それからすぐにマリー様は自分の家の使用人を呼びつけた。
そして呆然と立ちすくむディートリッヒ様に「退いてちょうだい」と言い放つと、私の手を引いてその部屋を後にした。
無言のまま引かれるその手はやはり小さくて、小刻みな震えが伝わってくる。
その意味が果たしてなんなのかは分からない。けれど私はその手を拒むことはできずにいる。
だって私の中のマリー様はいつまでも子どものままなのだ。
例えいくつかしか年が変わらなくても、この先王子妃様になってそう易々と会話が出来なくなっても、私の中にはいつまでも私を睨みつけてきたあの顔が、笑ってくれた顔が、王子のことを相談してくれた顔がよみがえる。
そして何度でもこの子に手を差し伸べてあげたいと思うのだ。
きっとこれから先、私の手なんて必要なくなるだろうけれど、それでも……。
「ごめんね、アイヴィー。勝手なことしちゃって……」
馬車に乗り込む直前、マリー様は私にそう告げる。彼女の顔は見えないけれど、その声は震えていた。
きっとマリー様は彼女の正しいと思った選択を取ったのだ。けれどそれに後悔が残っているのだろう。
マリー様は優しい人だ。
私のために行動して、今度も思うのは私のこと。
ただのメイドにここまでしてくれるなんて、彼女の家のメイドになれたらきっと幸せなのだろう。けれど私はそれを望まない。いや、望んではいけないのだ。
だってマリー様自身だってそれを望んでないのだから。
「いえ。でも良かったんですか?」
「何が?」
「お家の力を振りかざすの、お嫌いでしたよね?」
マリー様は彼女が名乗った通り、四大貴族の一つであるリアゴールド公爵家のご令嬢である。けれど彼女は『リアゴールド家の御令嬢』という色めがねで見られることを嫌っている。リアゴールド家が嫌いな訳ではないのだ。ただ少女にはその名前は大きすぎた。
何をしてもそれは『リアゴールド家のご令嬢』だから。
幼いマリー様は、シンドラー王子の婚約者に選ばれたことすらリアゴールドの娘だからなのだと思いこんでいた。
だからこそ以前の彼女はシンドラー王子に近寄る全ての女性を威嚇し続けたのだ。
政略結婚なんてそんなものだと言い切ってしまえばその通りなのだが、彼女の愛読書はロマンス小説だ。
いつか本当の愛に気づいた王子がどこかに行ってしまうのだと、自分は物語に出てくる悪役のようになってしまわないかとおびえていた。
だからこそ彼女は権力を振りかざすことを嫌っている。
それこそが物語に出てくるご令嬢と、自分との決定的な差であると線を引くために。
それはシンドラー王子との思いが通じた後も同じだった。
なのに彼女は今日、その力をディートリッヒ様に振るった。それはきっと、大きな覚悟が必要だったことだろう。
か細い腰を抱いて、馬車のイスに並んで座る。
誰かが見ていたらきっと、身分を弁えろと怒るだろう。
けれどここにいるのは私とマリー様、そして彼女付きの使用人である。
誰も怒る者はいない。
だから私はマリー様の隣に座ることが出来る。
私のためにありがとうって、ごめんなさいって手を伸ばせるこの距離に。
「さすがアイヴィーね。あなたには何でもバレちゃう……」
「マリー様はわかりやすいですから」
「明日、意地悪しちゃってごめんなさいってディートリッヒ様に謝るの、ついてきてくれる?」
「もちろんです」
きっとディートリッヒ様のことだから笑って許してくれるだろう。
というかあんなことを言っていたのは私が身分を弁えないからであって、決してマリー様やシンドラー王子にお小言を言いたかった訳でもあるまい。
それにディートリッヒ様はシンドラー王子とマリー様には甘いのだ。
護衛対象だからというのもあるだろうが、弟妹のように思っているのだろう。昔から王子が脱走しても文句を少し言うだけだったように思う。
ディートリッヒ様自身、公爵家の出で、幼少期から王家とは近い関係にあったらしい。
きっと上級貴族ならではの息苦しさみたいなのを知っているのだろう。そういうのを全く知らなかったからこそ彼らと近くなれた私とは真逆である。
「でも、許してくれるかしら?」
「大丈夫ですよ」
心配そうに呟くマリー様の背をさすり「明日一緒に謝りましょう」と元気づける。けれど彼女はなおも首を振る。
「きっと許してくれないわ。だって私、ディートリッヒ様からアイヴィーを取り上げようとしたのよ! 彼がずっとあなたのこと好きだって、私知っていたのに……」
「え?」
マリー様の口から飛び出した言葉に思わず声が漏れる。
ディートリッヒ様が私を好き?
私がディートリッヒ様のことを好きではなく?
これは失恋したと割り切ったはずの私の耳が拾った幻聴だろうか。
まだタイピンはカバンの中だ。きっとこの思いが捨て切れていなかったのだろう。そうに違いないとマリー様の顔を覗く。けれど彼女はその顔を両手で覆ってしまっている。
私が話の腰を折ったからついに泣き出して……!
ああどうしようと後悔が押し寄せる。
けれどマリー様の手の間から漏れた言葉は彼女の泣き声ではなかった。
「口が滑ったとはいえ、まさか本人よりも先に言っちゃうなんて……。ディートリッヒ、本当にごめんなさい。ああ、もう絶対に許してもらえないわ……」
それは後悔の言葉だった。
そして呆然と立ちすくむディートリッヒ様に「退いてちょうだい」と言い放つと、私の手を引いてその部屋を後にした。
無言のまま引かれるその手はやはり小さくて、小刻みな震えが伝わってくる。
その意味が果たしてなんなのかは分からない。けれど私はその手を拒むことはできずにいる。
だって私の中のマリー様はいつまでも子どものままなのだ。
例えいくつかしか年が変わらなくても、この先王子妃様になってそう易々と会話が出来なくなっても、私の中にはいつまでも私を睨みつけてきたあの顔が、笑ってくれた顔が、王子のことを相談してくれた顔がよみがえる。
そして何度でもこの子に手を差し伸べてあげたいと思うのだ。
きっとこれから先、私の手なんて必要なくなるだろうけれど、それでも……。
「ごめんね、アイヴィー。勝手なことしちゃって……」
馬車に乗り込む直前、マリー様は私にそう告げる。彼女の顔は見えないけれど、その声は震えていた。
きっとマリー様は彼女の正しいと思った選択を取ったのだ。けれどそれに後悔が残っているのだろう。
マリー様は優しい人だ。
私のために行動して、今度も思うのは私のこと。
ただのメイドにここまでしてくれるなんて、彼女の家のメイドになれたらきっと幸せなのだろう。けれど私はそれを望まない。いや、望んではいけないのだ。
だってマリー様自身だってそれを望んでないのだから。
「いえ。でも良かったんですか?」
「何が?」
「お家の力を振りかざすの、お嫌いでしたよね?」
マリー様は彼女が名乗った通り、四大貴族の一つであるリアゴールド公爵家のご令嬢である。けれど彼女は『リアゴールド家の御令嬢』という色めがねで見られることを嫌っている。リアゴールド家が嫌いな訳ではないのだ。ただ少女にはその名前は大きすぎた。
何をしてもそれは『リアゴールド家のご令嬢』だから。
幼いマリー様は、シンドラー王子の婚約者に選ばれたことすらリアゴールドの娘だからなのだと思いこんでいた。
だからこそ以前の彼女はシンドラー王子に近寄る全ての女性を威嚇し続けたのだ。
政略結婚なんてそんなものだと言い切ってしまえばその通りなのだが、彼女の愛読書はロマンス小説だ。
いつか本当の愛に気づいた王子がどこかに行ってしまうのだと、自分は物語に出てくる悪役のようになってしまわないかとおびえていた。
だからこそ彼女は権力を振りかざすことを嫌っている。
それこそが物語に出てくるご令嬢と、自分との決定的な差であると線を引くために。
それはシンドラー王子との思いが通じた後も同じだった。
なのに彼女は今日、その力をディートリッヒ様に振るった。それはきっと、大きな覚悟が必要だったことだろう。
か細い腰を抱いて、馬車のイスに並んで座る。
誰かが見ていたらきっと、身分を弁えろと怒るだろう。
けれどここにいるのは私とマリー様、そして彼女付きの使用人である。
誰も怒る者はいない。
だから私はマリー様の隣に座ることが出来る。
私のためにありがとうって、ごめんなさいって手を伸ばせるこの距離に。
「さすがアイヴィーね。あなたには何でもバレちゃう……」
「マリー様はわかりやすいですから」
「明日、意地悪しちゃってごめんなさいってディートリッヒ様に謝るの、ついてきてくれる?」
「もちろんです」
きっとディートリッヒ様のことだから笑って許してくれるだろう。
というかあんなことを言っていたのは私が身分を弁えないからであって、決してマリー様やシンドラー王子にお小言を言いたかった訳でもあるまい。
それにディートリッヒ様はシンドラー王子とマリー様には甘いのだ。
護衛対象だからというのもあるだろうが、弟妹のように思っているのだろう。昔から王子が脱走しても文句を少し言うだけだったように思う。
ディートリッヒ様自身、公爵家の出で、幼少期から王家とは近い関係にあったらしい。
きっと上級貴族ならではの息苦しさみたいなのを知っているのだろう。そういうのを全く知らなかったからこそ彼らと近くなれた私とは真逆である。
「でも、許してくれるかしら?」
「大丈夫ですよ」
心配そうに呟くマリー様の背をさすり「明日一緒に謝りましょう」と元気づける。けれど彼女はなおも首を振る。
「きっと許してくれないわ。だって私、ディートリッヒ様からアイヴィーを取り上げようとしたのよ! 彼がずっとあなたのこと好きだって、私知っていたのに……」
「え?」
マリー様の口から飛び出した言葉に思わず声が漏れる。
ディートリッヒ様が私を好き?
私がディートリッヒ様のことを好きではなく?
これは失恋したと割り切ったはずの私の耳が拾った幻聴だろうか。
まだタイピンはカバンの中だ。きっとこの思いが捨て切れていなかったのだろう。そうに違いないとマリー様の顔を覗く。けれど彼女はその顔を両手で覆ってしまっている。
私が話の腰を折ったからついに泣き出して……!
ああどうしようと後悔が押し寄せる。
けれどマリー様の手の間から漏れた言葉は彼女の泣き声ではなかった。
「口が滑ったとはいえ、まさか本人よりも先に言っちゃうなんて……。ディートリッヒ、本当にごめんなさい。ああ、もう絶対に許してもらえないわ……」
それは後悔の言葉だった。