小樽あやかし香堂

「はは……本当ですね」

 そう。あのときは必死になりすぎて、ハルから受け取った木箱の存在をすっかり忘れてしまっていた。
 苦笑しながら、紬は受け取ったままになった小さな木箱をハルに手渡した。

「それにしても、この木箱には、一体何が入っていたんですか?」
「あー、それは」
「香木の重(かさね)だよ。紬さん」

 答えようとしたハルに代わって、店奥から現れた紫苑が答えを告げる。
 濃紺の着流しに艶が眩しく映る黒髪の長髪。初めて見たときと同じはずの佇まいが、今は少しだけ距離が縮まった。勘違いでもそう感じられることが、紬はとても幸せだった。

「香木の重、というのは確か、香木を薄く輪切りにしたものでしたよね?」
「そう。市販されているものは四角に切られた角割や小割も多いけれど、今回はたまたま手に入ったのがこれでね。有事の時のために、ハルに持たせていたんだ」
「あ、てめっ」

 自然な仕草でハルの手からそれを取り上げる。
 どうやらその木箱を持ち歩いていることは、ハルにとっては知られなくないことのようだった。紫苑への恩義の象徴だからかもしれない。

「これはこれは。懐かしい箱をお持ちで」
「ほっとけ。馬鹿香司」

 ばつが悪そうにするハルに、紫苑がにっと笑みを浮かべる。
 紫苑はわかっているのだ。紫苑がハルを大切に思うのと同じくらいに、ハルもまた、紫苑のことを大切に思っていることを。

 胸が温かくなるのを感じていると、紫苑がその箱の蓋を開いた。
 すると次の瞬間、封の中からの豊かな香りに気づく。気品すら感じるその香りにしばらく言葉を忘れた。

 様々な香りを日々聞いてきた紬だったが、この香りは記憶の中のどの香りとも違った。

「紫苑さん、この香木は……沈香、ですか?」

 最も近いと思われるものを挙げたが、恐らく外れであることはわかっていた。沈香は熱することで上品な落ち着く香りを漂わせるが、常温では基本的に香りを放たない。
 しかし、今目の前にある香木は、紫苑の手のひらに置かれただけで実に芳醇な香りを放っている。

「惜しい。これは『伽羅(きゃら)』だよ」
「へっ……」

 小樽たちばな香堂の勤務を始めて二ヶ月半。付け焼き刃の知識も多いとはいえ、紬はその言葉に反応せずには居られなかった。

「伽羅、というのはもしかして……!」
「そう。沈香でも最上級品と謳われる香木のひとつ。その香りは非常に芳醇で、沈香の中でも常温で優雅な香りを放つ。別名『神の香り』とも言われているんだ」

 神の香り。

 その言葉で紬が真っ先に思い浮かべたのは、愉快げに細められた目と弧を象る口元。癖のある深い茶色の短髪を持つ、山伏衣装の人物。山の神である天狗・シュリそのひとだった。

「つまり、あの天狗に体調を鎮めてもらう対価として、こちらはそのときで一番の質を誇る伽羅を譲り渡す。それが毎回決まった我々の対価交換だったんだよ」
「で、でも、シュリ様はそんなこと一言も」
「大方紬さんの反応が楽しくていいようにからかったんでしょう。あの悪徳天狗のやりそうなことだよ。忌々しい」

 悪徳天狗。初めて聞いた。
 とはいえ、シュリのお陰ですっかり調子を戻せたらしい紫苑を見ていると、やはり紬は山の神に感謝せずにはいられなかった。加えて、こんなに珍しい紫苑の表情を見ることができたことも。

「でも、紬さんも無事で居てくれて、本当によかった」
「だな。着物一枚と引き換えに五体満足で返されたなら、まあ御の字だ」

 伽羅を閉まったあとにしみじみ告げた紫苑に、ハルが賛同する。しかし、紬はすぐには肯定できなかった。
 結果として、紫苑から譲られた大切な着物を手放すことになってしまったのだから。

「そんな顔をしないで、紬さん」

 いつの間にか視線を床に落としていた紬に、ぽんと優しく頭を撫でる手に気づく。

「君を助けられるのなら、着物のひとつやふたつ手放したって惜しくない。あの着物だってきっと、君を守れたことを喜んでるはずだ」
「まあそうかもな。なんたってあの着物は輪廻香司に反対して一族を抜けた、先代の紫織(しおり)の持ち物だしよ」
「……え?」

 思いがけず聞かされた事実を、紬の頭がゆっくりと咀嚼していく。
 先代というのは、紫苑の母ということだろうか。ということはもしや、出逢って初日に紫苑から譲り受けた着物たちは、元々は紫苑の母のもの?

 つまり、あのとき手放した着物も今まとっている着物も、全ては紫苑の母の形見──。

「お、お、お、お返ししますっ! この着物も、今すぐに!」
「紬さん?」
「何言ってんだお前」

 突然大きな声を張った紬に、紫苑とハルは揃って目を丸くした。

「紫苑さんのお母様の形見の着物だなんて思ってもみなくて……! そんな大切なもの、私とても受け取れません!」
「何を今さら。お前、ここ数ヶ月ずっと着回してただろーよ」
「だって! そんなこととはまるで知らなかったものですから……!」

 そんな大切な着物を、自分が譲られていいはずがないではない。慌てふためく紬は、ひとまず今身を包む着物の帯に手をかける。
 留め紐を引こうとした紬の手だったが、ぐいっと力強い手によって引き上げられた。

 次の瞬間、目の前が近づいた人物によって暗く陰る。

「まさか、俺の目の前で自発的に着物を脱ぐつもりなのかな」
「っ、あ」

 見上げた紫苑の顔は、思いのほか距離が近かった。
 いつもの穏やかな笑顔とは真逆の、困惑とも怒りともとれる表情に気づく。
 形見の品の着物を好きに着続けていた自分を、内心呆れていたのかもしれない。

「す、すみませんでした。私、形見の品だなんて全く気づかなくて、その……」
「天狗山でのアレは不可抗力だったから耐えたけれど。次にやったら我慢しないからね」
「……え?」

「女の人が男の前で服を脱ぐなんて、どういう意味なのか考えてみてってこと」

 女の人が、男の前で服を脱ぐ。

 告げられた言葉を何度か頭にぐるぐる回した後、紬は言われた意味に気づきぼんと一気に顔を沸騰させた。意味なく前を閉じた着物をきつく合わせると、満足したらしい紫苑はようやく笑顔を浮かべる。

「す、すす、すみません……っ」
「ん。いいよ。でも今度は絶対しないでね。絶対ね。次はないからね」
「はいっ!」
「つーか、別にお前が気にするこっちゃねーよ。紫苑が着物を譲ったのだって、単にお前に形見の着物を着てほしかっただけだろ。お前、紫織と香りが似てるからな」
「え……紫織さんと、私が?」
「ハル」
「なんだよ、しおくん?」

 しおくん。天狗山で、星屑の香りとともにみた情景で、母親らしい女性が子に告げていた呼び名だ。
 気づけば紫苑はハルを鋭く睨みつけ、ハルは愉快げに紫苑を見上げていた。でも、そうか。今までずっと引っかかっていたことが、紬の中でようやくするすると解けていく。
 いくら親切な人間だとしても、見知らぬものを家に引き込み職も与えるなんて、さすがに人が良すぎるだろう。

 天狗山で交わした会話から、十二年前のことが起因しての親切かとも思っていたが、どうやら理由はそれだけではなかったらしい。

「お母さんの香りに似ていたから……私のことを捨て置くことができなかったんですね?」

 静かに問いかけた紬に、紫苑はばつが悪そうに視線を逸らした。口元に手を当てしばらく思考したのち、こくりと小さく頷く。

「恥ずかしながら、それは否定しない。紬さんの香りが……とてもよく似てたんだ。まるで星屑を集めたような、優しく瞬くような香りが」
「え……」

 思いがけず耳にした表現に、紬は小さく息をのんだ。

 星屑の香り。

 それは時折紬のそばを流れては消える、不思議な香りだった。
 あるときは、香房への道を知らせるいたずらな香りとして。またあるときは、紫苑と向き合う勇気を後押しする香りとして。そしてまたあるときは、十二年前、二人を巡り合わせた出会いの香りとして。
 自分自身の香りというのは、周囲のそれと比べて非常にわかりづらいものだという。あれはまさか、何かの拍子に敏感に反応できた自分自身の香りだったのだろうか。

 それとも、紬の香りとよく似ていたという、紫苑の母親の香り──。

「紬さん?」
「っ、はい!」

 深い思考に落ちかけていた紬に、明瞭な声が掛かる。
 慌てて顔を上げると、どこか気まずげに眉を寄せる紫苑の表情があった。

「もしも不快にさせたのならごめん。でも、それだけじゃないよ。君の素直な人柄が心地よくて、少しの間でも側にいてほしいと思ったんだ」
「っ、だ、大丈夫です。不快になんて思ってませんよっ?」

 どうやら紫苑は、紬が母親の香りと似ているのがきっかけで手を差し伸べたことを、何か後ろめたく思っているらしい。そんなことはつゆほども感じていなかった紬は、慌てて頭を横に振った。
 紫苑が、自らの口元を覆っていた手をそっと避ける。ほのかに赤らんだ顔と、いまだ気まずげに彷徨う視線。

 なんだろう。こんな紫苑さんも、初めて見たかもしれない。

 次々と更新されていく彼の表情に、胸の奥がぎゅっとなる。そしてどんな表情の彼も魅力的に映って止まないのは、一体どういうわけなのか。

「最初はまさか、十二年前の女の子だったなんて考えもしなかった。一ヶ月ほど前に、紬さんに『夜に溶けないで』と言われるまでは」
「え……」
「十二年前の紬さんも、俺に同じ言葉をかけてくれたんだ」

 そうだったのか。
 無意識に同じ言葉を口にしていた自分を知り、頬が熱くなる。
 紬自身もまた、知らずのうちに十二年前に出逢いと同じものを感じていた、ということなのだろうか。

「それから十二年前の出逢いを思い出して、紬さんと日々をともに過ごすうちに……いつの間にか、俺のほうが離れがたくなってた」
「紫苑さん……」
「ねえ紬さん」

 あのときの言葉、本物の契りにしたいって言ったら、どう思う……?

 告げられた瞬間、その言葉を指しているのか紬にはすぐに理解できた。
 私はあなたをの側を離れません。

「はい。紫苑さんさえ迷惑でなければ、喜んで」
「本当に、いいの?」
「女に二言はありません。私、紫苑さんのことが、本当に大好きですから」

 自然に浮かんだ笑みを向けると、紫苑の緊張が走った表情がにわかに和らぐ。幸せだ、と紬は思った。
 彼の笑顔を見ているだけで、自分はこんなにも幸せな心地になれる。

「私は、これからもずっと紫苑さんの側にいます」
「うん」
「ですから、紫苑さんも遠慮せずに私をお母さん代わりにしてくださいね」
「うん……、うん?」

 香堂内の空気が、ぴきりと凍り付く音がした。おやと不思議に思いつつ、紬は笑顔で続ける。

「大丈夫です。紫苑さんのお母さんの代わりが務まるかはまだ正直自信がありませんが、私も精一杯頑張ります!」
「ええっと。紬さん?」
「心配はいりません! 幸い私も、結婚する相手の影なんてものは、毛ほどもありませんしね!」
「ぶ、ははははっ!」

 我慢ならない、といった様子で、ハルが足元で腹を抱えて転げ回る。
 その反応の意図がわからず目を丸くする紬に、ふわりと優しく肩を抱く手があった。

「紫苑さん?」
「そうきたか。紬さんは本当、紬さんだね」
「ええっと……?」
「まあ、いいや。未来は刻々と変わっていくものだから。今を漂う香りと同じくね」

 柔らかく細められた瞳に、眩いほどの星空を見た。
 この人の隣で歩む未来はどんなものだろう。想像できない情景に、紬の心の臓がどきどきと静かに胸を叩く。

「さてと。それじゃあそろそろ、開店時間にしましょうか」
「はい」
「そろそろきっちり稼がねーとな」

 この街で、この人と共に生きていく。素敵な人たちと、あやかしと、歴史を刻んだ街並みを胸に抱いて。

 店先の戸を、左右に大きく開く。
 香堂に立ちこめていた無限の香りが、小樽の街を満たすようにきらきらと舞い散っていった。

終わり