ぎゅっと胸の前に両手を握る。そんな紬をしばらく見ていたハルが、はあと小さなため息をついた。

「知らないほうが幸福ということもある」
「ハル先輩っ」
「どうして、お前はそれを知りたがる?」

 向けられた視線は、奥に紫の光を宿していた。
 まるで燃える炎のように揺らめき、意識ごと引き込まれてしまうような引力を持つ。

 対峙した紬は改めて思う。
 ハルは人ならざるもの──あやかしなのだと。

「あいつのことを好ましいと思うのはわかる。俺が言うのも癪だがあいつは見目も悪くないし人当たりもいい。加えて他の者を惹き付ける独特の空気をまとっている。あいつに恋い焦がれる人間を、俺は数え切れないほど見てきた。一生あいつの側にいたいと乞う者も」

 最後の言葉に、紬が一瞬怯む。
 そんな決意を胸にした存在も過去にはやはりいたのだ。
 そして今、その人の姿は香堂のどこにもいない。

「あいつはわかってる。自分の側に置いた存在は、やがて自分の引き寄せる因果に巻き込む。だから側に誰も置こうとしない。しない……はずだった」
「……? ハル先輩?」
「だのに、当の本人は自覚無しときた」

「あーあー、めんどくせーなーもー!」最後は心の底から面倒そうにふわふわと揺れる髪を勢いよくかきむしる。その様子に呆気に取られた紬だったが、一方で先ほどハルに投げられた問いかけを思い出す。

 どうして自分は、それを知りたがるのか。

「紫苑さんは……昔からなりたくてたまらなかった、憧れの私の姿なんです」

 紬の周囲には、人ならざる者を目視できる者はいなかった。
 それを何とか受け入れてくれる存在はいたが、やはり自分が特殊だという現実は腹の底にあり続け、時折紬の中をチクリと痛めつけた。自分は影の道を歩くべき存在なのだと、紬は信じて疑わなかったのだ。

「でも、それは間違いでした。私と同じ目を持つ紫苑さんは、あんなに綺麗で、堂々として、みんなから慕われて生きていた。ハル先輩のような、慕って側にいる存在もいる」
「最後のは余計だけどな」
「紫苑さんは、私の光です。途方に暮れていた私を引き上げて、助けて、居場所をくれた。私が持つ目も鼻も口も、全てを受け入れてくれた……大切な人です」

 自分の歩いてきた跡は綺麗に消していく。いつの間にかそんな生き方が癖になっていた。
 そんな自分が、初めて跡を消せずに生き続けていられた──温かな場所。

「私は、ありのままの私で紫苑さんの役に立ちたい。そして許されるなら、紫苑さんの側にいたいんです。これからもずっと」

 いつの間にか、体温が上がっていた。それだけ熱が籠もってしまったのだろうか。
 ハルはしばらく口を閉ざしていたが、すっと瞼を閉ざし小さく頷いた。

「お前の気持ちは、よくわかった。俺が言うことはもうない。あとは二人で気の済むまで話し合えよ」
「ハル先輩……!」
「というか。どちらかというとあいつのほうが、往生際が悪かっただけなんだけどよ」
「あいつ? あいつというのは……」

 首を傾げ言葉を続けようとした、その瞬間だった。

 音にならざる音が、紬の体をどんと揺らした。
 まるで気圧で押されたような、明らかな異変の風だった。

「っ、あの馬鹿……!」
「あ、ハル先輩!?」

 気づけば人型だったハルが宙を飛び、人と思えぬ速さで縁側からの廊下を駆けていく。紬もすかさずその後についていった。

 嫌な予感がした。どんどんと痛いほどに心臓が紬の胸を叩く。
 ハルが向かった先は屋敷の最奥。そこに存するのは、香房に続く扉だけだ。

「紫苑さん!?」
「こっち来んな、紬!」

 血相を変えたハルが扉付近でこちらを振り返るのと、紬が扉の前にたどり着いたのがほぼ同時だった。そして、初めて目にした香房の中の様子に息をのむ。

 中は思ったよりも、ずっとずっと薄暗かった。
 辛うじて視界に入る室内の壁は全て、漆塗りのような艶が光る正方形の引き出しになっている。ほとんどはきっちり壁に密着したままだったが、いくつかは引き出しごと姿を消し空になっていた。
 中身は恐らく香料だったのだろう。辺りに無尽蔵に漂う強い香りに、紬は一瞬顔をしかめた。

「ハル先輩、紫苑さんは……!」
「いいからっ、お前はちょっと向こうに行って」

「──甘い」

 それは二重に覆われたような異様な声だった。
 こんな声を紬は以前も聞いたことがある。その主は決まって、人ならざる者だった。
 紬の声とも、ハルの声ともつかない声。もちろん紫苑の声ではない、はずだった。

「甘い、香りがする」
「紬っ、ここに絶対入るなよ!?」
「……し」

 紫苑さん?

 室内にあった僅かなかがり火が、紬の問いかけに呼応したように炎を高く踊らせる。
 紅蓮の明かりとともに浮き上がったのは、間違いなく紫苑の姿だった。しかしその面差しは、今まで見た中のどの紫苑とも違う。
 いつもは黒く艶やかな長髪は、眩しいほどの金色に色を変えていた。元々白い陶器のような肌は益々白く光り、血の気すら感じさせない。
 何よりこちらを真っ直ぐ見つめる瞳は、夏空のように済んだ青色になっていた。
 瞳の中の青に紬が映り、その表情を柔らかく和ませる。

「紬さん。やっぱり君は、いい香りがする」
「え……」
「紬! 目をそらせ!」
「さあ、こっちへ」

 ──この部屋の中へ、おいで。