午後8時半過ぎ。くらいだったと思う。

お父さんは相変わらず我関せずで、リビングのソファーに寝転がってスマホをいじりながら土曜日のサスペンスドラマを見ていたし、あたしは夕飯を食べ終わったダイニングテーブルでお母さんと向かい合わせに座ってある話をしていた。


でも、まるで話にならなかった。


もともと話の分かる人ではなかったから、あたしは諦めた。


親を説得することを。


「だいたいねぇ、都会の一人暮らしなんてどれだけお金がかかると思ってるの。ましてや女の子が……ニュースでも怖い事件がたくさん流れてくるでしょう。それだけ危険なの。せめて大学卒業ーー」

まくしたてるように言うお母さん。

「大学大学ってさっきからしつこいなぁ。大学には行かないってずっと前から言ってるじゃん」


しつこい。本当にしつこい。


二言目には勉強しろとか大学行けとか。

自分は短大卒業してすぐ結婚決まったから、就職したことないって言ってるけど。

それが女の幸せだからって、いつの時代の話?


マジで意味分かんないんですけど。


「学がないよりはあったほうがいいに決まってるの。会社員ならともかく、趣味の延長みたいなことのどこが仕事なの。遊びでしょう。遊びながら生きていこうなんて贅沢にも程があるわ!」


「はあ?!」

お母さんにとっては漫画家は仕事じゃなくて遊びーーらしい。

世の中のすべての漫画家をディスる専業主婦。どんだけ何様なのだろうか。


まるでお話にならない。


そんな人物相手に、あたしはやっとの思いで掴んだチャンスを逃すまいと必死に頭の中で言葉を探した。


なるべくシンプルに。


率直に。


素直な言葉を紡ぎ出すように。



でも、難しい。



正攻法で伝わるならまだよかったのかもしれない。

それができるなら、あたしはこんなにももどかしくないだろうし、怒りに震えることなんてなかったのに。



「はあ……」

ため息しか出ない。


どうして?


あたしもう、自分の足で歩けるのに。


いい加減親離れしたいのに、それを許さないってどういうこと?


本当に困っているときには「自分で考えろ」って突き放すくせに。

いざ、自分で考えて行動したらこれ。


完全な裏切り。騙し。詐欺レベル。



もう、お母さんとはどうなってもいいや。


あたしはもう我慢なんてしない。


お母さんのために生きてるわけじゃないし。


そもそもあたしとお母さんの人生は別物だし、これ以上気を遣う必要なんてない。



とことんぶつかってやる。



「小学生の頃からの夢だったのよ。絶対に高校卒業するまでにデビューして、一人でも十分稼げるくらい有名になってやるんだから。だいたい、専業主婦なんて夢も希望もないじゃん。そんな人にあたしの気持ちなんてわかるわけない。やりたいことがなくて結婚に逃げたお母さんの価値観押し付けないでよ!」

「凛々! 言っていいことと悪いことの区別もつかないの? 情けない。ちょっと、お父さん!」


ほら、言い返すことができなくなるとすぐお父さんに縋る。


あたしはこのあとお父さんが何て言うか知っている。


「……ああ」


だって、お父さんはあたしに興味がないから。


今だって、誰とも目を合わせずスマホに夢中。時折テレビに視線を合わせ、何も聞こえていないように我関せずな態度。



「ねぇ、お父さんからも言ってやってよ。本当我儘ばかり言ってちっとも言う事聞かないんだから、困ったものよ。どこで育て方間違えたのかしら」


お母さんはこうやってあたしに聞こえるように、わざと厭味ったらしく言う。


いつもそう。


いつもいつもいつも。


お母さんはくどくどねちねち、めんどくさい。



確かにあたしは我儘かもしれない。



だけど、自分のことを自分で決めたいって思うのはごく当たり前じゃないの?



「……ほっとけばいい」

「ちょっと、お父さん!」

ほら、まるで無関心。





待てよ?




これって、むしろチャンスじゃない?



「ああそう。じゃあ勝手にするから、二度と連絡してこないでね」


そうだ、最初からこうすればよかったんだ。


「あ、ちょっと凛々! 待ちなさい! どこに行くの!?」

「お母さんのいないところ! じゃあね!」


妙に甲高い、まとわりつくように耳障りなお母さんの声が嫌いだ。


この人は、あたしが家を出たいって言ってから何度も何度もあたしにこういった。


「あなたに一人暮らしなんて無理に決まってるでしょう。くだらない夢ばかり追いかけていないで、もっと勉強しなさい!」



くだらないのはどっちよ。


ただの専業主婦のくせに。






あたしは小学校低学年の頃から漫画が好きだった。いとこのお姉ちゃんちで読んだ少女漫画誌にハマって以来、大好きな漫画を描きながらプロを目指してきた。


そして、このたびようやく受賞デビューが決まった。しかも、ずっと好きだった少女漫画が連載している月刊誌での受賞だ。



最優秀ではなかったけれど、優秀賞という評価がもらえたことがまず素直に嬉しかった。中学1年の頃から何度か投稿して、一度だけもう一息賞をとったことがある。それが昨年だ。


徐々に近づく長年の夢。ようやく掴んだ今回のデビューという人生最大のチャンス。


逃すわけがなかった。


高校を卒業したら、新天地で本格的に漫画家の道を進むんだと決めて、高1から続けてきたドーナツ屋でのバイトでひたすら上京資金を貯めたというのに。





あっさり切られた。

「くだらない」って。





「何なの……」


ムカつく。
ムカつく。


夢を否定されるのは今に始まったことじゃないけれど。


それでもただ、認めてほしかった。



頑張れって背中を押してほしかった。


信じてほしかった。



ただそれだけなのに。



どうしてわかってくれないんだろう。




「ああ〜〜ムカつくっ!」



あたしは走った。

ただただまっすぐ。


お母さんは途中まで追いかけて来たけど、体力がもたなくてバテたっぽい。

その隙にあたしはお母さんからぐんぐん距離をとっていく。

振り返ることもなく。



もう、止まらない。


止められない。


止まりたくない。


止まったら負けだ。



証明してやる。





専業主婦が女の幸せだっていう幻想も。



漫画家が人の人生に彩りを与えるプロだってことを。




それにしても、悔しい。



悔しい。


ただ18歳の高校生ってだけで子ども扱いされるのが。



背中を押すとか、見守るとか、



そういう後方からの支援があれば、



あたしはもっともっと、




飛躍できるのに。