二階に広がるギャラリーのあと、紬たちは隣接する「洋のフロア」に移っていった。

 セピア色の古写真を懐かしさとともに眺めているような、優しい空気が漂っている。棚に並ぶカットグラスや一点もののステンドグラスの奥深い美しさに、紬はすっかり魅せられていった。
 そして紫苑の案内の元、一際照明が抑えられた空間に誘われていく。
 奥の廊下をすぐに曲がると、たちまち目の前に広がった光景に紬ははっと目を見張った。

「っ、う、わあ……」

 紬の口から、ため息にも似た声が漏れた。

 小樽の街に一瞬で夜が落ちた。思わずそんな考えが過る。
 テーブルと椅子が広い木造空間にいくつも置かれた中を、数え切れないほどの石油ランプの灯りのみが橙色に照らしていた。
 同様の灯りが揺れるシャンデリアがこちらを見下ろす光景は、まるで異世界に迷い込んだようだ。

「ここは『北一ホール』。レストラン&カフェが営業されていて、メニューも豊富なんだ。ちょうどいい時間だから少し腹ごしらえをしていこうか」
「はい……」

 夢見心地だった。
 入り口で食券を購入しカウンターに渡したあと、紬は丸テーブルの一席に腰を下ろした。
 向かいあって座る紫苑との間にはやはりランプが置かれ、炎が優しく揺れている。手元のブザーが鳴り、紫苑が注文の品を持ってきてくれた。北一特製ロイヤルミルクティの甘い香りが、そっと鼻腔をくすぐる。
 それでもなお心ここにあらずのまま、紬は自分を包む神秘的な光景に何度目かわからないため息を漏らした。

「この場所は、きっと紬さんが気に入るだろうって確信があったんだ」

 そっと口を開いた紫苑もまた、辺りに瞬くランプの灯火を眩しげに眺めている。

「はは……なんだかもう私、この空間だけでお腹がいっぱいです」
「わかるよ。俺もここに来ると、心が落ち着いて満たされるんだ。不思議な温かいものが、自分のなかに注がれていくような心地がする」
「あ……」

 私と同じ心地だ。咄嗟にそう感じ、心臓が震える。

「紫苑さん」
「はい」
「紫苑さんは……みんなには視えないものが視えることで、辛い思いをしたことはありませんか」

 つい、口から滑り落ちた言葉だった。
 今の質問が純粋な質問ではなかったことも、すでに伝わっているらしい。そっとこちらに向けられた眼差しは、背を押すような優しいものだった。ぎゅ、と小さく膝上で拳を作る。

「私、昔から少し浮いていたんです。みんなが見えないものが私には見え、みんなが感じないものが私には感じる。最初は気味悪がられて、なかなか友達もできませんでした」
「うん」
「徐々に家族も私の感じ方を認めてくれて、こんな自分のことをわかってくれる友達もできました。それでもやっぱり、そんなことはごく稀で……」

 会社に勤めるには、会社の枠組みに収まる必要がある。
 無意識に、あるいは衝動的に枠組みの外に出てしまう紬のような存在は、当然のように煙たがられる存在だった。

「幼い頃から心配をかけていた両親には早く安心させてあげたいんですが、なかなかうまくいかないですね。働き先も住む場所もなくして、運もなければ実力もなくて……」

 私、親孝行もまともにできないんでしょうか。
 頭にじわりと浮かんだ言葉が声になる前に、紬はぎゅっと口を噤んだ。声に涙がにじむ予感がしたのだ。

「はは、何だかすみません。唐突に私の身の上話なんて聞かされても困りますよね」

 どうしてだろう。いつもはこんなこと絶対に口にしない。
 それなのにまるで引き出されるように口にしてしまったのは、今いる不思議な空間のせいだろうか。

「紬さん」
「え……」
「君は、そのままで十分だよ」