大嫌い。
大嫌い。
親も、あたしも、何もかも。
全部、全部、全部。
大嫌い。
大嫌い。
大っ嫌い。
☆
お母さんなんて、大嫌い。
たった今、あたしの念願叶った夢を踏みにじったから。
応援してくれると、微塵でも思ったあたしが馬鹿だった。
「ねぇ、凛々。聞いてるの?」
しつこいな、お母さん。
「ねぇ、お父さんからも言ってやってよ」
いい加減解放してくれないかな。もうかれこれ1時間以上座りっぱなしでお尻が痛い。
夕飯食べ終わった直後から、片付けもしないまま説教になるなんて。
そもそも、話を切り出すタイミングを完全に間違えた。
「……うっざ」
それにしても、長い。
長いだけで、同じ言葉の繰り返し。
ウザくて、ウザくて。
もう耐えられない。
どうしてあたしの好きなようにさせてくれないんだろう。
「何で? 何でできないとか簡単に言うの? やっと掴んだチャンスなのに!」
「だから、まだ早すぎるのよ。そんな歳で一人暮らしなんて、無理に決まってるじゃない」
「はあ? なにそれ。そうやってすぐ決めつけんのやめてよ」
「凛々、いい加減現実を見なさい。何が漫画家よ。お絵描きで食べていけるほど世の中甘くないのよ。デビューって言っても、賞取るのが関の山でしょ。賞金だって生活費の足しにもならないじゃない。ちょっと、お父さんも凛々に言って聞かせてよ。我儘ばっかり言うんだから」
お父さんはあたしに興味がない。
普段から空気みたいだし、喋っても基本「ああ」しか言わない。
「ああ」
ほら。
「もう、私にばっかり言わせないで。何とか言ってやって。父親でしょう」
「あー、また今度な」
「お父さん!」
お母さんは、
お母さんは、
あたしの敵だ。
もう疲れた。
出ていこう、こんな家。
ここにあたしの居場所は……ない。
☆
午後8時半過ぎ。くらいだったと思う。
お父さんは相変わらず我関せずで、リビングのソファーに寝転がってスマホをいじりながら土曜日のサスペンスドラマを見ていたし、あたしは夕飯を食べ終わったダイニングテーブルでお母さんと向かい合わせに座ってある話をしていた。
でも、まるで話にならなかった。
もともと話の分かる人ではなかったから、あたしは諦めた。
親を説得することを。
「だいたいねぇ、都会の一人暮らしなんてどれだけお金がかかると思ってるの。ましてや女の子が……ニュースでも怖い事件がたくさん流れてくるでしょう。それだけ危険なの。せめて大学卒業ーー」
まくしたてるように言うお母さん。
「大学大学ってさっきからしつこいなぁ。大学には行かないってずっと前から言ってるじゃん」
しつこい。本当にしつこい。
二言目には勉強しろとか大学行けとか。
自分は短大卒業してすぐ結婚決まったから、就職したことないって言ってるけど。
それが女の幸せだからって、いつの時代の話?
マジで意味分かんないんですけど。
「学がないよりはあったほうがいいに決まってるの。会社員ならともかく、趣味の延長みたいなことのどこが仕事なの。遊びでしょう。遊びながら生きていこうなんて贅沢にも程があるわ!」
「はあ?!」
お母さんにとっては漫画家は仕事じゃなくて遊びーーらしい。
世の中のすべての漫画家をディスる専業主婦。どんだけ何様なのだろうか。
まるでお話にならない。
そんな人物相手に、あたしはやっとの思いで掴んだチャンスを逃すまいと必死に頭の中で言葉を探した。
なるべくシンプルに。
率直に。
素直な言葉を紡ぎ出すように。
でも、難しい。
正攻法で伝わるならまだよかったのかもしれない。
それができるなら、あたしはこんなにももどかしくないだろうし、怒りに震えることなんてなかったのに。
「はあ……」
ため息しか出ない。
どうして?
あたしもう、自分の足で歩けるのに。
いい加減親離れしたいのに、それを許さないってどういうこと?
本当に困っているときには「自分で考えろ」って突き放すくせに。
いざ、自分で考えて行動したらこれ。
完全な裏切り。騙し。詐欺レベル。
もう、お母さんとはどうなってもいいや。
あたしはもう我慢なんてしない。
お母さんのために生きてるわけじゃないし。
そもそもあたしとお母さんの人生は別物だし、これ以上気を遣う必要なんてない。
とことんぶつかってやる。
「小学生の頃からの夢だったのよ。絶対に高校卒業するまでにデビューして、一人でも十分稼げるくらい有名になってやるんだから。だいたい、専業主婦なんて夢も希望もないじゃん。そんな人にあたしの気持ちなんてわかるわけない。やりたいことがなくて結婚に逃げたお母さんの価値観押し付けないでよ!」
「凛々! 言っていいことと悪いことの区別もつかないの? 情けない。ちょっと、お父さん!」
ほら、言い返すことができなくなるとすぐお父さんに縋る。
あたしはこのあとお父さんが何て言うか知っている。
「……ああ」
だって、お父さんはあたしに興味がないから。
今だって、誰とも目を合わせずスマホに夢中。時折テレビに視線を合わせ、何も聞こえていないように我関せずな態度。
「ねぇ、お父さんからも言ってやってよ。本当我儘ばかり言ってちっとも言う事聞かないんだから、困ったものよ。どこで育て方間違えたのかしら」
お母さんはこうやってあたしに聞こえるように、わざと厭味ったらしく言う。
いつもそう。
いつもいつもいつも。
お母さんはくどくどねちねち、めんどくさい。
確かにあたしは我儘かもしれない。
だけど、自分のことを自分で決めたいって思うのはごく当たり前じゃないの?
「……ほっとけばいい」
「ちょっと、お父さん!」
ほら、まるで無関心。
待てよ?
これって、むしろチャンスじゃない?
「ああそう。じゃあ勝手にするから、二度と連絡してこないでね」
そうだ、最初からこうすればよかったんだ。
「あ、ちょっと凛々! 待ちなさい! どこに行くの!?」
「お母さんのいないところ! じゃあね!」
妙に甲高い、まとわりつくように耳障りなお母さんの声が嫌いだ。
この人は、あたしが家を出たいって言ってから何度も何度もあたしにこういった。
「あなたに一人暮らしなんて無理に決まってるでしょう。くだらない夢ばかり追いかけていないで、もっと勉強しなさい!」
くだらないのはどっちよ。
ただの専業主婦のくせに。
☆
あたしは小学校低学年の頃から漫画が好きだった。いとこのお姉ちゃんちで読んだ少女漫画誌にハマって以来、大好きな漫画を描きながらプロを目指してきた。
そして、このたびようやく受賞デビューが決まった。しかも、ずっと好きだった少女漫画が連載している月刊誌での受賞だ。
最優秀ではなかったけれど、優秀賞という評価がもらえたことがまず素直に嬉しかった。中学1年の頃から何度か投稿して、一度だけもう一息賞をとったことがある。それが昨年だ。
徐々に近づく長年の夢。ようやく掴んだ今回のデビューという人生最大のチャンス。
逃すわけがなかった。
高校を卒業したら、新天地で本格的に漫画家の道を進むんだと決めて、高1から続けてきたドーナツ屋とスーパーの品出しのバイトで、ひたすら上京資金を貯めたというのに。
あっさり切られた。
「くだらない」って。
「何なの……」
ムカつく。
ムカつく。
夢を否定されるのは今に始まったことじゃないけれど。
それでもただ、認めてほしかった。
頑張れって背中を押してほしかった。
信じてほしかった。
ただそれだけなのに。
どうしてわかってくれないんだろう。
「ああ〜〜ムカつくっ!」
あたしは走った。
ただただまっすぐ。
お母さんは途中まで追いかけて来たけど、体力がもたなくてバテたっぽい。
その隙にあたしはお母さんからぐんぐん距離をとっていく。
振り返ることもなく。
もう、止まらない。
止められない。
止まりたくない。
止まったら負けだ。
証明してやる。
専業主婦が女の幸せだっていう幻想も。
漫画家が人の人生に彩りを与えるプロだってことを。
それにしても、悔しい。
悔しい。
ただ18歳の高校生ってだけで子ども扱いされるのが。
法律では成人になったとはいえ、お酒と煙草は二十歳以上から。部分的に成人扱いされても、まだ未成年の箇所があるだけで、基本は子どもとみなされているのと何ら変わりない。
ただ、18歳過ぎれば児童相談所とかも守ってくれなくなるし、守ってもらいたいと感じたところに限って突き放されている気がして、すごく不条理で理不尽な世の中だなとも思う。
背中を押すとか、見守るとか、
そういう後方からの支援があれば、
あたしはもっともっと、
飛躍できるのに。
言いたいことが言えてスッキリしたのは一瞬だけ。
だんだんとイライラがぶり返してきた。
「やっぱさっきのムカつくな……」
やる前から無理無理って連呼されるのは、さすがに我慢ならない。まして、思い描いていた自分の将来の夢が叶おうとしている瞬間にそんなことを言われたら。
まだお父さんの無関心さの方が遥かにありがたみを感じる。
でも、どのみちもうあの家には帰れない。
自分から啖呵切って出た以上、今更あとに引き返すわけにもいかない。
ああ、しまった。
後先考えずに何も持たずに家を飛び出して来てしまったものだから。
「せめて、スマホくらい持って来ればよかった……」
いつもなら肌身離さず持っているものを、うっかり置いてきてしまった。
「ああ〜もう!!」
落ち着かない。
取りに戻りたいけど、お母さんの顔は見たくない。
これでいい、これでいい。
あたしは自分に言い聞かせるように、あてのない道を突き進んだ。
真っ暗な夜道を照らす、小さな街頭と車のヘッドライト、月明かりだけを頼りにして。
引き返すよりマシだ。
あたしの人生は、まだまだこれからなんだ。
きっと、この先にはもっと眩しい未来が待っているに違いない。
あたしの足は止まらない。
眩しすぎるくらいの光、そして浮遊感。
「あ……!」
まるで、天にも昇るくらいの解放感。
誰かの叫び声。
「え?」
体が宙に浮いたかと思えば、悲鳴のような轟音と衝撃が、あたしの全身を激しく揺さぶった。
そして、体に走るーー突き刺すような痛みと大きな衝撃。
「………………!?」
視界が一瞬で真っ白になって、あたしは地面に叩きつけられるように落下した。
痛い。
めちゃくちゃ痛い。
「おい、大丈夫か?!」
「誰か! 救急車!!」
次第に遠ざかる誰かの声。
ああ。何やってんだろう、あたし。
このまま、死んじゃうのかな。
あたしは朦朧とした意識の中、宵闇よりも深い、さらなる闇へと落ちていく感覚に陥った。
ーーーーーーーーーーーー
目を開けるのが怖い。
怖い。
怖い。
あたし、ちゃんと生きてるの?
ーーーーーーーーーーーー
不思議と体の痛みは感じなかった。
結構激しくはねとばされたはずなのに。
もしかして、あたし本当に……
死んじゃったの?
死ぬって、こういう感じなの?
走馬灯もない。
ただ、暗くて冷たくて、何もない。
音も光もない、孤独な場所にとばされたみたいに。
悲しくて、寂しくて、苦しいのに涙も出ない。
怖い。
怖い。
怖い。
怖いけど、目を開けずにはいられなくなって。
あたしは震えるまぶたに力を込めた。
★
漆黒の闇。
束の間の悪夢からの目覚めなのか。
暗い夜道を無我夢中で駆け抜けて、車に跳ね飛ばされたこの身体。
無事で済むはずがない。
全身を激しく揺さぶるような衝撃と、地面に叩きつけられた時の絶望感。
それから一気に解放されたかのように、今は何も感じない。
視界が徐々に鮮明になっていく。
どこか懐かしいーーはりかえたばかりの畳のにおいがする。
★
「ここは……?」
病院ではなく、見覚えのある一室。
あたしはその部屋の中央に立っていた。
何となく不自然な立ち位置に違和感を覚えて、辺りを見渡す。
開けっ放しの部屋の引き戸。
視線の先には廊下があって、向かいには台所とリビングがある。
その北側には、トイレと洗面所、お風呂があって。
「え……?」
この間取り、間違いない。
ここは、あたしのお母さんの部屋だ。
どうして?
「うッ……!」
不意に激しい吐き気に襲われ、あたしは思わず洗面台の方へ向かう。
「……ッ!」
キリキリとお腹が張り出し、同時に痛みも訪れた。
何これ。何でこんなに痛いの?
「はぁ、はぁ……」
胃のあたりがムカムカして、中にあるものすべてが今にも喉の奥を通って出そうなのに、何故か出ない。
何ともすっきりしない感じがたまらなく不快で、かといって横になって休む気にもなれない。
そういえば、さっき思いきり車にぶつかってとばされたはずなのに。
その痛みは全くない。
「何で……?」
目に見える怪我もない。
訝しく思いながらあたしは洗面台から上体を起こした。
「え……!?」
鏡を見て愕然とする。
2度見、3度見。
そこに映っていたのは。
「お……母さん?」
何で?
何で、あたしが。
お母さんなの?
それも、ちょっとばかり若い頃の。
それに、
どうも様子がおかしい。
「ん?」
よくよく見れば、お母さんの……いや、今はあたしのお腹がふっくらしている。
「え……!」
うそ、太った!?
あたし、どんなに食べても太らない、スレンダーな体型が唯一の誇りだったのに……。
ドクン、ドクン、ドクン。
お腹の奥からは、余計なお世話だと言わんばかりの熱帯びた妙な鼓動を感じた。
まるで、もう一人そこにいるみたい。
まるで。
もう一人。
「っ!」
まさか。
まさか。
「まさか……」
それはあまりに突然で。
あたしはわけもわからないまま自分の体型の変化に戸惑いながらも、もし本当にそうなら……と大きく膨らんだお腹に触れてみた。
僅かにだけど、お腹がピクッと無意識に動く。
「何、これ……」
今度はグニョっと波打つようにお腹が歪む。
気持ち悪い。
モゾモゾうごめくエイリアンみたい。
内側から、胃のあたりを圧迫されるような。
トイレが近くなるような。
「うッ……!」
不定期に訪れる激しい吐き気に翻弄されながらも、
憎らしいこの大きなお腹に宿った確かな命の鼓動に共鳴するように。
溢れ出した涙は、知らず知らずのうちにあたしの頬を伝っては滴り落ちていく。
「うぅ……っ」
泣きたいわけじゃない。
でも、湧き上がるこの感情は何なのだろう。
あたしだけど、あたしじゃない。
あたしじゃないけど、あたし……みたいな。
でも、ここには確かに存在している。
目には見えないけれど、あたしの中に、あたしがいる。
小さな、小さなあたしがいる。
★
乱れた呼吸を整えて、あたしは顔を洗った。
常温より少し冷たい水。
火照った肌に行き渡らせるように。
そうしたら、今よりも少しは冷静でいられるだろうと奮い立たせる。
3回、4回と水をすくい上げ、軽くタオルで拭き取った。
体を起こすと、またお腹が張り出した。
「痛ったい……」
当たり前の行動すらままならない。
これが一年近くも続くとなると、世の女性はみんな命がけで出産するんだなと思った。
まるで他人事のように思っていたけれど、
今のあたしは思いがけない形で当事者となった。
今、改めて思う。
どんなに辛くても、苦しくても。
ただ、ただ愛おしい。
尊い。
大切なこの命。
守りたい。
思考よりも、意志よりも。
本能的にそう感じた。
決して、ここにいるのが“あたし”だからというわけじゃない。
この小さな鼓動が、あたしの中のあたしの奥深くに眠る何かにまで伝えようとしているような気がしたから。
駆り立てられる衝動の正体はわからなくとも、
大切な存在であることは明白で、且つ必然で、慈愛に満ちている。
未だかつて、感じたことのない感情。
これは、母性?
それとも、同情?