朝、一緒に家を出る。そんなあたりまえの日常がまた一年間続いた。
そして今年もまたバレンタイン。朝、いつものようにチャイムが鳴った。
今朝の遠野さんは、大きなトートバッグを下げている。
きっと会社の人にあげる義理チョコや彼氏への本命チョコが入ってるんだ。
大きな赤い包装紙の箱が見えた。きっと彼氏用。ほかに大きな紙袋が見えた。紙袋の中には、きっといくつも小さなチョコが入っているんだろう。これは間違いなく義理チョコで確定。
ずいぶん風が強い朝だった。 遠野さんが時々、膝上のスカートを押さえた。
チラッと白い太腿に目が飛ぶ。これはあくまでなりゆきなんです、ハイ。
窮屈そうな黒のハイソックスが朝の光に滑らかに映える。
遠野さんって、本当に会社員の制服がピッタリの女性だと思う。きっとカッコよく働いているんだろうな。
「今日、バレンタインでしょ。彼氏にフォンダンショコラつくった。会社の人への義理チョコは、今年もスーパーでまにあわせたけど……」
遠野さんは僕に向けておごそかに宣言。
「初めての経験で心配だったから、最初にテスト用をつくった。なかなかよかったから、会社から帰ったら松山くんに持っていくからね。その前に彼氏に渡すけど、彼氏も今。すごく忙しいから渡すだけで帰る予定」
またご自分の個人情報を詳しく聞かせてくださった。
「ありがとうございます」
「自信作は彼氏用だからね。ごめんなさい。じゃあ」
交差点。遠野さんが手を振って右へ曲がったとき。
空気を切る音、突風。
一瞬! 遠野さんのトートバッグが宙に飛ぶ。そのまま僕のそばに落ちて、赤い包装紙の箱や紙袋が投げ出された。
あわててチョコレートの箱を拾う。アレ? フォンダンショコラってこんなに軽いんだろうか? なんだか空箱のように思えるんだけれど、まさか入れ忘れ?
紙袋に手を伸ばしてみる。アレ? ずいぶん軽いのだけれど、まさか入れ忘れ?
これって一体、どういうことなんでしょうか?
いきなり遠野さんが、僕の手から箱と紙袋、ひったくった。
はずみで紙袋から、何十枚かのチラシや封書がこぼれて道路に散乱した。
化粧品やエステサロンのチラシやDMだった。チラシに印刷された遠野さんくらいの年齢の女性が、何人もにこやかに微笑んできた。
遠野さんの顏が真っ赤! 僕のことをにらみつけてきた。
「君ってほんとにひどい子どもだね」
ア・ゼ・ン!
「だいたい最初から分かってたんでしょ。去年、君がお風呂入るの待って、わたしが家に戻ろうとしたこと。留守に見せかけるため、部屋の電気消してて本棚にぶつかって、本棚が倒れたこと」
待ってください! そんな事実、今、初めて知ったんですけど……。
「おまけにしつこくチャイム押して来て! 知っててわざとやってたんでしょ。心の中でわたしのこと、笑いながら!」
どうしよう、遠野さんが興奮してきた。ここ、歩道だからほかの人だって通るのに……。
「なにもおかしくないから笑いません。本当です」
僕、真面目に答えたのに、遠野さんは信じてくれなかい。
「大キライ。君みたいな子はね。わたし以外、だれもチョコくれないよ。これから先、ずっと一生……」
ブルブル震えている。
「惨めで暗いバレンタインを毎年送ればいい。目の前を女子が通ったら、物欲しそうに首伸ばす哀れな人生送ればいい。君のようにね。なにもかも分かったような顔してる子どもなんて嫌われるからね。絶対!」
遠野さんが体いっぱい使って、怒りを表現してきた。両手を握り、大きく体を前に傾け、僕のことにらみつけてくる。
遠野さん! やめてください。完全に怖い人になってます。僕、そんな遠野さんなんか見たくないんです。
遠野さんは道路のチラシを拾い集めると、僕に背を向け、なにも言わずに離れて行った。
遠野さんが離れたいま、僕は色々なことが分かった。
遠野さんにチョコレートを渡す彼氏はいなかったということ。同僚や上司に義理チョコすら渡してないという事実。
そしてもうひとつ、重大な事実。今年の僕は、チョコが一個も手に入らないこと、この瞬間、確定したみたい。
遠野さん。遠野さんだってひどい女性だと思います。自分で彼氏がいるって僕に話したんじゃありませんか?
僕、少し寂しかったんです。
ふと地面に落ちたチラシが目に入る。紙袋から落ちたチラシが残ってたんだ。
<もうアラサーとは言わせない! 奇跡の化粧品>
何だか哀しくなってきた。
「遠野さん」
僕が声をかけると、遠野さんが振り返る。僕の手の中のチラシに気づくと、あわててひったくった。
「こんなもの要らないと思います」
遠野さんが驚いた顔をして僕のことを見た。だけどすぐ、その場から遠ざかっていった。
そして今年もまたバレンタイン。朝、いつものようにチャイムが鳴った。
今朝の遠野さんは、大きなトートバッグを下げている。
きっと会社の人にあげる義理チョコや彼氏への本命チョコが入ってるんだ。
大きな赤い包装紙の箱が見えた。きっと彼氏用。ほかに大きな紙袋が見えた。紙袋の中には、きっといくつも小さなチョコが入っているんだろう。これは間違いなく義理チョコで確定。
ずいぶん風が強い朝だった。 遠野さんが時々、膝上のスカートを押さえた。
チラッと白い太腿に目が飛ぶ。これはあくまでなりゆきなんです、ハイ。
窮屈そうな黒のハイソックスが朝の光に滑らかに映える。
遠野さんって、本当に会社員の制服がピッタリの女性だと思う。きっとカッコよく働いているんだろうな。
「今日、バレンタインでしょ。彼氏にフォンダンショコラつくった。会社の人への義理チョコは、今年もスーパーでまにあわせたけど……」
遠野さんは僕に向けておごそかに宣言。
「初めての経験で心配だったから、最初にテスト用をつくった。なかなかよかったから、会社から帰ったら松山くんに持っていくからね。その前に彼氏に渡すけど、彼氏も今。すごく忙しいから渡すだけで帰る予定」
またご自分の個人情報を詳しく聞かせてくださった。
「ありがとうございます」
「自信作は彼氏用だからね。ごめんなさい。じゃあ」
交差点。遠野さんが手を振って右へ曲がったとき。
空気を切る音、突風。
一瞬! 遠野さんのトートバッグが宙に飛ぶ。そのまま僕のそばに落ちて、赤い包装紙の箱や紙袋が投げ出された。
あわててチョコレートの箱を拾う。アレ? フォンダンショコラってこんなに軽いんだろうか? なんだか空箱のように思えるんだけれど、まさか入れ忘れ?
紙袋に手を伸ばしてみる。アレ? ずいぶん軽いのだけれど、まさか入れ忘れ?
これって一体、どういうことなんでしょうか?
いきなり遠野さんが、僕の手から箱と紙袋、ひったくった。
はずみで紙袋から、何十枚かのチラシや封書がこぼれて道路に散乱した。
化粧品やエステサロンのチラシやDMだった。チラシに印刷された遠野さんくらいの年齢の女性が、何人もにこやかに微笑んできた。
遠野さんの顏が真っ赤! 僕のことをにらみつけてきた。
「君ってほんとにひどい子どもだね」
ア・ゼ・ン!
「だいたい最初から分かってたんでしょ。去年、君がお風呂入るの待って、わたしが家に戻ろうとしたこと。留守に見せかけるため、部屋の電気消してて本棚にぶつかって、本棚が倒れたこと」
待ってください! そんな事実、今、初めて知ったんですけど……。
「おまけにしつこくチャイム押して来て! 知っててわざとやってたんでしょ。心の中でわたしのこと、笑いながら!」
どうしよう、遠野さんが興奮してきた。ここ、歩道だからほかの人だって通るのに……。
「なにもおかしくないから笑いません。本当です」
僕、真面目に答えたのに、遠野さんは信じてくれなかい。
「大キライ。君みたいな子はね。わたし以外、だれもチョコくれないよ。これから先、ずっと一生……」
ブルブル震えている。
「惨めで暗いバレンタインを毎年送ればいい。目の前を女子が通ったら、物欲しそうに首伸ばす哀れな人生送ればいい。君のようにね。なにもかも分かったような顔してる子どもなんて嫌われるからね。絶対!」
遠野さんが体いっぱい使って、怒りを表現してきた。両手を握り、大きく体を前に傾け、僕のことにらみつけてくる。
遠野さん! やめてください。完全に怖い人になってます。僕、そんな遠野さんなんか見たくないんです。
遠野さんは道路のチラシを拾い集めると、僕に背を向け、なにも言わずに離れて行った。
遠野さんが離れたいま、僕は色々なことが分かった。
遠野さんにチョコレートを渡す彼氏はいなかったということ。同僚や上司に義理チョコすら渡してないという事実。
そしてもうひとつ、重大な事実。今年の僕は、チョコが一個も手に入らないこと、この瞬間、確定したみたい。
遠野さん。遠野さんだってひどい女性だと思います。自分で彼氏がいるって僕に話したんじゃありませんか?
僕、少し寂しかったんです。
ふと地面に落ちたチラシが目に入る。紙袋から落ちたチラシが残ってたんだ。
<もうアラサーとは言わせない! 奇跡の化粧品>
何だか哀しくなってきた。
「遠野さん」
僕が声をかけると、遠野さんが振り返る。僕の手の中のチラシに気づくと、あわててひったくった。
「こんなもの要らないと思います」
遠野さんが驚いた顔をして僕のことを見た。だけどすぐ、その場から遠ざかっていった。