはカリバーン家の女性の使用人が着ている黒と白のかっちりとしたワンピースの制服ではない。どこからどう見ても男性の、それもピッタリと足にフィットした仕立てのいい真っ黒のパンツなのだ。
おずおずと視線を上へと動かして行くと、そこにあったのはラウス様の顔だった。
「ラウス、様?」
「着替え終わったか? それでは行こうか」
なぜラウス様が部屋の前で私の着替えを待っていたのかを理解できずにいると、すっかり頭が覚醒したラウス様は手を差し出す。
先ほど戸惑っていた人とは思えない。
ウジウジと悩み続ける私なんかよりずっと切り替えが上手い。私なんかと比べること自体間違っているのだろうが、これがエリート一家と呼ばれる所以なのだろう。
「はい」
ならば私もこれ以上悩むのはやめてしまおう。
元来私はここまでウジウジと悩む方ではない。
一応とはいえ貴族の端くれではあるため、昔からそれなりの教育は受けさせてもらっていた。だから最低限の知識はあるのだ。これでも、一応。けれど私の知識は教えられたものをそのまま暗記したものであり、自分で考えるのはからっきし。ザックリいってしまうと頭はあまりよろしくない。
お兄様みたいに領地を治める訳ではないし、それでもいいと思っていた。お兄様達もお姉様達も『モリアはそのままでいい』と言ってくれた。
そのせいか昔から難しいことを考えるのが苦手なのだ。すぐに頭が痛くなってしまう。
私は難しいことを考えるのが苦手で、けれどラウス様はこの国随一の頭脳を有する人のなる職の宰相の補佐なんてものを務めているくらいだからきっと考え事は得意だろう。
そんなラウス様が気にせず振舞っているのならばあまり難しく考えない方がいいのではと思ってしまう。自分にいいように考えてしまっているだけかも知れないけれど、私に出来ることはさほど多くはないのだ。
サンドレア家の借金返済のために、ラウス様の本当の想い人が見つかるまでの間、カリバーン家の、ラウス様の隣で彼を支えればいい。細かいことは抜きにしてこの大きな目標を達成できるように励めばいいのだ。
そうと決まれば、もう迷うことなどないもない。
差し出された手に遠慮なく自分の手を重ねるとラウス様は今までにもたくさんの令嬢を魅了してきたのであろう、蕩けてしまいそうな顔で微笑みを浮かべる。
こんな顔を向けられたら、人違いでもラウス様が幸せならそれでもいいかな、なんて思ってしまいそうになる。これじゃあ夜会にいる令嬢を野生のケモノみたいだなんて言えない。彼女達もこの微笑みに魅了されてしまったに過ぎないのだろう。
こんなの……一発で落ちるに決まってる。
もう一度その微笑みを浮かべて欲しくて、自分だけに向けて欲しくて。貪欲と思われようが、手を伸ばさずにはいられないのだろう。
私もさっきの目標を掲げていなければ我を忘れて陥落するところだった。危機一髪というやつだろう。危ない危ない。
「お義姉様!」
私がラウス様の数多の女性を虜にしてきた微笑みから現実に戻りかけていると、それを手助けするかのような声が廊下に響いた。
その声の主はアンジェリカ様だ。髪を軽やかに靡かせながらこちらへ勢いよく向かってくる。
ここでいきなりの自慢であるが私のお姉様達もなかなか綺麗な顔立ちではあった。極たまにではあったが本当に私って家族と血が繋がっているのかと思ってしまうほどに。
まぁそんなことを口に出すと『モリアは誰が拾ってきたのか、これから誰が育てていくのか問題』がお兄様達とお姉様達の間で熱い議論が昼夜問わず交わされ、止めようとしても「モリアは誰がいいの?」と威圧感の強い笑みで迫られるので一度しか口にしたことはないのだが……。
そんな私と違って美人なお姉様達でも、私の目の前で笑顔を浮かべるアンジェリカ様と比較してしまうと一気に霞んでしまう。これが天使のような女性というのだろう。窓から差し込む日の光がアンジェリカ様の髪に降り注いで天使の輪っかのようなものさえ見えてくる。本当にこの家にいると人の顔の価値観が狂いそうになる。ここまでいくともう自己嫌悪にすら陥らなくなるのだから不思議なものだ。
目の前の少女がただ愛おしくてたまらない。
「アンジェリカ様、おはようございます」
「おはようございます、お義姉様、お兄様」
彼女の小さな歩幅で三歩分ほど離れた位置で立ち止まったアンジェリカ様に挨拶をするとその可愛らしい顔で私とラウス様を見上げるようにして挨拶を返した。
「ああ、おはよう」
ラウス様も遅れて挨拶を返すが、アンジェリカ様の瞳にはすでにラウス様は映っていない。
「お義姉様、今日のお茶会なのですが少し時間を早めて昼食も庭でとるのはいかがでしょう?」
「はい。アンジェリカ様の都合がよければ私はいつからでも……」
どうせやることといっても筋力トレーニングぐらいしかない。だが思い立ったその日から全力で取り組めばきっとすぐに身体の方が根を上げてしまうだろう。だから今日は元々軽めに済まそうと思っていた。
それなら寝る前の短時間でもいい。
「本当ですか! なら今からでもみんなで!」
私の返答が予想以上だったらしく、アンジェリカ様の瞳は一層輝きを増していく。
「……それはダメだ。俺とお父様の食事が間に合わなくなる」
アンジェリカ様の提案を拒むことに少しだけ躊躇ったのはきっとすぐに否定してしまってはアンジェリカ様を可哀想に思ったのだろう。けれどそれよりも出勤前の朝食の重要性の方が勝ったというわけだ。さすが朝食を大事に考えているラウス様だ。こんなに可愛らしいアンジェリカ様の上目遣いにも折れかかることはあれどなんとかたち直す。するとアンジェリカ様はテディベアを抱きかかえながら口を一文字にしながら思案する。
「それは、まぁ、そう……ですわね……。お兄様とお父様を仲間外れにしたらかわいそうですものね……」
つい昨日『仲間外れ』にされたばかりのアンジェリカ様は同じ思いをお義父様やラウス様にさせたくはないのだろう。
そこまで私との食事がお義父様やラウス様にとって重要かどうかはさておきとして、アンジェリカ様にとってはとても重要なことらしい。理由はわからないが光栄なことだ。
「ああ、だから昼食とお茶で我慢してくれ」
ラウス様はうーんと唸るアンジェリカ様を励ますため、彼女の頭を撫でようとラウス様が手を伸ばす。すると、ばっとアンジェリカ様は上を見上げた。
「あ! でしたら、夜。夜なら大丈夫ですわ!」
必死で見つけ出した答えをどうだ!とばかりにラウス様に突き出すアンジェリカ様はその答えが否定されることを一切疑っていない。
窓から差し込む日の光か、天井から吊るされたライトの光なのか、それともその両方なのか、それらはアンジェリカ様の元に一気に集まって彼女を照らしているみたいだ。
「…………モリアはそれでいいか?」
それなら仕方ないかと抵抗することを諦めたらしいラウス様は申し訳なさそうな顔でこちらを伺った。
「ええ、構いません」
私もアンジェリカ様には勝てそうもないのだからそう答えるしかない。