「こんにちは」
「おかえり。わたし、松山くんのこと、待ってたんだ」

 えっ、どうして、どうして?

「これ」

 赤い包装紙にピンクのリボンの箱。教科書くらいの大きさだった。

「これ、チョコレート! 今日、バレンタインでしょう」

 ワワワッ? まさか、まさか……。驚き以外なにもない! 遠野さんはクールに笑う。

「仕事してるとね。人間関係、結構大変なの。彼氏に高級ブランドのチョコをプレゼントして、それから会社のみんなにはスーパーで買ったチョコ配って、これって結構な出費なんだ。上司と同僚が同じチョコではいけないしね」

 フーン、そうなんだ。僕はこのとき、複雑な社会のシステムを学んだ。  

「そうしたら上司のひとりがね。
『ワシは病気で甘いものは控えなければならん』
なんて直前に言い出してね。せっかくチョコを用意してたのに……」

 そんなことがあったのか? じゃあ、この豪華なチョコレートというのは、本来は上司に渡すはずだったチョコレート?
 
「かわりに松山くん、受け取ってくれない。ごめんなさい、余ったものを渡したりして……。でも松山くん。公立の桜花高校(おうかこうこう)に推薦が決まって東洋教育大学に一歩近づいたから、お祝いにはなるよね。ホワイトデーのお返しなんてしないで! そんな意味で渡すもんじゃないんだからね」
 
 会社に勤めるって、色々大変なんだ。
 帰って箱を開けてみたら、ゴディバのチョコレート! 
 ワワワッ、有名ブランドじゃない。  
 上司にこんなすごいチョコレートをあげるんだから、本当に会社に勤めるって大変なんだ。  
 何度も「いらない」と言われてたけれど、やっぱり僕、ホワイトデーに有名ブランドのマシュマロを渡した。  
 遠野さんに怒られないか心配だったけれど、ちゃんとお礼を言って受け取ってくれた。
 これがきっかけ。  
 僕は学校。遠野さんは会社。朝、一緒にコーポを出て、途中まで一緒に歩くようになった。  
 最初の信号交差点までだから、五分にもならない。  
 僕が家を出る頃に、ドアチャイムが鳴る。  
 最初のうち、遠野さんは、

「学校行く? わたしも家出るから、途中まで一緒に行かない」

と、さりげなく語りかけてきた。  
 そのうち、チャイムが鳴ったらすぐに僕が家を出るのが習慣になった。  
 歩きながらいろんなこと話した。  
 昨日見たテレビのこととか、学校のこととか、会社のこと。お互い、二言くらい話したら、すぐに信号に着く。  

「じゃあね」

 僕はそのまま信号をまっすぐ渡り、遠野さんは右へ曲がる。  
 それから先、僕は、ひとりぼっちで学校に向う。  
 それが当たり前の日常になった。    
 一度、遠野さんったら変なこと言った。
 
「わたしたちふたりね、どう見えるだろうか?」

 えっ? そんなこと僕に質問されても困っちゃう。

「親子ということは絶対ないと思うけど……」

 こういう場合、僕はなんと答えたらよろしいんでしょうか?

「やっぱり姉弟だろうか」

 僕はどうしても答えられない。だってね。 
 たぶん……いえ、どう見たって……第三者が見たら「姉弟」と思うのは、ぜったいムリじゃないかと思います。

「どう思う?」

 遠野さんったら、わざわざ僕に話を、ふるんだもん。

「よく分からないですけど、母が僕を産んだのって十九歳のときでした」

と答えておいた。
 全然、答になってない?
 遠野さんは、なにも言わなかった。ちょうど信号まで来た。そのまま遠野さんは、なにも言わずに右へ曲がった。

「行ってらっしゃい」

 僕が呼びかけたら、思い出したようにあわててこちらを向いて、

「行ってらっしゃい」

と答えた。アレレ、なんだかムッとした表情に見える。それにすぐ背中を向けた。  
 こんな具合に、たまに緊張したこともあったんだ。