そんな遠野さんとの日常の中で迎えた桜花高校一年特進クラスでのバレンタイン。
二月十四日の朝。
遠野さんと一緒に家を出たけれど、バレンタインの話なんか一言も出なかった。
推薦で高校に入ってからも、僕にとってのバレンタインは変わらない。
僕は机に座ったまま、一日中、ひたすら「忍」に徹した。
念のため、高校三年間のカレンダーを調べてみたけれど、二月十四日が土曜、日曜日になる年なんてなかった。
僕にとっての、高校一年の二月十四日はこうして終わった。
ふくれあがったトートバッグを肩から下げているクラスメイト。重そうな表情が、わざとらしい。なんて人間だ!
たった二個か三個のチョコレートを、スクールバッグに入れずに、わざわざ手に持って帰るクラスメイトもいる。なんかイヤだな~。
なにも興味ないふりして教室を出た。
午後六時過ぎ。自宅のチャイムが鳴った。
「松山くん、いる?」
聞き覚えのある声がした。
ドアの向こうに遠野さん。会社帰りのようだ。
スカイブルーのニットセーターにグレーのスカート、黒のハイソックス。左手には、ピンクのリボンを結んだ赤い包装紙の箱。右手には、大きな紙バッグ。紙バッグの中に、ピンクの包装紙の箱が見える。
「ガトーショコラつくった!」
エエーッ、会社で配った義理チョコの余りなの? 義理チョコにしてはすごすぎる。
「彼氏につくったけど、材料が余ったからもう一個つくった。よかったら食べてくれるかな」
「ありがとうございます」
遠野さんからのプレゼント! 僕、素直に嬉しかった! 朝、もらってたら学校でさりげなく見せびらかしてたんだけれど……。
いけない! あまりにも考えが卑しすぎる。
「気にしないで。材料余ったから捨てるのも、もったいなくて、もう一個つくっただけ。 立派な箱に入ってるのを誤解しないでほしい。箱だけふたつ買って、どっちにしようかと考えてた。単純に余った箱、捨てるのはもったいないから、松山くんのために使った。 感謝されても困るから……」
遠野さんって、よく考えたら相当ひどいこと言ってます。
「味には自信ある。食べてくれる?」
「お風呂に入るとこだったんです。出てからゆっくりいただきます。 本当にありがとうございました」
「さてと! 彼氏と約束してるんだ。じゃあ」
遠野さんは階段を駆け下りて行った。
ガトーショコラの箱をテーブルに置いて、服を脱ごうとしたときだった。
突然、家の電話が鳴る。祖母からだった。
明日、帰ってくるという。駅前のスーパーに買い物を頼まれ、急いでジャンパー羽織って階段を駆け下りる。
なぜ? 彼氏との約束の場所へと急いでるはずの遠野さんが、目の前の自転車置き場に立っていた。
コート姿で、ものすごく寒そうに震えている。
「遠野さん」
声をかけたら跳び上がって驚いて、最後は着地でよろけた。
「なにしてるの? お風呂は?」
遠野さんったら、いきなりプライベートなことを聞いてきた。
「祖母から買い物に行くよう言われたんです」
「わたし、仕事の電話に出てただけ。 急がなきゃ! じゃあ」
テキパキ言って、僕の前から消えた。
ぜんぜん関係ない人の自転車の荷台に、彼氏へのガトーショコラが入った紙袋がそのまま残っている。僕は遠野さんの携帯番号を、一応教えてもらっていた。今日、初めてかけてみる。
「遠野さん。チョコ、忘れてますよ!」
しばらくすると低く沈んだ声がスマホから響いてきた。
「そのままにしておいて。すぐ取りに戻るから」
「急いでるんでしょう。僕、持っていきます。どこに持ってったらいいでしょうか」
親切のつもりだったけれど……。
「必要ないと言ってるでしょう! 松山くん。今すぐ、早く買い物に行きなさい! もう暗いから! 遅くなったら危ないでしょう。変な人いるかもしれないし……。さあ、早く!」
小学校の先生みたいなこと言われて、僕はひとりで駅前に向かった。
買い物が終わって帰って来たら、遠野さんの家の窓は真っ暗なまま。
自転車置き場に紙包みはなかった。
(彼氏のところ、まにあっただろうか?)
そんなこと考えながら自分の家に向かう。遠野さんの家の前を通ったときのこと。
なにかにぶつかったみたいな大きな音!
そして、
「イタタタ……」
悲しそうな声が家の中から聞こえて来た。どこかで聞いた覚えがあるけど、まさか遠野さんではないはず……。
だって彼氏のところにいる筈……。でもいまの声は確かに女性の悲鳴。
あわててドアチャイムを鳴らした。なにも返事はない。
それでもなんだか気になったんで、何回か押してみた。
悲しそうな声が聞こえることは二度となかった。
家に帰って入浴して、ゆっくりガトーショコラをいただいた。
心の中で、遠野さんにお礼を伝えた。
翌朝。いつもの通り、遠野さんと一緒に途中まで歩いた。
「ガトーショコラ、とってもおいしかったです。ごちそうさまでした」
「いいえ。それよりも……」
遠野さんったら、ものすごく深刻な顏を僕に向けてきた。どうしたのかしら?
「昨夜、テレビつけっぱなしで出かけた」
なんでそんなこと僕に話すのだろう。
「ごめんなさい。うるさかったでしょう」
遠野さんから頭を下げられ、僕はかえって恐縮しちゃった。
「いいえ。それよりガトーショコラ美味しかったです」
そうか! 昨夜の物音や悲しそうな声って、テレビの音声だったのか。僕、納得。
遠野さんは初めて笑顔を見せてくれたけれど、もう交差点。
「行ってらっしゃい」
僕はいつものように後ろ姿を見送った。
どうしたのだろう?今、気がついた。遠野さんったら、少し足引きずってた。
昨夜の物音に悲しそうな声。やっぱりもう一回、思い出しちゃった。
二月十四日の朝。
遠野さんと一緒に家を出たけれど、バレンタインの話なんか一言も出なかった。
推薦で高校に入ってからも、僕にとってのバレンタインは変わらない。
僕は机に座ったまま、一日中、ひたすら「忍」に徹した。
念のため、高校三年間のカレンダーを調べてみたけれど、二月十四日が土曜、日曜日になる年なんてなかった。
僕にとっての、高校一年の二月十四日はこうして終わった。
ふくれあがったトートバッグを肩から下げているクラスメイト。重そうな表情が、わざとらしい。なんて人間だ!
たった二個か三個のチョコレートを、スクールバッグに入れずに、わざわざ手に持って帰るクラスメイトもいる。なんかイヤだな~。
なにも興味ないふりして教室を出た。
午後六時過ぎ。自宅のチャイムが鳴った。
「松山くん、いる?」
聞き覚えのある声がした。
ドアの向こうに遠野さん。会社帰りのようだ。
スカイブルーのニットセーターにグレーのスカート、黒のハイソックス。左手には、ピンクのリボンを結んだ赤い包装紙の箱。右手には、大きな紙バッグ。紙バッグの中に、ピンクの包装紙の箱が見える。
「ガトーショコラつくった!」
エエーッ、会社で配った義理チョコの余りなの? 義理チョコにしてはすごすぎる。
「彼氏につくったけど、材料が余ったからもう一個つくった。よかったら食べてくれるかな」
「ありがとうございます」
遠野さんからのプレゼント! 僕、素直に嬉しかった! 朝、もらってたら学校でさりげなく見せびらかしてたんだけれど……。
いけない! あまりにも考えが卑しすぎる。
「気にしないで。材料余ったから捨てるのも、もったいなくて、もう一個つくっただけ。 立派な箱に入ってるのを誤解しないでほしい。箱だけふたつ買って、どっちにしようかと考えてた。単純に余った箱、捨てるのはもったいないから、松山くんのために使った。 感謝されても困るから……」
遠野さんって、よく考えたら相当ひどいこと言ってます。
「味には自信ある。食べてくれる?」
「お風呂に入るとこだったんです。出てからゆっくりいただきます。 本当にありがとうございました」
「さてと! 彼氏と約束してるんだ。じゃあ」
遠野さんは階段を駆け下りて行った。
ガトーショコラの箱をテーブルに置いて、服を脱ごうとしたときだった。
突然、家の電話が鳴る。祖母からだった。
明日、帰ってくるという。駅前のスーパーに買い物を頼まれ、急いでジャンパー羽織って階段を駆け下りる。
なぜ? 彼氏との約束の場所へと急いでるはずの遠野さんが、目の前の自転車置き場に立っていた。
コート姿で、ものすごく寒そうに震えている。
「遠野さん」
声をかけたら跳び上がって驚いて、最後は着地でよろけた。
「なにしてるの? お風呂は?」
遠野さんったら、いきなりプライベートなことを聞いてきた。
「祖母から買い物に行くよう言われたんです」
「わたし、仕事の電話に出てただけ。 急がなきゃ! じゃあ」
テキパキ言って、僕の前から消えた。
ぜんぜん関係ない人の自転車の荷台に、彼氏へのガトーショコラが入った紙袋がそのまま残っている。僕は遠野さんの携帯番号を、一応教えてもらっていた。今日、初めてかけてみる。
「遠野さん。チョコ、忘れてますよ!」
しばらくすると低く沈んだ声がスマホから響いてきた。
「そのままにしておいて。すぐ取りに戻るから」
「急いでるんでしょう。僕、持っていきます。どこに持ってったらいいでしょうか」
親切のつもりだったけれど……。
「必要ないと言ってるでしょう! 松山くん。今すぐ、早く買い物に行きなさい! もう暗いから! 遅くなったら危ないでしょう。変な人いるかもしれないし……。さあ、早く!」
小学校の先生みたいなこと言われて、僕はひとりで駅前に向かった。
買い物が終わって帰って来たら、遠野さんの家の窓は真っ暗なまま。
自転車置き場に紙包みはなかった。
(彼氏のところ、まにあっただろうか?)
そんなこと考えながら自分の家に向かう。遠野さんの家の前を通ったときのこと。
なにかにぶつかったみたいな大きな音!
そして、
「イタタタ……」
悲しそうな声が家の中から聞こえて来た。どこかで聞いた覚えがあるけど、まさか遠野さんではないはず……。
だって彼氏のところにいる筈……。でもいまの声は確かに女性の悲鳴。
あわててドアチャイムを鳴らした。なにも返事はない。
それでもなんだか気になったんで、何回か押してみた。
悲しそうな声が聞こえることは二度となかった。
家に帰って入浴して、ゆっくりガトーショコラをいただいた。
心の中で、遠野さんにお礼を伝えた。
翌朝。いつもの通り、遠野さんと一緒に途中まで歩いた。
「ガトーショコラ、とってもおいしかったです。ごちそうさまでした」
「いいえ。それよりも……」
遠野さんったら、ものすごく深刻な顏を僕に向けてきた。どうしたのかしら?
「昨夜、テレビつけっぱなしで出かけた」
なんでそんなこと僕に話すのだろう。
「ごめんなさい。うるさかったでしょう」
遠野さんから頭を下げられ、僕はかえって恐縮しちゃった。
「いいえ。それよりガトーショコラ美味しかったです」
そうか! 昨夜の物音や悲しそうな声って、テレビの音声だったのか。僕、納得。
遠野さんは初めて笑顔を見せてくれたけれど、もう交差点。
「行ってらっしゃい」
僕はいつものように後ろ姿を見送った。
どうしたのだろう?今、気がついた。遠野さんったら、少し足引きずってた。
昨夜の物音に悲しそうな声。やっぱりもう一回、思い出しちゃった。