夜会まで後一週間を切ったからか、その日から再びディートリッヒ様の帰りが遅い日々が続いた。帰ってこられない日さえあるほどだ。

 夜会が終わってもしばらく忙しいだろうし、ディートリッヒ様はもちろんのこと、シンドラー王子やマリー様も目まぐるしい日々を送っていることだろう。外部の人間となった私には夜会がつつがなく終わることを祈ることしか出来ない。
 疲労困憊といった様子で帰ってきたディートリッヒ様に『おかえりなさいませ』と腰を曲げるだけだった。

 けれどそんな日々が終われば、ディートリッヒ様はまとまった休みがとれるらしい。
 その休みが終わった後はまた一緒に城に来てもらうことになるだろう、だから君は今のうちに休んでいてくれ、と頻繁に休みをもらうようになった。


 決してリストラではないはず、と休みを言い渡される度に心を落ち着かせる。そして休日の度に王都散策をすることが多くなった。

 フランカに作ってもらった服とその他の2着は仕事用だけど、その時一緒に買ったエプロンドレスは私のお気に入りだ。あまりに気に入りすぎて色違いの物をもう一着衝動買いしてしまったほど。
 元々持っていた服と合わせると、少しだけ衣装持ちになったように思う。フランカ曰く、元が少なすぎるとのことだけど、外出時に気にならない程度持っていれば十分なのだ。

 お気に入りの色違いを身にまとい、私は今日も王都に繰り出す。
 お目当ては近頃平民から貴族と幅広い女性陣を虜にしている精油店。
 香油を売っているらしいのだが、その種類がゆうに100を越えるのだという。その上、季節が巡れば種類が増えるというのだから驚きの品ぞろえだ。
 しかもこの店、これだけではない。なんとオーダーメイドで好きな香りを作ってくれるのだという。作って欲しい香りの元となるものを持ち込めば完璧に再現してくれるのだそう。もしも実物がなくともイメージを伝えればそれに近いものを作ってくれるのだから驚きだ。花などの植物はリクエストの際、実物がなくとも作ってくれるらしい。注文を受けたその品を店主が売れそうだと見込めば店に並ぶこともあるらしい。

 そんな店に足を運ぶ理由、それは単純にお姉様とジャックに贈るためである。
 手紙でのやりとりで、最近精油店が流行っていると書いたところ、珍しく強く食いついたのだ。

 何でもアイビーの香りが欲しいとのこと。
 そんな手紙が届けば気持ちが舞い上がるのも必然だろう。
 手紙の返信と共にそれをプレゼントしようと思ったのである。

 ちなみにジャックの分は薔薇の香りを購入予定だ。
 彼が香油を塗ることはないだろうが、何もそれだけが使用方法ではない。
 職業柄、香りの強い物をつけられない女性達はリボンなどに染み込ませて香りを楽しんでいるのだそう。そうしてみてはどうか、と手紙に記しておくつもりだ。

 お姉様もジャックも薔薇の香りが好きだから、きっと喜んでくれるはずだ。
 そこにアイビーの香りがあることを想像して、外なのに思わず顔が緩んでしまう。
 これじゃあ完全に変な人だ。周りをチラチラと確認して、変な目で見られてはいないことにほっと息を漏らす。

 そして目当ての店のドアを開いた。
 カランカランと透き通るような音と共に私を出迎えたのは、壁の棚中に陳列された瓶の多さ。多いとは聞いていたがここまでとは想像もしていなかった。その反面、様々なオイルが混ざり合っているだろうという想像は裏切られた。

 ここまで多くの香りを封じたオイルが並べられていながらも感じるのは、高原に咲いた花のような、ひっそりと香る甘さ。視界が揺らぐような甘ったるい香りなどどこにもない。ここなら安心してゆっくりとお目当ての物を探すことが出来そうだ。


 説明書きのラベルが貼られた瓶を見回しながら、アイビーと薔薇の香りの物を探す。
 薔薇は比較的メジャーな物らしく、サンプリングだけでも3つほど用意してあった。特徴は違うがどれも薔薇のように誇り高く気品のある香りであることは間違いない。どれもいい香りである。けれど香りが強いのも事実。その中で一番香りが弱い物が入った瓶を手に取った。

 そして次にアイビーだが、これがなかなか見つからない。
 別に珍しい花でもないのだが、需要がある訳でもないのだろうか。
 自分と同じ名前の物が見つからないことに少し寂しさを覚えながらも、根気よく一つ一つラベルを確認していく。

「な、ない………………」
 けれど二周したところでそれが見つかることはなかった。
 ということはオーダーメイドをすることになる。金銭的に余裕はあるけれど、今日買って贈るんだ! という気持ちが先走りすぎていただけに落胆は大きい。
 だが落ち込んでいたところで棚の一部にお目当ての香りのオイルが入った瓶が生えてくる訳ではない。

 アイビーの場合、実物は不要かしら?
 気を取り直して、薔薇の香りのオイルの購入と、オーダーメイドの香りの注文に向かう。

「すみません。お会計と注文をお願いしたいんですけど」
「はい。こちらでまとめて行いますので、奥にどうぞ~」
 なんだか聞いたことのある声だなぁなんて思いつつ、店の奥へと足を運ぶ。
 そして「よろしくお願いします」と顔を上げれば予想通りの人物が目の前に立っていた。


「やっぱりセルロトの声だったのね!」
「久しぶりアイヴィー。僕のお店に来てくれてうれしいよ」
「え、ここってセルロトの店なの? あなたって薬師じゃなかったっけ?」
「今も薬師だよ。こっちは副業。公爵夫人に頼まれて作ってみたら好評でね、それ以来色んなご婦人からも依頼が殺到するようになったからお店作っちゃった」
「作っちゃった、ってそんな簡単に……」
「簡単だよ? だって僕、天才だもん」
「そういえばそうね」
「そういえば、ってヒドいなぁ」

 コロコロと鈴が転がったように可愛く笑うのはセルロト。元宮廷薬師である。最年少ながらも薬師長にその実力を認められた天才少年。だけど話しているとついつい忘れてしまうのはきっとプックリと膨らませる顔に幼さが残るからだろう。とはいえ私よりも前からお城に勤めるいわば先輩で、今ではすでに18歳。成人は過ぎているのだが。

「ごめんなさい。でも驚いたのは本当よ。まさか店まで持っているなんて思わなかったの」
「まぁアイヴィーの予想を越える凄さを僕が持っていた、ってことで納得してあげる。それでアイヴィー。君はどんな香りをお求めかな? 君のためだったらどんな香りも再現してみせるよ!」
「それは頼もしいわ! 実はアイビーの香りを作ってもらいたいの」
「アイビーの? ………………ってことはフランカの言う通り、ついにアイヴィーにも春が来たってこと?」
「違う違う。お姉様に贈るようなの。というかフランカの言う通りって、あの子、色んな人に変な噂流してないでしょうね!」
「それは大丈夫だと思うよ? ただ良かったね、って話してくれただけだから」
「なんで?」
「僕がアイヴィーのこと好きだったから」
「え?」
「もう何年も前のことだよ。今はフランカ一筋! だから期待はしないでね!」

 私にとってセルロトは今も昔も同僚で友人で、恋の対象になったことはなかった。だからこそ彼の気持ちに全く気づくことはなかった。けれど何年も前のことだ、と笑うセルロトの笑みに迷いはない。過去は過去として処理をすませたのだろう。

 まさかここで先日再会を果たしたばかりのフランカの名前を聞くことになるとは思わなかったが。

 しっかり者のフランカと、ついつい前のめりで突き進むセルロトってなかなかいいコンビだと思う。なにせフランカは城に居た頃、数日も徹夜も続けるセルロトをひょいと持ち上げて、ベッドに運びこんだこともあるほどだ。

 羨ましいほどにハリツヤのある肌はフランカと共にいるからなのだろう。

「フランカとお幸せにね」
「もちろん! でもまた『お姉様』か。アイヴィーらしいといえばらしいけど、そろそろ他に目を向けてみてもいいんじゃない?」
「……それって遠回しに年なんだからって言ってる?」
「言ってる!」
「そこは嘘でも違うって言いなさいよ!」
「ごめんね。正直で」

 その言葉に今度は私が頬を膨らます番だ。
 セルロトだって2歳しか変わらないくせに、恋人がいるからって余裕かましてくるなんてヒドいわ!
 まぁそれだけ順風満帆な生活を送っているということだろうし、彼も彼で私の心配をしてくれているということだろう。

「だからこれあげる。仕事中はつけられないと思うけどさ、こんな休日くらいオシャレしなよ」
 セルロトは私の手を持ち上げると、開いた手のひらにちょこんと小瓶を2つ乗せる。これは香油? 何の香りだろう? 乗せられた小瓶に顔を近づかせ、まじまじと見ていると上から「アイビー」と声が降る。

「え?」
「アイビーの香り。一つはお姉さんにあげていいから、もう一つはアイヴィーが使って」
「え、いいの?」
「アイヴィーのために作ったものだからもらってくれないと困るよ」
「私の、ため?」
「まぁ半分は僕とフランカのためだけどね。自分たちだけ幸せになって友人を置いていくなんてヒドい真似は出来ないからさ」

 憎まれ口を叩くセルロトは、天才が作った特別製のオイルなんだからねと笑う。
 そんな彼に、もう恋はいいのよ、なんて言い出せなくて。

「ありがとう」
 だから私のことを思ってくれてありがとうという意味を告げて笑って、一つ分のお会計だけ済ませると、大盛況のお店を後にした。