「これだよ」

そう言って公園のベンチで彼女が見せてくれたのはさっきコンビニで店員に見せた身分証だった。『榛原星奈(はいばらせいな)』という人物の。ここからほど近い場所にあるE大学の学生証。

「お姉ちゃん?」
「そ。盗んできた」
事も無げに言う彼女は早速ビールを開けた。夕暮れ時の公園でビールを飲むという、ひどく中学生離れしたその行為はなぜか彼女によく似合っていた。
紫とか橙とかなんと表現したらいいかわからないこの空はマジックアワーと呼ばれるらしい。なんとなく今の彼女には夕暮れなんて純和風な言葉よりもマジックアワーという横文字のほうがふさわしい気がした。

「そんなのあるなら先に言っといてよ。心臓止まるかと思ったんだから」
「私もできれば使いたくなかったよ。それ効果ないから」

そう言われて改めて見てみると、彼女のお姉ちゃんの年齢は19歳だった。

「店員が見ているのは身分証の年齢じゃなくて、レジに臨む姿勢ってことだね。通知表なんかよりもよっぽど正確だよ」

勝ち誇ったように笑う彼女に思わず肩の力が抜ける。
ハハッ。

おとなしいの壁の破り方を知った気がした。それは特別な方法なんかではなく、壁を思いっきり殴り壊すようなバカげたものかもしれない。それに、僕からすれば随分とかけ離れた方法だったけれど、彼女を見ていると僕にもできそうな気がしてくるから不思議だ。
思い切って缶ビールのプルを開けてみる。
小気味いい音がして、泡が飛び出してきた。さっき振っといた、と告白したのは彼女だ。

怒りよりも先に笑みが自然と浮かんだのは初めてのことかもしれない。
今は彼女の隣にいられることがなんだか嬉しかった。彼女が隣にいれば何でもできそうな、無敵感。
けれど、それとこれとは別の話。初めて飲むビールは苦みでしかなかった。

「まっず」
「もしかしてビール初めて?」
「当たり前でしょ。にっがい。まっずい」

僕のしかめっ面を微笑ましく眺めている彼女がふと、その表情に影を落とした。

「強がらない君はとても素敵だね」
「え?」
「かっこつけないで、怖かったら怖がって、苦かったらちゃんと苦いっていう君は本当に素敵だなって」

唐突にトーンを落とした彼女の声は僕を縛り付ける魔力を帯びていた。

「何言っているの。堂々としている月見さんの方が僕の何倍も魅力的だよ」
「じゃあ本当の私を見せたら幻滅されちゃうかな」
「本当の君?」

斜め下に視線を落としてから、彼女はビールをぐいっと一口飲んだ。
それから満を持して、とびっきりの笑顔で言った。

「ビールってまっずい!」

楽しそうに笑っていた。いろいろな笑い方をする子なんだと、僕も笑いながら思っていた。彼女を知れば知るほど、おとなしいから遠ざかる。それくらい、気づいたら彼女との仲は深まっていたし、絆のようなものが生まれつつあった。すべて彼女が支配する柔らかな空気感のおかげだった。

一瞬見えた気がした彼女の弱い姿。風が吹けば飛んでいきそうな儚げな彼女はもうどこにも見当たらない。もしあれが演技だとするなら末恐ろしい。
そんなことを考えていたことすらこのときはもうすでに忘れ去っていた。


それから、飲み切れなかった缶ビールを公園で寝泊まりしていた路上生活の方にあげた。彼女は現役JCとの間接キッスですよなんて言っていたけれど、その方はぽかんとしていてむしろ彼女の方が後で恥ずかしがっていた。
ホームレスさんは缶ビールのお礼にと、寝食している段ボールに案内してくれようとした。僕らはそれを口をそろえて丁重にお断りをした。
「帰る場所があるので大丈夫です」
「向かう場所があるので大丈夫です」

ホームレスさんとお別れした僕らは再び月見さんの先導のもと、次の目的地へと向かっていた。僕には目的地は知らされていない。これまで通り、ただ彼女の後ろをついていくだけだった。
もう夜も更けてきて街はすっかり大人専用の顔をのぞかせている。
その中を補導されないよう、彼女の言葉を借りれば堂々と歩いていった。

『ぼくらのおとなしい戦争』はもう少しだけ続いていく。