日曜日の朝、副都心線。左手の掌に「卓球」と3回書いて飲み込むおまじないをもう何セットもアッキーは繰り返している。隣の座席、向かいの座席の大人たちはアッキーを怪訝な目で見ている。
ジャージから覗く腕は、左と右とで太さが違う。左手をずっと見ていたアッキーは右手と見比べ始めた。右手はマメが何度も潰れて治って、皮が固くなっている。
「次は、西早稲田」
車内放送にはっとしたアッキーは右手をぎゅっと握りしめた。
「よしっ」
右手首に視線を映して、覚悟したように呟く。そうだよ、アッキーなら大丈夫だよ。
アッキーは荷物を担ぐと、電車を降りようとした。誰かにぶつかったわけでも、どこかに腕を引っ掛けたわけでもないのに、「それ」は突然起こった。
「あっ」
アッキーが小さな声をあげると同時に、扉が閉まった。僕とアッキーをドアが隔てる。電車が動き出した音に掻き消されてしまったけれど、アッキーが軽やかに地上への階段を駆け上がっていく音が聞こえた気がした。
僕を乗せて、副都心線は走り続ける。僕はアッキーとの日々を思い返していた。
本名が秋沢だからアッキー。卓球部の部長として、みんなに慕われている。今日は都大会の日。去年の雪辱を果たすとアッキーは意気込んでいた。戦場は新宿スポーツセンター。そろそろアッキーは会場に到着して部活のみんなと合流した頃かな?
電車が渋谷駅に止まった。きらびやかな格好の女子高生たちが次々と降りていく。カラオケに行くのかな?映画に行くのかな?
アッキーが遊んでいるところは見たことがない。ストイックに練習ばかりしていた。アッキーは青春の全てを卓球にかけてきた。朝も昼も夜も、日曜日も、友達や同世代のみんなが遊んでいる間もずっと。
学生たちが羽を伸ばす日曜日の大都会の真下を、僕を乗せた地下鉄が走る。今日、この電車は日常の笑顔と非日常の戦いの町を何往復するのだろう?乗り換え表示の隣の画面は、楽しげなイベントの車内広告を映す。当たり前だけれども、残念ながら卓球の都大会の中継は映してくれない。
僕がそわそわしてどうするんだよ、と自嘲する。同時に、アッキーが緊張していないか心配になる。アッキーがいつものアッキーでいてくれますように。練習の成果を出し切れれば、きっと勝てるから。
午後、電車が再び西早稲田駅に着いた。すでに敗退した選手たちが次々と電車に乗り込む。強豪校の制服を着た人たちもいて、勝負の世界の残酷さを目の当たりにする。その中にアッキーの姿がないことにほんの少しだけほっとした。
「あんなスマッシュ打たれたらどうしようもないよ。あれでノーシードってどういうこと?」
「あの子強かったよね、あの子の3回戦の敗者審判してたんだけど、サーブも回転が凄すぎてびっくりした」
ドアに寄り掛かった2人が試合を振り返っている。番狂わせがあったらしい。熾烈な勝負が今も繰り広げられているのだろう。
「あの秋沢って子、優勝するかもね」
アッキーは勝ったんだ。勝ち進んでいるんだ。声にならない声で歓喜の雄叫びを挙げて、心の中でガッツポーズをする。
やがて、電車は本日幾度目かの地上へと顔を出した。窓から真っ赤な夕日が差し込む。和光市駅に到着した。
学生が次々と乗り込み、車内に制汗剤の香りが充満する。一人の男子高生が半開きのスポーツバッグをドサっと床に置いた。ファスナーの隙間からは卓球のラケットケースが覗いていた。数人の女子高生は、卓球モチーフのおそろいのキーホルダーを鞄につけていた。
奇しくも今日、和光市総合体育館では埼玉県大会が行われていたらしい。金色のトロフィーを抱えた選手が友達と嬉しそうに話している。そのグループの1人が、スマートフォンをいじりながら報告する。
「東京も優勝決まったみたいだよ。秋沢って人が勝ったらしいけど、知ってる?」
思わず飛び上がりそうになった。遠い町からアッキーに声の限りに届けたい。おめでとう、アッキー。よく頑張ったね。
「聞いたことないなあ。どこの学校の人?でも、誰が相手でも関東大会も絶対優勝するよ」
いかにも王者の風格を放ちながら宣言するその人に、周りは拍手喝采だ。電車内での盛り上がりを嗜めるように、近くの大人が咳払いをする。彼らは慌てて声のトーンを落とした。小声にはなったものの、彼らの礼賛の声はやまない。全員が埼玉の覇者が関東大会でも華麗に優勝を飾ると信じている。
でも、この車両で僕だけはアッキーがこの名も知らない誰かに勝つと心の底から信じている。だって、アッキーの目標は都大会でも関東大会でもない。
おまじないが大好きなアッキーはミサンガに願いをかけた。去年の大会で負けて、誰にも知られずひっそり泣いた夜のことだった。
「全国大会で優勝できますように」
ミサンガは切れた時に願いが叶うというけれど、普通は2年くらいかかるものだ。でも、アッキーは違った。激しい運動を日常的にしている場合は摩擦で切れやすくなるらしい。
あの日からわずか1年の今朝。アッキーが電車を降りようとしたとき、プツンと自然に切れた。オレンジと赤の願いの結晶は、はらりと舞って電車の床に落ちた。アッキーはそれに気づいてホームから後ろを振り返る。僕が最後に見たアッキーは笑っていた。
僕はミサンガ。僕が切れるまで毎日一生懸命練習していたアッキーの夢は絶対にかなうよ。
ジャージから覗く腕は、左と右とで太さが違う。左手をずっと見ていたアッキーは右手と見比べ始めた。右手はマメが何度も潰れて治って、皮が固くなっている。
「次は、西早稲田」
車内放送にはっとしたアッキーは右手をぎゅっと握りしめた。
「よしっ」
右手首に視線を映して、覚悟したように呟く。そうだよ、アッキーなら大丈夫だよ。
アッキーは荷物を担ぐと、電車を降りようとした。誰かにぶつかったわけでも、どこかに腕を引っ掛けたわけでもないのに、「それ」は突然起こった。
「あっ」
アッキーが小さな声をあげると同時に、扉が閉まった。僕とアッキーをドアが隔てる。電車が動き出した音に掻き消されてしまったけれど、アッキーが軽やかに地上への階段を駆け上がっていく音が聞こえた気がした。
僕を乗せて、副都心線は走り続ける。僕はアッキーとの日々を思い返していた。
本名が秋沢だからアッキー。卓球部の部長として、みんなに慕われている。今日は都大会の日。去年の雪辱を果たすとアッキーは意気込んでいた。戦場は新宿スポーツセンター。そろそろアッキーは会場に到着して部活のみんなと合流した頃かな?
電車が渋谷駅に止まった。きらびやかな格好の女子高生たちが次々と降りていく。カラオケに行くのかな?映画に行くのかな?
アッキーが遊んでいるところは見たことがない。ストイックに練習ばかりしていた。アッキーは青春の全てを卓球にかけてきた。朝も昼も夜も、日曜日も、友達や同世代のみんなが遊んでいる間もずっと。
学生たちが羽を伸ばす日曜日の大都会の真下を、僕を乗せた地下鉄が走る。今日、この電車は日常の笑顔と非日常の戦いの町を何往復するのだろう?乗り換え表示の隣の画面は、楽しげなイベントの車内広告を映す。当たり前だけれども、残念ながら卓球の都大会の中継は映してくれない。
僕がそわそわしてどうするんだよ、と自嘲する。同時に、アッキーが緊張していないか心配になる。アッキーがいつものアッキーでいてくれますように。練習の成果を出し切れれば、きっと勝てるから。
午後、電車が再び西早稲田駅に着いた。すでに敗退した選手たちが次々と電車に乗り込む。強豪校の制服を着た人たちもいて、勝負の世界の残酷さを目の当たりにする。その中にアッキーの姿がないことにほんの少しだけほっとした。
「あんなスマッシュ打たれたらどうしようもないよ。あれでノーシードってどういうこと?」
「あの子強かったよね、あの子の3回戦の敗者審判してたんだけど、サーブも回転が凄すぎてびっくりした」
ドアに寄り掛かった2人が試合を振り返っている。番狂わせがあったらしい。熾烈な勝負が今も繰り広げられているのだろう。
「あの秋沢って子、優勝するかもね」
アッキーは勝ったんだ。勝ち進んでいるんだ。声にならない声で歓喜の雄叫びを挙げて、心の中でガッツポーズをする。
やがて、電車は本日幾度目かの地上へと顔を出した。窓から真っ赤な夕日が差し込む。和光市駅に到着した。
学生が次々と乗り込み、車内に制汗剤の香りが充満する。一人の男子高生が半開きのスポーツバッグをドサっと床に置いた。ファスナーの隙間からは卓球のラケットケースが覗いていた。数人の女子高生は、卓球モチーフのおそろいのキーホルダーを鞄につけていた。
奇しくも今日、和光市総合体育館では埼玉県大会が行われていたらしい。金色のトロフィーを抱えた選手が友達と嬉しそうに話している。そのグループの1人が、スマートフォンをいじりながら報告する。
「東京も優勝決まったみたいだよ。秋沢って人が勝ったらしいけど、知ってる?」
思わず飛び上がりそうになった。遠い町からアッキーに声の限りに届けたい。おめでとう、アッキー。よく頑張ったね。
「聞いたことないなあ。どこの学校の人?でも、誰が相手でも関東大会も絶対優勝するよ」
いかにも王者の風格を放ちながら宣言するその人に、周りは拍手喝采だ。電車内での盛り上がりを嗜めるように、近くの大人が咳払いをする。彼らは慌てて声のトーンを落とした。小声にはなったものの、彼らの礼賛の声はやまない。全員が埼玉の覇者が関東大会でも華麗に優勝を飾ると信じている。
でも、この車両で僕だけはアッキーがこの名も知らない誰かに勝つと心の底から信じている。だって、アッキーの目標は都大会でも関東大会でもない。
おまじないが大好きなアッキーはミサンガに願いをかけた。去年の大会で負けて、誰にも知られずひっそり泣いた夜のことだった。
「全国大会で優勝できますように」
ミサンガは切れた時に願いが叶うというけれど、普通は2年くらいかかるものだ。でも、アッキーは違った。激しい運動を日常的にしている場合は摩擦で切れやすくなるらしい。
あの日からわずか1年の今朝。アッキーが電車を降りようとしたとき、プツンと自然に切れた。オレンジと赤の願いの結晶は、はらりと舞って電車の床に落ちた。アッキーはそれに気づいてホームから後ろを振り返る。僕が最後に見たアッキーは笑っていた。
僕はミサンガ。僕が切れるまで毎日一生懸命練習していたアッキーの夢は絶対にかなうよ。