「あの……マリー様?」
「アイヴィー、一生のお願い。この言葉を聞かなかったことにはしてもらえないかしら?」
心配になって声をかけてみれば、今度は顔の前でぱちんと両手をつけて懇願のポーズである。こてんと小首を傾げる姿が様になっていて、こんなの普段の私ならイチコロである。
マリー様のことを思えば、ここは「はい」と頷くのが正解なのだろう。
だが私は食い下がる。
「マリー様。そのことを詳しく教えていただけませんか?」
「私の一生のお願い……聞いてくれないのね」
「だってもう一度聞いちゃいましたから」
「そうだったわね……」
一生に一度とは言っていないのだから、何度でも使ってもらって構わないのだがここは遠慮してもらうことにしよう。今度はそんな意地悪は言わないから。だからこの一度だけは許してもらいたい。
心の中でごめんなさいと謝りつつも、続けて言葉を紡ぐ。
「それに私、さっき失恋したんです」
「え? 嘘でしょ? なんで? だってディートリッヒはそのために……」
「無駄な思いは諦めて、前に進むことにしたんです。でも、さっきの言葉を聞いたら私……」
だって私は前に進みたいから。
幻聴なら幻聴で構わない。
明日、マリー様と一緒にディートリッヒ様に謝罪した後、予定通りタイピンを捨ててしまうだけだ。
だがもしも幻聴じゃないのなら……。
公爵家のご令息と田舎の男爵令嬢じゃ一緒になれる見込みなどない。けれどきっとこれから踏み出す一歩は大きく変わるだろう。
苦いだけの初恋は、苦くても甘酸っぱい思い出に変わる。
「一生のお願いです、マリー様。ディートリッヒ様には内緒にしますから教えてくださいませんか?」
今度は私が頼み込む。
マリー様のをまねて、両手をくっつけて首を傾げる。私がやっても可愛くもなんともない。けれど彼女は頷いてくれると信じている。
困った顔で仕方ないと渋った口を開いてくれるだろう。そう思って、閉じた目を開いてみる。
けれどマリー様の表情は私が思っていたものとは全く違った。
「じゃあ私、何も悪くないのね! むしろ誉めてもらいたいくらいだわ!」
目の前の少女はほっと胸をなで下ろすと「アイヴィーからの一生のお願いなら聞かないとよね!」と嬉しそうに笑うのだった。
マリー様はリアゴールド家の屋敷に着くや否や、使用人にいくつもの指示を飛ばしていった。
さすがは貴族のご令嬢といったところだろうか。一応貴族に属しているはずの私やハイエナ令嬢達とは風格がまるで違う。
「安心したらおなか空いちゃった……。何か食べるものを二人分用意してちょうだい」
「かしこまりました」
「先にお父様にお会いするから、急がなくてもいいと伝えて」
「承知いたしました」
「ねぇ、お父様はいまどこに?」
「書斎にいらっしゃいます」
「そう。アイヴィー、おなかは空いているとは思うけど、一緒にお父様の元に行ってもらうわよ」
「は、はい」
従わなければならないと思わせるその風格に、思わず私の背筋も伸びる。
けれどマリー様はそんな私にふわりと笑いかける。
「緊張しないで。私はただお父様に客人を紹介するだけよ」
「客人、ですか?」
「そう、客人。お友達の方がいいかしら?」
「お、お友達なんてそんな……」
「なら恩人? まぁ細かいことはどうでもいいわ。いつかお父様にはアイヴィーを紹介するって伝えてあるし、その機会が少し早まっただけよ」
「ええっ!?」
客人にお友達に恩人――そのどれも私に当てはまるような言葉ではないはずだ。
それに四大貴族の公爵に紹介なんてそんな、何とも恐れ多い……。
私、自分でも知らぬ間にそんなにビッグな人間になっていたのだろうか?
あり得ない。ただただ真面目にお城でメイドとして働いていただけである。考えたところで私にはそんな資格があるとは思えない。
けれどマリー様は気にした様子はない。
それが一層、これから公爵にお会いしなければいけない恐怖に似た何かをかきたたせる。
心なしか、胃の辺りがじわじわと痛んできたような気がする。少しでもそれを和らげようと、マリー様に繋がれていない方の手で胃の辺りをさする。
そして出来ることならその原因を遠ざけていただけないか、と遠回しに告げてみる。
「あの、マリー様。今日のところは馬小屋か何かを貸していただければ……」
客人扱いしてくれなくても構わないので~作戦である。
リアゴールド家の馬達には悪いが、私の胃痛からの脱却のために一部場所を間借りさせていただこう。
そう決心するものの、マリー様はうんと頷いてはくれない。
「馬と一緒の場所で寝かせるくらいだったら私が一緒に寝るわ!」
それどころかこんなことを言い出した。
それも明らかに勢いで言い出したことではあるものの「それいいわね……」と今度はマリー様と一緒に寝ることで話が進んでしまっている。
寝相は悪くないと思うけど、でも一緒に寝たなんてシンドラー王子にバレたらと思うと恐ろしい。
なにがって絶対今後、顔を会わせる度にいじってくるだろうことが、である。
食事は嫌なのに寝るのはいいんだな、って言ってくるだろう。意外と根に持つタイプの王子のことだ。絶対言う。
そしてこの感じだとマリー様はからかわれても嫌がるどころかむしろ自慢するだろうし……。
ダメだ、私に都合のいい未来が見えない!
「着いたわ。ここがお父様の書斎よ」
そうこう考え事をしているうちに、リアゴールド公爵の書斎へとたどり着いてしまう。ここが一番の山場だったはずが、いつの間にか第一の山場と化してしまった目的地である。ちなみに第二の山場は寝場所についてである。それは何としても客間に落とし込もうと思う。そちらは泣き落としや上目遣いといった必殺技が使われなければやり過ごせるはずである。まぁ山場である事実は変わらないわけだが。
うん、やっぱり私の胃痛は収まりそうもないらしい。となれば後は腹をくくるしかあるまい。
今日はなんだか決心することが多い日だなぁと思いながら拳を固める。
そしてマリー様の、ドアをトントントンと三度ノックする音を聞いてから神経を集中させる。
気分は大規模な社交会会場担当に配属された時と同じだ。
無礼だけはしないように、つつがなく終わるように、一人の使用人としてやりきるのみ!
「お父様。マリーです。少しいいかしら?」
「入りなさい」
「失礼します」
マリー様と繋がれた手はなぜかそのままで、私はリアゴールド家の公爵様との謁見を試みるのだった。
「アイヴィー、一生のお願い。この言葉を聞かなかったことにはしてもらえないかしら?」
心配になって声をかけてみれば、今度は顔の前でぱちんと両手をつけて懇願のポーズである。こてんと小首を傾げる姿が様になっていて、こんなの普段の私ならイチコロである。
マリー様のことを思えば、ここは「はい」と頷くのが正解なのだろう。
だが私は食い下がる。
「マリー様。そのことを詳しく教えていただけませんか?」
「私の一生のお願い……聞いてくれないのね」
「だってもう一度聞いちゃいましたから」
「そうだったわね……」
一生に一度とは言っていないのだから、何度でも使ってもらって構わないのだがここは遠慮してもらうことにしよう。今度はそんな意地悪は言わないから。だからこの一度だけは許してもらいたい。
心の中でごめんなさいと謝りつつも、続けて言葉を紡ぐ。
「それに私、さっき失恋したんです」
「え? 嘘でしょ? なんで? だってディートリッヒはそのために……」
「無駄な思いは諦めて、前に進むことにしたんです。でも、さっきの言葉を聞いたら私……」
だって私は前に進みたいから。
幻聴なら幻聴で構わない。
明日、マリー様と一緒にディートリッヒ様に謝罪した後、予定通りタイピンを捨ててしまうだけだ。
だがもしも幻聴じゃないのなら……。
公爵家のご令息と田舎の男爵令嬢じゃ一緒になれる見込みなどない。けれどきっとこれから踏み出す一歩は大きく変わるだろう。
苦いだけの初恋は、苦くても甘酸っぱい思い出に変わる。
「一生のお願いです、マリー様。ディートリッヒ様には内緒にしますから教えてくださいませんか?」
今度は私が頼み込む。
マリー様のをまねて、両手をくっつけて首を傾げる。私がやっても可愛くもなんともない。けれど彼女は頷いてくれると信じている。
困った顔で仕方ないと渋った口を開いてくれるだろう。そう思って、閉じた目を開いてみる。
けれどマリー様の表情は私が思っていたものとは全く違った。
「じゃあ私、何も悪くないのね! むしろ誉めてもらいたいくらいだわ!」
目の前の少女はほっと胸をなで下ろすと「アイヴィーからの一生のお願いなら聞かないとよね!」と嬉しそうに笑うのだった。
マリー様はリアゴールド家の屋敷に着くや否や、使用人にいくつもの指示を飛ばしていった。
さすがは貴族のご令嬢といったところだろうか。一応貴族に属しているはずの私やハイエナ令嬢達とは風格がまるで違う。
「安心したらおなか空いちゃった……。何か食べるものを二人分用意してちょうだい」
「かしこまりました」
「先にお父様にお会いするから、急がなくてもいいと伝えて」
「承知いたしました」
「ねぇ、お父様はいまどこに?」
「書斎にいらっしゃいます」
「そう。アイヴィー、おなかは空いているとは思うけど、一緒にお父様の元に行ってもらうわよ」
「は、はい」
従わなければならないと思わせるその風格に、思わず私の背筋も伸びる。
けれどマリー様はそんな私にふわりと笑いかける。
「緊張しないで。私はただお父様に客人を紹介するだけよ」
「客人、ですか?」
「そう、客人。お友達の方がいいかしら?」
「お、お友達なんてそんな……」
「なら恩人? まぁ細かいことはどうでもいいわ。いつかお父様にはアイヴィーを紹介するって伝えてあるし、その機会が少し早まっただけよ」
「ええっ!?」
客人にお友達に恩人――そのどれも私に当てはまるような言葉ではないはずだ。
それに四大貴族の公爵に紹介なんてそんな、何とも恐れ多い……。
私、自分でも知らぬ間にそんなにビッグな人間になっていたのだろうか?
あり得ない。ただただ真面目にお城でメイドとして働いていただけである。考えたところで私にはそんな資格があるとは思えない。
けれどマリー様は気にした様子はない。
それが一層、これから公爵にお会いしなければいけない恐怖に似た何かをかきたたせる。
心なしか、胃の辺りがじわじわと痛んできたような気がする。少しでもそれを和らげようと、マリー様に繋がれていない方の手で胃の辺りをさする。
そして出来ることならその原因を遠ざけていただけないか、と遠回しに告げてみる。
「あの、マリー様。今日のところは馬小屋か何かを貸していただければ……」
客人扱いしてくれなくても構わないので~作戦である。
リアゴールド家の馬達には悪いが、私の胃痛からの脱却のために一部場所を間借りさせていただこう。
そう決心するものの、マリー様はうんと頷いてはくれない。
「馬と一緒の場所で寝かせるくらいだったら私が一緒に寝るわ!」
それどころかこんなことを言い出した。
それも明らかに勢いで言い出したことではあるものの「それいいわね……」と今度はマリー様と一緒に寝ることで話が進んでしまっている。
寝相は悪くないと思うけど、でも一緒に寝たなんてシンドラー王子にバレたらと思うと恐ろしい。
なにがって絶対今後、顔を会わせる度にいじってくるだろうことが、である。
食事は嫌なのに寝るのはいいんだな、って言ってくるだろう。意外と根に持つタイプの王子のことだ。絶対言う。
そしてこの感じだとマリー様はからかわれても嫌がるどころかむしろ自慢するだろうし……。
ダメだ、私に都合のいい未来が見えない!
「着いたわ。ここがお父様の書斎よ」
そうこう考え事をしているうちに、リアゴールド公爵の書斎へとたどり着いてしまう。ここが一番の山場だったはずが、いつの間にか第一の山場と化してしまった目的地である。ちなみに第二の山場は寝場所についてである。それは何としても客間に落とし込もうと思う。そちらは泣き落としや上目遣いといった必殺技が使われなければやり過ごせるはずである。まぁ山場である事実は変わらないわけだが。
うん、やっぱり私の胃痛は収まりそうもないらしい。となれば後は腹をくくるしかあるまい。
今日はなんだか決心することが多い日だなぁと思いながら拳を固める。
そしてマリー様の、ドアをトントントンと三度ノックする音を聞いてから神経を集中させる。
気分は大規模な社交会会場担当に配属された時と同じだ。
無礼だけはしないように、つつがなく終わるように、一人の使用人としてやりきるのみ!
「お父様。マリーです。少しいいかしら?」
「入りなさい」
「失礼します」
マリー様と繋がれた手はなぜかそのままで、私はリアゴールド家の公爵様との謁見を試みるのだった。