「ここなら大丈夫だろう」

しばらく歩いた先は体育館の裏だった。
まだどこのクラスも朝のホームルーム中で、体育館は人気がなく静まっていた。

矢上くんは、すぐ側に設置されていた自販機から温かいカフェオレを買って手渡してくれた。
建物の陰になって陽の当たらない場所なので、握っているだけで温かさが身に染みる。

「ありがとう、矢上くん。巻き込んじゃってごめんね」

「別にいい。俺が勝手に割り込んだだけだから」

ふん、とそっぽを向いていつものすまし顔だが、彼が私のことを思ってくれていることは分かっている。
矢上くんはいつもそうだ。
私が困っている時に厳しい表情をしつつも手助けをしてくれる。
今回、初めて美緒に本音で向き合えたのは矢上くんのおかげだ。

「美緒、すごく怒ってた……。美緒によく思われてないのは分かってたけど、あんなに嫌われてたなんてちょっと悲しいかも。私、知らない間に本当に美緒になにか悪いことをしちゃってたのかもしれない」

「佐野のせいじゃない。倉島の心の問題だろう。倉島があんな奴じゃなかったのは俺も覚えてる。もっとも、 隣のクラスの派手な連中とつるむようになってからは変わったようだが」

「最初は、本当に仲良しだったんだよ。でも、いつからかあんなふうになっちゃって……」

何が原因なのかは分からない。
私が美緒に自覚なしに嫌なことをしてしまったとか、他の誰かになにかを言われたのかもしれない。
ストレスが溜まって八つ当たりがヒートアップした、本当に私のことが嫌いになってしまった、など。
矢上くんが言ったように、美緒自身の心の問題というのが一番正解に近いのだろうけれど、やっぱり当人のいないところで考えたって答え合わせはできない。
そもそも、友達関係なんてほんの些細なことで壊れてしまう、ガラスよりも脆くて割れやすいものだ。
美緒との関係にもひびが入ってしまったように。

「美緒、なにか悩んでることがあったのなら相談してくれればよかったのに」

私の言葉を聞いて、矢上くんがはぁとため息をついたあと空を見上げた。

「やっぱり佐野はどこまでも善人だよ」

その横顔は、呆れているようにも、ちょっと笑っているようにも見える。

「それって、褒めてるの?」

「半分は。そんなに優しすぎるから、倉島みたいな奴に振り回されるんだ。でも俺としては、佐野のそんな性格は美点でもあると思う」

「じゃあ、褒めてくれてるんだ。嬉しいな」

「俺は佐野みたいにはなれないからな。いつもひねくれたことしか言えない。佐野の優しさが眩しく感じるよ」

驚いた。
いつも矢上くんのことを眩しく感じていたのに、矢上くんも私にそう思っていたなんて。

「そんなことないよ。私だって、矢上くんの堂々としてるところ、いっつも憧れてたもん。頭も良いし、言いたいことがハッキリ言えるのって本当にすごいことだよ」

「そうか……。佐野も、今日はハッキリ言えたな」

「矢上くんのおかげだよ。矢上くんが私の背中を押してくれたんだ」

あの時、矢上くんに『佐野が変わらなければ』と言ってもらえたおかげで一歩踏み出せた。

「そんな優しいことをした覚えはないけど」

「私には覚えがあるんだよ」

ツンとした物言いをだけれど、その口元は笑っている。

まだ美緒わだかまりは解けないかもしれない。
それでもいつかきっと、昔を懐かしんで笑える日が来るかもしれない、なんて綺麗事を言うつもりは無いけれど。
それでも、言いたいことも言えないような私から変わることはできた。
美緒との関係をあのままで納得させていた自分から、抜け出すことはできたのだ。
美緒がどうしてああなってしまったのか、まだ分からないけれど、私の本音が美緒に届いたのなら、それでいい。

矢上くんからもらったカフェオレを一口飲む。
その温かさが身に染みるようで、自然と笑顔がこぼれた。

「どうした、佐野?」

「……なんでもないよ!」

そう元気よく矢上くんに返事をする。
美緒との関係をどうするかは、これからの私にかかっている。
美緒の本音の答え合わせができるかどうか、それを考えると不安になりそうだけど、きっと私なら大丈夫だ。

「もうすぐ授業か」

遠くから聞こえる予鈴の音に、矢上くんが呟いた。
誰かがここに来てしまうだろうから、もう行かなくちゃいけない。
その前に、先生にも見つかるかも。
教室を二人で抜け出すなんて、こんな大胆なことをしたのは初めてだった。

「行くか、佐野」

「うん」

今度は手を引かれずとも、隣に並んで歩いて行ける。
ふと見上げた冬空は吹き抜けるような青色で、なんだか少しだけ息がしやすくなった気がした。