はー、はー、とみっともなく息が上がる。構うもんか。

「今の言葉は、あなたとの契りです。それを受け入れるか否かは、紫苑さんにお任せします」
「っ、な、にを言って」
「……ふふ。そんな顔もするんですね。紫苑さん」

 言いたいことを全てぶちまけて、気が抜けてしまったらしい。
 まだ距離のある紫苑の、虚を突かれた驚きの表情。初めて目にしたそれが妙に嬉しくて、思わず笑い涙が滲む。

「シュリ様、契りを守ってくださってありがとうございます。どうぞ、私が払うべき対価を」
「そうだな。早くしないと、恩義もないあの男に邪魔されかねん」

 楽しげに口角を上げるシュリに向き合った紬は、覚悟を決めたように瞼を下ろした。もしかしたら、もう二度と開くことはないかもしれない。そう思うとやはり体が竦む。

 それでも、最後に紫苑さんにもう一度会えてよかった。
 さようなら、紫苑さん──。

「出でよ、麒麟(きりん)!!」

 凜とした熱い言葉が、森一帯に響き渡った。
 次の瞬間、紬の体が重力を無視して妙な浮遊感に包まれる。

「っ、え、な……!?」
「掴まっていて」
「し」

 紫苑さん、そう呼ぼうとした唇は、そのまま動きを止めた。

 力強い腕に包まれ、横抱きにされた体勢から覗えるのはその横顔のみ。それだけでも、先ほどの紫苑までとは明らかな違いが見られた。
 澄み切った青い瞳に、普段黒いはずの髪は金色に揺れている。
 香房でも見た姿だ。気づいた紬は一瞬体を硬くしたが、その瞳には先ほどとは違う、紫苑の強い意志が備わっていた。

「紫苑さん……もう、大丈夫なんですね?」
「うん、大丈夫。降りるよ」
「え? ひゃっ」

 紬はようやく、自分たちが今地面を離れ、宙を浮遊していたのだと気づく。予告通り次第に降下していった紫苑は、紬を抱きかかえたまま近くの土に足をつけた。
 前方には先ほどまで紬を捕らえていたシュリが、物珍しげにこちらを眺めている。

「ほう。麒麟の力、か。話には聞いていたが、よもやここまでとはな」
「この人は今回のことに関係ない。現にこの人は何も利益を得ていない。契りなら俺が新たに交わす」
「そうは問屋が卸さぬ。利益の有無はどうあれ、対あやかしとの契りとはそういうものだ。お前もあやかしの端くれならばとうに知っていることだろう」
「端くれじゃねえよ。俺は人間だ」
「咄嗟に麒麟の力を出しておいて何を言う」

 くつくつ笑うシュリに、紫苑は不満ありありとした顔で睨みつける。
 そんな中、いまだ紫苑の腕に抱かれたままの紬は、今のシュリの言葉を考えていた。
 麒麟の力。
 キリンというのが動物のそれではないことは、会話の流れからもすぐに理解できる。つまり──あやかしの「麒麟」だ。

 昔見たものの本で見たことがある。麒麟は中国に伝わる、聖獣と称されるあやかしのひとつだ。
 外観は複数の動物を組み合わせたもので、身体は鹿、顔は龍、尾は牛、蹄は馬のようだもと伝えられる。腹部や背は青、赤、黄、白、黒の五色に輝き、それらは宇宙で起こる出来事全てを余すことなく表現してるとも言われると。

 紫苑さんにの体内にはあやかしの血が流れていると聞いた。
 つまりそれは、麒麟の血が──?

「だが、面白いものを見れたのも事実。本来ならばその娘の純潔を奪うつもりではあったが、それはまたの機会にさせてもらう」
「……純潔?」

 命ではなかったのか。意外な言葉に拍子抜けした紬だったが、対して紬の肩を抱く紫苑の手には微かに力がこもった。

「ただし、山の神との契りは有効。手ぶらで帰すわけにもいくまいな」
「え……!?」
「っ、紬さん!」

 急に目の前に光が立ちこめたかと思うと、何かが体をすり抜けていく心地がする。ようやく眩しさが収まり目を凝らすと、目の前には見覚えのある麻の葉模様があった。
 ご丁寧に紬の体から抜き去る際に、綺麗に折りたたまれたらしいそれは。

「紬。お前の此度の対価はこれにしよう。異存はないな?」
「ま、ま、待ってください! それは……!」

 対価と称された物がなんなのかわかり、長襦袢姿になった紬は慌てて紫苑の腕から抜け出そうとする。
 それはまさに今紬が纏っていた、紫苑から譲られた麻の葉模様の着物だった。

「それはっ、紫苑さんから譲り受けたものなんです! どうかそれだけはっ」
「紬さん、そんなものはもういいから……っ」
「よくありません! 紫苑さんからもらった、大切な着物の一つなんですよ!?」

 手首を掴み押しとどめる紫苑に、紬は涙目で反論する。
 そんな紬としばらく対峙したのち、紫苑はみるみる肩を落としていった。顔も地面に向けられ、どんな表情は窺うことができない。

「ああ、もー……本当に」
「し、紫苑さん?」
「紬さんは、馬鹿だよ」