「今のところ予定はありませんね。忙しいですし……」
そうやんわりと返して見たが、苦笑いするシンドラー王子には私に結婚の意志がないことは伝わっているだろう。
なんだかんだでシンドラー王子とこうやって話すのも、もう5年目に突入したのだ。どんなに綺麗な言葉で包んだところで私の性格なんてとっくにバレている。
もちろん私がお金を稼ぐためにこの場所にいることも、その理由も王子は全部知っている。
私がそこまでする理由を理解することはできないらしいけれど、応援はしてくれるのだ。
昇級したのだって、単純にスキルが身についてきたからっていうのもあるだろうが、シンドラー王子の口添えがあったからだろう。
私がこの城に来たのは14の時だ。
それから6年が経ち、私より2つ年上のお姉様は結婚適齢期を少しすぎていると言っても過言ではない。忙しいという理由で遅れてしまってはいるものの、そろそろだろう。後数年待てと言われた時はジャックに直談判しに行くとして……。
もうすぐで今まで私が貯めてきたお金が役に立つのだ!
貯金にラストスパートをかけたいと思っていた時の給与アップだった。シンドラー王子からの心遣いに報いるためにも一層力をいれて働かなければならない。
「そうか……。だが姉君のドレスが完成したら貯金する必要はなくなるのだろう?」
「まぁ……そうですね」
言われてみればそうだ。
ウェディングドレスができれば私が稼ぐ必要性はない。
それでも私は当たり前のようにこの場所に『帰ってくる』つもりだったのだ。
貯金する必要などなくなったのに、当たり前のように昇給を目指して。
「アイヴィーは今後もここで働くつもりなのか? 私は構わないが、ここは未婚の女性が長居するような場所ではない。新しい職場、紹介してやろうか?」
「え?」
「『君が職に困った時には私が次の職を紹介する』――そういう約束だっただろう」
「……覚えていたんですね」
「ああ。記憶力には自信があるからな!」
私とシンドラー王子が初めて会話らしい会話をしたのは5年ほど前である。
当時、掃除専門の侍女だった私にかくまってくれとシンドラー王子が声をかけてきたのが始まりだ。
シンドラー王子は今でこそ何でもこなせる、物語の登場人物のような王子様に成長されたが、出会った当時はレッスンを逃げ出す常習犯だった。
「かくまってくれ!」
窓を拭いている私の元に、運動神経がいいシンドラー王子が息を切らし、額には玉のような汗を浮かべて登場した。鍛錬場の近くを通りかかる際には剣術を習っている王子の姿をたびたび目にすることがあったがそれの比ではない。
使用人仲間からの前情報がなければ何事かと混乱していたことだろう。
だがこの時すでに私は、シンドラー王子がダンスレッスンからよく逃げ出すこと、それにその曜日が今日であることを知っていたのだ。
だから私の脳裏に速攻でよぎったのは、どうすれば彼は教師の待つ部屋へと帰ってくれるだろうかということだった。
「お戻りください」
「嫌だ」
とりあえずおきまりの言葉は投げてみたけれどやはりダメだった。
それはそうだろう。初対面に等しい使用人に戻れと言われて戻るような人が何度も抜け出すわけがない。
だがだからといってどうすればいいかなんて私にはわからなかった。
だから聞いてみることにしたのだ。
「ではどうしたらお戻りいただけますか?」
今思えば何とも間抜けな質問だろうか。
今の私なら迷わず適当に時間を稼いで、王子を探しに来たお目付役の騎士に回収してもらうことだろう。
だがそんなこと、5年前の私には思い浮かばなかったのだ。
そしてシンドラー王子もまさかそんなことを聞かれると思ってなかったからだろうか、ぽかんと口を開いて、目をぱちくりと開いては閉じてを繰り返した。そして正直に思いを打ち明けてくれたのだ。
「この本を読み終わったら帰る」――と。
王子が胸元に抱えていたのは子供向けの本だった。
私の実家にもあった、小さな男の子が冒険するストーリーである。そう長い話ではない。どんなにゆっくり読んだとしても半刻もすれば読み終わってしまうだろう。私にはそれがわざわざレッスンを抜け出してまで読むような本だとは思えなかった。
なにせ王子よりもうんと幼い子どもが読む内容のお話である。
それでもその本を大事そうに抱えるシンドラー王子の姿に、私はつい約束してしまったのだ。
「読み終わったらちゃんと帰るんですよ?」
「ああ!」
――それがまさかその後も続くとは知らずに。
本を読み終えたシンドラー王子は約束通り、レッスンへと戻っていった。そしてその3週間後、また私の元へとやってきたのだ。
かくまってくれ――と。
抜け出す度に私の元に来ているわけではなく、気まぐれにやってきているらしかった。それでも私の元に来るときには必ず『約束』をしていた。
私はシンドラー王子をかくまう代わりに、シンドラー王子は私とした約束を守らなければいけない。
大抵それは王子が本を読み終わるまでの時間を私が稼いで、読み終わったらシンドラー王子は大人しく帰る、という約束で、いつだってそう長い時間ではなかった。
だから私は何度だって、王子のお目付役の騎士であるディートリッヒ様からシンドラー王子をかくまったのだ。
「シンドラー王子、もう少し抜け出す頻度を減らしてくれませんか? 王子をかくまってることがディートリッヒ様にバレたら私、クビですよ。ここをクビになってお金が満足に稼げずに結果、お姉様のウェディングドレスが納得いかないものになったりしたら、私、一生王子を呪いますからね!」
いつものようにディートリッヒ様の鋭い視線に耐えた私は王子にそう漏らした。普通だったら、呪うなんて王族相手に言い放てば速攻で不敬罪で捕らえられてしまう。けれどこの頃には私と王子の仲はそんな柔なものではなかった。
「もしもアイヴィーがここにいられなくなった時には俺が他の職場を紹介してやるから安心しろ!」
こんな冗談をいえるほどになっていたのだ――と思っていたのだが、どうやらそれを冗談と受け取っていたのは私だけのようだった。
「それで新しい職場なんだが……」
なぜならあのころからは想像できないほどに立派に成長したシンドラー王子は、昇級したばかりの私に転職先を紹介しようとしているのだから。
シンドラー王子に悪気がないのはわかっている。むしろ善意しかないのも。
けれど私の気は落ち込む一方だ。せっかくいろんな仕事に慣れて、いろんな人とも仲良くなれたのだ。
それに……好きな人だっている。
叶うことのない恋だとわかっているし、当たって砕けろ方式すらも使えない相手ではある。むしろ嫌われている可能性だって十分あり得る。今までだって業務的な会話以上のことはほとんどしてこなかったのだ。
それでも、私にとっての幸せな時間だった。
その機会がなくなってしまうのかと思うと寂しいものである。
もちろん王子とこんな軽口を話せなくなるのも。
「…………………………………………おい、アイヴィー聞いているのか?」
「ええ、聞いていますよ。新しい職場のことでしょう?」
……感傷に浸って、全く聞いていなかった。だが王子は私のことを心配してこう言ってくれているのだ。私の性格を知っているシンドラー王子のことだ。紹介してくれる場所もさぞいい職場に違いない。
「それなら構わないが、それで……どうだ? 俺はいい話だと思うのだが」
「お相手の都合にもよりますが、都合が付き次第、働かせていただきたいと思います」
だから私はまっすぐに王子の瞳を見据えて答えた。
「そうか!」とはしゃいだような声をあげる王子を少し疑問に思ったが、別に悪いことではないだろう。
――この時の私はそう深く気にすることはしなかった。
「――では詳しいことはベルモットから聞くように」
「かしこまりました」
「ご主人様、もうお時間です」
「ああ、もうそんな時間か。それでは行ってくる」
「いってらっしゃいませ」
新しい主人となった方を、このお屋敷唯一の執事であるベルモットさんと共に見送る。
シンドラー王子となんてことないはずだった会話をしたのはもう1ヶ月も前のこと。
もしも人生で一度だけ過去に戻るチャンスが与えられているのならば、私は迷わず1ヶ月前のあの時に戻りたいと願う。
たとえ今後、生死に関わる何かがあったとしてもそっちは運命として受け入れるから今回のことだけはどうかやり直させていただきたい。
なにせ私はあの時、王子の話をちゃんと聞いていかなかったばっかりに初恋の相手の侍女なんてものをしているのだから。