最寄りのバス停に着いたバスから降りて、鞍馬くんと一緒に学校までの道のりを歩く。
 学校に近づくにつれ、登校する生徒の姿がちらほらと見えてきた。私はその光景を見て、鞄を持つ手に力が入った。
 私みたいな普通の女子がイケメン高身長男子と歩いているところを注目されたらどうしよう。
 そんな不安は杞憂に終わらず、心配していたことが実現してしまった。
 さっきから私たちの横を通り過ぎていく生徒が鞍馬くんのことを二度見して登校していく。
 こちらに視線を向け、顔を寄せ合って何かを話している女の子たちもいる。
 注目されることが苦手な私からしたら、この状況はかなり耐え難かった。

「それじゃあ俺、職員室行かないといけないから」

 学校に着き、真新しい上履きに履き替えた鞍馬くんがちょうど上履きを履き終えた私にそう声をかけた。

「うん、分かった。じゃあね」

 鞍馬くんの去っていく後ろ姿を数秒眺めて、私は自分の教室に向かった。

 ❆

 教室では登校してきたクラスメイトたちがそれぞれグループになって楽しそうに話している。
 私は荷物を置いて今日の時間割に沿って教科書を机の引き出しに入れ、友達が二人で話しているところに行く。

「でさー、昨日お父さんが急にダイエット始めるとか言い出してさ。ユーチューブ見ながら何したと思う?」
「え、普通に筋トレとかじゃないの?」
「ノンノン、実はね、まさかの踊り始めたの!」
「えっ、あははっ。何それ面白すぎるんだけど」

 なかなか会話に入るタイミングが掴めなくて、私はぎこちない表情を浮かべながらやっと二人に挨拶をした。

「おはよ~」

 私に視線を向けた二人は、「おはよう」と返してくれた。でも、それで会話は終了。
 自分から引き出せる面白話なんて私にはなくて、二人が話している会話を黙って聞いていた。
 自分の席に戻り、机の上に一時間目の教材を並べていると、一番仲の良い葵が話しかけにきてくれた。

「夕夏~、おはよ」
「おはよう」

 私は笑顔でそう返す。

「昨日私何時に寝たと思う?」

 眠そうに目を擦りながらそう質問してくる知夏(ちなつ)を見れば答えは明解だ。

「どうせまた三時くらいに寝たんでしょ」
「うん正解~! てか今日一時間目何?」
「えっとね、古文だよ」
「えー古文かあ。でもまあ、内職できるから良いね」
「もしかして数学の宿題終わってないのー?」

 私はほぼ分かりきった上でそう訊く。知夏はうんと頷いた。
 何気ない会話を交わしていると、担任が教室に入ってきて、皆それぞれ席に着いていく。

「今日は皆さんに紹介したい子がいます」

 担任の葉月(はづき)先生の言葉に、クラス内がわっと湧いた。

「鞍馬くん、入ってきて」

 先生が手招きすると、教室の前方扉から身長の高い鞍馬くんが姿を現す。
 私はそこで初めて、鞍馬くんと自分が同い年だったことを知った。
 クラスメイトたちのざわめきはより一層大きなものになる。クラスの女子生徒たちが黄色い歓声を上げ、鞍馬くんのことを恋する乙女のような視線で見つめていた。
 教卓の真横に立った鞍馬くんは、黒板に端正な文字で自分の名前を書いていく。そうして向き直り、教室全体を見渡して言った。

「えーっと、色々あってこの高校に編入することになりました。鞍馬絢斗です。今日から何かと迷惑をかけるかもしれませんが、ぜひ仲良くしてくれると嬉しいです」

 鞍馬くんはそう言い終わった後、口角を上げて爽やかに微笑んだ。
 その笑顔にきっとクラスの大半の女子が恋に落ちたんじゃないかと思うほど、客観的に見ても鞍馬くんは格好良かった。

「それじゃあ、鞍馬くんの席は篠田さんの隣の席になります。鞍馬くん、自己紹介ありがとう」

 鞍馬くんは先生に頭を下げて私の方に近づいてくる。隣の席に荷物を置く音が聞こえた後、鞍馬くんが他の誰にも聞こえない声で、無邪気な笑みを浮かべて言った。

「やったね、夕夏の隣ゲット」

 ❆

 一時間目から四時間目までを受け終えて、昼休みに入った。鞍馬くんは毎休み時間ごとに沢山の人に囲まれ、忙しそうにしていた。
 鞍馬くんは大変だろうけど、みんなの前で話しかけられる心配がなかったから私としては安心だ。
 私は普段仲良くしている三人と、それと未だに仲良くする方法が分からない宮崎さんと一緒にお弁当を食べる。私たちはいつも二つの机をくっつけて、そこで五人椅子を寄せ合って昼食をとっているのだ。
 昼食をとり終わると、今度は女子トークに入った。そこでは鞍馬くんの話も出てきたりして、私は少しドギマギしてしまったけれど、上手くそれを隠す。
 トーク力満載の知夏の話に笑い、時折自分の話もしながら昼休みを終えた。
 放課後になると、私はそのまま部室に向かわなければいけない。隣の席の鞍馬くんに話しかけられる前に席を立ち、帰りの準備をしている知夏の所に行く。
 そこには由紀(ゆき)ちゃんことゆっきーと理沙(りさ)ちゃんがいた。私は鞄を持って三人の元に行く。

「私、部活行ってくるね」
「おー、行ってらっしゃい。頑張ってね!」
「頑張ってね~」
「お、頑張れー」

 そう言うと、知夏、ゆっきー、理沙ちゃんがそれぞれに応援の言葉をかけてくれる。私はそんな言葉たちにやる気と元気をもらって、笑顔で頷いた。

「うん、ありがとう! 行ってくるね」

 みんなに見送られ、私は一人先に部室に向かった。
 部室に入ると、そこには先客がいた。澤矢爽汰(さわやそうた)先輩だ。

「あ、夕夏ちゃん。今日も早いね」

 ちょうど胸の位置に胸当てを付け終えた先輩が朗らかに微笑んでそう言った。

「あ、はい……今日は先輩に先を越されましたけど」

 人気者の先輩と二人きりだという状況がなんだか気まずくて、私は目を逸らして呟いた。

「ははっ。なんか悔しそうだね」
「べ、別に悔しくはないです! 私、着替えてきますので!」

 声を荒げる私を見て先輩はまた声を上げて笑い、たくさんの弓矢が立てかけてある所から自分の矢を取り、さっそく練習に入った。
 すぐに着替えに行くつもりだった私だけど、澤矢先輩の背中に目を向けて思わず立ち止まってしまう。
 まっすぐと背筋を伸ばし、真剣な表情で弓を引く先輩は、冗談抜きで本当に美しかった。
 先輩が放った弓矢がまっすぐな直線を描き、的の真ん中目掛けて飛んでいく。
 バンっと的に矢が刺さる音が二人きりの弓道場に響いた。

「そんなに見つめられると、恥ずかしいんだけど……」

 先輩は照れたように頬を掻き、私を振り返った。
 見てたこと、バレてたのか。

「っあ、ごめんなさい! 先輩が、とても美しくて……」

私は慌てて謝り、馬鹿みたいに本音をこぼした。

「え……?」

 先輩は目を見開いて私を見ている。
 あ~っ、もう! 私ったら何口走ってるのよ!
 口を押さえて、穴があったら今すぐに入りたいという羞恥に駆られた。

「あっ、嘘です、いや、嘘じゃないんですけど……でもっ!」

 必死に弁解しようとする私を先輩は未だに驚いた表情で見つめていたけれど、やがて表情を変え、「あははっ」と弾けるように笑った。
 うん、ここまできたら引かれるよりは笑われた方がよっぽど良い。
 私は自分にそう言い聞かせ、顔を真っ赤にしながら更衣室に入った。
 袴に着替えて弓道場に戻り、自分の弓と弓矢を手に取って先輩の隣に並ぶ。
 お互い無言で弓を引いていると、部活仲間たちが次々と部室に入って来る。

「お~、さすが全日本弓道大会の代表選手たち~。絶対に優勝勝ち取ってくれよな!」

 弓道部の部長である(たちばな)先輩が大股で近づいてきて、私と澤矢先輩の背中をバシンと叩く。
 相変わらず力の強い人だ。

「先輩、痛いですって……。でも、まあ、大会までの練習期間、一生懸命頑張ります」

 自分より頭三つ分ほど身長の高い橘先輩を見上げ、そう言った。

「ああ、まじで応援してるぜ」

 橘先輩はそう言ってガッツポーズをして見せた。真面目なのかふざけているのかいまいちよく分からないけど、まあいい。

「ほら、橘くん。そこにいたら夕夏ちゃんが練習再開できないから早く着替えてくれば?」

 澤矢先輩が爽やかスマイルで結構辛辣なことを言う。橘先輩は見事にその言葉にダメージを受け、「お、おう……了解したぜ」と男子用の更衣室に去って行った。
 部活が本格的に始まると、先輩が後輩に弓矢を引く時の基本的事項を教えたり、各自練習したりする。
 集中して弓矢を放ち続けていると、いつの間にか部活終了の時間になっていた。

 制服に着替え、部室から出ると、そこには思いがけない人物がいた。

「あ、夕夏」
「……鞍馬くん? そこで何してるの?」

 私は目をまん丸くさせたまま硬直してしまった。

「何してるのって、もちろん夕夏を待ってたんだよ」

 動けないでいる私に近づいてきて、スマートな仕草で私の部活鞄を手に取った鞍馬くんはにこっと微笑んだ。
 いや、何がにこっ、だよ! 絶対笑うとこじゃないでしょ。

「……私、弓道部に入ってるって言ってないよね?」
「うん、そうだね」
「じゃあ、どうして部室の前で待ってたのかな」
「どうしてだろうね?」

 鞍馬くんは私をからかうように小首を傾げ、口角を上げた。
形の良い唇が綺麗な弧を描いている。
……きれい、じゃなくて!

「鞍馬くん、ちゃんと弁明しないと私本当に怒るよ」
「わ、分かったよ。クラスの子に訊いたら教えてくれたんだ。だから、夕夏が部活終わるまで待ってようと思って待ってたの」

 鞍馬くんは至極当然と言わんばかりの表情でそう言った。
 悪意ゼロの笑顔を目の前にして、私は対話をする自体を諦めた。

「……はあ、分かった。もういいよ」

 小さくため息を吐いて、昇降口に向かって歩き出す。
 私が大股で足早に歩いても、足の長い鞍馬くんにはすぐに追いつかれてしまう。
 そんな些細なことにイラッとして、私は歩くスピードを格段に速めた。
 外に出ると、遥か上空からまばらに雪が降っていた。
 私は鞄から折り畳み傘を取り出し、開く。何気なく鞍馬くんの方を見ると、空を見上げて立ち止まっていた。

「……鞍馬くん、そこで立ち止まってどうしたの?」

 鞍馬くんを置いて先に行くメンタルの強さは持ち合わせていなくて、私はそう訊ねてしまう。

「あ、ああ。俺、傘持ってないからどうしようかなあって思ってたとこ」

 鞍馬くんは私に目を向け、苦笑いを浮かべた。
 私は次の返事をするまでに必死に頭を回転させ、あることをしぶしぶ提案してみることにする。

「……、私の傘、小さいけど鞍馬くんも入る?」

 そう言った瞬間、恥ずかしさのあまり顔に熱が集まるのが分かった。幸い、辺りはもうすっかり真っ暗だったから気づかれる心配はなかった。

「えっ、いいの?」

 学校の昇降口から漏れ出るわずかな光が鞍馬くんの驚いた顔を照らしている。

「……う、うん。鞍馬くんが明日風邪でも引いて私のせいになるってのが嫌だからね」

 本当は違う。そんな捻くれた考えなんてなく、ただ不思議と親切心で提案しただけ。

「そっかあ~、そういう理由か。まあ、納得納得。恥ずかしがり屋な夕夏が自分から相合傘しようって提案してくるなんてありえないもんね」

 っ、あ、相合傘⁉ それに、何知ったような口利いてるの……! 意味が分からないよ……。
 鞍馬くんの口から発せられたワードに脳内がパニックになったけれど、私はなんとか平静心を取り戻して半ば強引に鞍馬くんの手に傘を押し付けた。

「……ふふっ、相変わらずツンデレさんだなあ」

 鞍馬くんは楽しそうに笑った。若干イライラしていた私はその言葉を聞き流した。私より身長の高い鞍馬くんの持つ傘の下に立って、バス停へ向かって歩き出す。
 するとパラパラと傘の上に雪が落ちる音が頭上から聞こえてくる。
 ──あ、(あられ)だ。
 私は思わず傘の外に手を伸ばして、霰を手のひらで受け止めた。

「何してるの?」

 鞍馬くんが不思議そうな顔で訊く。

「雪霰か氷霰、どっちなのか確かめたくて」

 冷たくて少し固い霰は、スマホの光に照らしてみると半透明に艶めいた。

「あ、氷霰(こおりあられ)だ」

 私は思わず微笑んでしまう。
 隣から私の手元を覗く鞍馬くんは、驚いたような声を上げた。

「うおっ、綺麗」

 そこで初めて、私は鞍馬くんとの距離の近さを自覚した。

「……っ、鞍馬くん、ちょっと近い」
「あ、ごめん!」

 鞍馬くんはすぐに顔を上げて私から離れた。離れたと言っても、お互い傘の中にいるから距離はあまり変わっていないけれど……。
 それとは別に、私は少し驚いたことがあった。

「……やけに素直だね」
「いや、だって、夕夏に嫌われたくないし。鬱陶しい男だって思われたくないから」

 その言葉を聞いて、私は思わず「っふ、」と吹き出した。私が笑うと、鞍馬くんは「えぇ、何!?」と慌てた。

「ふふっ、だって、初対面で告白してきた人がそんなこと言うなんて。それに鞍馬くん、気づいてないと思うけどもう十分鬱陶しいと思うけど?」

 私はくつくつと肩を震わせながら二人の間にそんな爆弾を落とした。鞍馬くんはその言葉に軽くショックを受けた顔になるけれど、私が本気で言っていないことが分かったのか表情を和らげた。
 バス停に着くと、まるで私たちがここに来るのが分かっていたかのように帰りのバスの明かりが見えてきた。

「お、グッドタイミング」

 隣で鞍馬くんが嬉しそうに言う。私もその言葉に頷いた。鞍馬くんに続いてバスに乗り、一番後ろの長シートに二人肩を並べて座った。
 男の子とで同じ一つの傘に入るのも、バスで隣に座るのも私には初めての経験で、やけにドキドキしてしまった。
 だけどこれは、恋に落ちたとかそういうことじゃない。絶対に違う。
 自分に言い聞かすように、私は心の中でそう唱え続けた。

 ❆

 12月2日 89/90

 火曜日の朝。私はおばあちゃんと一緒に雪かきならぬ霰がきをしていた。昨日の夜のうちに降り積もった霰は塊になるとより固くなり、シャベルで道を作るのが大変だった。

「ゆうちゃん、お疲れ様」

 家の中に戻ってこたつで暖を取っていた私に、おばあちゃんが温かいお茶を淹れてくれた。
 おばあちゃんから差し出された湯呑みを受け取り、お礼を言う。

「ありがと、おばあちゃん」

 ふーふーとお茶に息を吹きかけて飲みやすい温度にして、こくりと舌で味わって飲む。飲み終わったら、私は湯呑みを手におばあちゃんがいる台所に行く。

「おばあちゃん、朝ごはん作るの手伝うよ」

 卵焼きを焼いていたおばあちゃんにそう声をかける。

「あらゆうちゃん。いいんだよ、これはおばあちゃんの仕事だからね」

 おばあちゃんは優しい笑みを浮かべてやんわりと断るけれど、私は気にせず冷凍庫から魚を取り出した。
 袋から取り出し、コンロに私とおばあちゃん二人分の魚を並べて焼き始める。

「ゆうちゃん、本当にありがとうねえ」
「ううん、これくらいどうってことないよ」

 私は少し照れくさくなって、おばあちゃんから視線を逸らした。
 朝ご飯を食べ終わり、重い部活バッグを肩にかけて家を出る。今日もおばあちゃんの温かな笑顔に見送られて、ほっと安心して登校できた。

 ❆

「ねえねえ夕夏、夕夏ってば」

 教室の窓際の席には、ムスッとした顔の私と、子犬のように尻尾を振ってさっきからずっと私に話しかけてくる鞍馬くんがいる。
 クラスメイトたちは好奇の目を私たちに向けている。
 この状況からどう抜け出そうか必死に頭を悩ませて考えるけれど、何も浮かんでこない。

「……何」
「っあ! やっと返事した」

 私が一言発しただけで嬉しそうに笑う鞍馬くんに冷たい視線を送る。

「ねえ鞍馬くん。君は一体何がしたいのかな。私が困ってるって分からない?」
「ご、ごめん。それは気づいてなかった」
「やっぱり。それで、何?」

 冷たく接しようと思っている訳ではないけれど、自然と口調が鋭いものになるのは仕方ないことだろう。
 だって、貴重な十分間の休み時間を好きに過ごさせてくれないんだから。

「今日も夕夏の部活が終わるまで待ってていい?」

 鞍馬くんは首を傾げて愛嬌たっぷりに訊いてきた。

「……鞍馬くんがそれでいいなら別にいいけど」
「やった! 俺、それまで図書館で勉強しとくね」
「あ、ああ……うん」

 謎の報告を告げられて、返事に困った私は一応頷いておいた。
 昼休みに入り、いつものように友達と机を囲んでお弁当を広げていると、千夏が開口一番に訊いてきた。

「ねね、夕夏と鞍馬くんってさ、どういう関係なの?」

 興味津々な千夏に、私はお弁当箱を開けようとしていた手を止めて、息が詰まった。

「ええっと、……なんて説明すればいいのかな。とにかく鞍馬くんが一方的に話しかけてきてる状況だから、友達ではない、かな」
「ごほっ……! んっ、んん! それってさ、つまり鞍馬くんは夕夏に気があるってこと?」

 私がそう言うと、お弁当を食べていた理沙ちゃんがいきなりむせて、私に問いかけてきた。

「え⁉」

 核心を突かれた私は思わず大声で叫んでしまう。クラスにいたクラスメイト達が一斉に私の方に視線をやったから、いたたまれなくなって顔を俯けた。

「その可能性濃厚だね」

 私の目の前に座っていた由紀ちゃんがにやりと笑った。

「そ、そんなことないよ。きっと私が鞍馬くんのお隣の席なのと、暇だから話しかけてくるんだと思う」

 昨日の朝、出会ってすぐに鞍馬くんに告白された時の情景が脳裏に浮かんで、私は必死にそれをかき消した。

「ふうん、本当にそれだけが理由なのかな~」

 千夏が楽しそうに私を見やる。
 もう、みんなして私をいじめて酷いよ……。
 穏やかな昼食時間になるはずが、話題は私と鞍馬くんの恋バナへと進展していって、止めることができなかった。
 なんでこう、女子って恋バナが大好きなのかな……。
 昼休みが終わる五分前、トイレに行こうと席を立った私は辟易とした気持ちでそう思った。
 トイレの個室に入り、用を足して出ようとした時、

「なんかさー、篠田さんってちょっと理解できないよね」
「え、まじ分かる~。あんなにかっこいい鞍馬くんに話しかけられて表情一つ変えないなんて、普通におかしいいでしょ」

 と、女子二人のただならぬ雰囲気を纏った会話が聞こえてきた。
 話題が話題だから、出ようにも出れず、私はその場で固まってしまう。

「うち、鞍馬くんにアピールしようと思ったのに、なんか篠田さんにばっか話しかけるからさー」
「えそれな~。もしかして、鞍馬くん篠田さんのこと好きなんかな」
「いや、さすがにないでしょそれは。あの二人じゃ釣り合わなさすぎるし」

 顔から血の気が引いていくのが分かる。
 耳をふさぎたくなるような会話だけど逃げ場はなく、私はただ二人がトイレから出て行くまで耐えるしかなかった。
 普通はこうでしょ、と自分たちの常識を押し付けられて、わざわざ言わなくてもいいことを言われて。
 私の心は今、深く傷ついている。
 それにあの二人の女子生徒が誰なのか、声だけで分かってしまった。
 私のクラスメイト、教室の一軍女子。たまに話題がかみ合って仲良く話していた女子たち。
 あの笑顔の裏で、本当は私に対してこんな風に思っていたなんて……。
 恐る恐る個室から出て、暗い気持ちで手を洗い、教室に戻った。
 私は俯きがちに自分の席に戻る。あの二人に見られていたらと思うと謎の恐怖心を抱いてしまう。

「あ、夕夏帰ってきた! って、どうした……?」

 涙目になっているところを鞍馬くんに見られて、私はすぐに視線を逸らした。そのまま何も返事をせずに椅子に座り、鼻をすすって窓の外を見た。

「ねえ、夕夏……、」
「ごめん、鞍馬くん。お願いだから今は話しかけないで」

 きっと鞍馬くんは私の声が鼻声だったことに気づいただろう。それでも私は強がって、鞍馬くんを冷たく突き放した。

 ❆

 部活終わり、部室から出るとそこには鞍馬くんの姿はなかった。
 そのことにほっとして胸を撫でおろした私は、そのまま昇降口に向かう。
 今日あった嫌なことはなるべく考えないようにして、私は部活中ひたすら弓矢を放ち続けていた。
 それでもやっぱり、集中する何かが終われば今日のトイレでのことを思い出しては気分が落ち込んでしまう。
 他人からの評価何てどうでもいい。
 そう言い切れる強さがあったならどれだけ良かっただろう。
 私みたいにくよくよ悩まないで、他人からどんなことを言われても元気でいられる人がうらやましい。
 私がその人と同じようにできないのはきっと──

「夕夏……!」

 靴を履き終え、昇降口の外に出ようと足を向けたところで、背後から声がかかった。
 振り向いて見てみると、そこにはいないはずの人がいて、私は目を見開いた。

「鞍馬、くん?」

 戸惑う私をよそに、鞍馬くんは急いで上履きから外履きに履き替え、私の元に駆け寄ってきた。

「よかった、間に合った。弓道部の部室に行ったらもう帰ったよって言われて焦った」

 急いで走って来たのだろう。鞍馬くんの肩が上下に揺れている。

「なんで、……いや、そう言えば待ってるって言ってたね」

 私は曖昧な笑みを浮かべてそう言った。
 今日の昼休みにあんなに冷たい態度を取ったのに、どうして鞍馬くんは変わらず普通に話しかけてくるんだろう。

「うん。でもまあ、本当に待ってていいのか迷ったけどね」

 鞍馬くんは今日の昼休みを思い出すようにそう言って、苦笑いを浮かべた。

「そう、だよね……。今日の昼休み、冷たくしちゃってごめん」

 ずっと心残りだったことを言えて、肩の荷が下りたような気がした。

「そんな、全然! 夕夏が謝ることじゃないよ。俺の方こそ、夕夏のこと考えずに一方的に話しかけすぎちゃってごめん」

 靴を履き終えて、私の隣に並んだ鞍馬くんはパチンと両手を合わせて謝ってきた。

「……いいよ。でも明日からは、話しかけるのもほどほどにしてほしいかも、です」

 本音を言うことには慣れてなさすぎて少し噛んでしまったけれど、言えた。

「うん、分かった。そうする!」

 鞍馬くんが明るく受け取ってくれるから、私は気負わずに済んだ。
 学校にいる間に降り積もった雪の上に一歩踏み入れると、ザクッという雪の感触がした。
 雪雲はどこかへ過ぎ去り、今日は雲一つない夜空が広がっている。

「今日は夕夏と相合傘できないのかー。残念」
「……何言ってるの鞍馬くん」

 夜道を歩きながら鞍馬くんがそんなことを言うから、私は驚きと呆れが混ざった声で呟いた。
 昨日と同じように二人で下校し、いつものバス停で降りて別れた。

 ❆

 12月3日 88/90

 今日はバス停に鞍馬くんの姿はなかった。
 特に気にするわけでもなく私はバスに乗り込み、学校に向かう。
 ショート丈のレインブーツが地面に当たる音だけが聞こえる。
 学校に着き、ホームルームの時間帯になると、今日鞍馬くんは欠席だと黒板に書かれていた。

『うん、分かった。そうする!』

 私のお願いにそう笑顔で返した鞍馬くんのことを思い出す。
 昨日はあんなに元気だったのにどうしたんだろう。風邪でも引いたのかな……。

「夕夏、おはよ」

 鞍馬くんのことを考えていると、知夏が私に声をかけてきた。

「あっ、おはよう」
「どしたどした」

 反射的に顔を上げて挨拶を返した私に、知夏がおどけたように訊いてくる。

「う、ううん。なんでもないよ」

 鞍馬くんのことを考えていたことを知夏に知られないように、私はいかにも怪しげな感じで取り繕った。
 そんな私に「えー、そうなのー?」と疑いの目を向けてきたけれど、知夏はすぐに興味を失ったのか話は違う話題へと移り変わった。
 最近ハマってる中国ドラマの話や、あの俳優さんまじかっこいいよね、という話に花を咲かせていると、一限目が始まるチャイムが鳴った。
 知夏は自分の席に帰って行き、私はシャーペンを手に真剣に授業を受け始めた。
 そうして一日があっという間に過ぎていき、私は部活鞄を背負い部室へ向かう。
 鞍馬くんのいない今日は何だかとても穏やかだった。
 波風立たず、一軍女子からの厳しい目もなく、楽に息を吸えた。
 家に帰ったら、まずは冷え切った体を温めるためにお風呂に入る。それからおばあちゃんの料理のお手伝いをし、二人で食卓を囲み夕飯を食べる。

「おばあちゃんの煮込みハンバーグ、やっぱり世界一美味しいね」

 ほくほくと湯気を出す出来立ての煮込みハンバーグを一口口に含んでそう言う。
 おばあちゃんは嬉しそうに「よかったよかった」と言って、顔をしわくちゃにして微笑んだ。
 食器を洗い終えたら、居間で洗濯物を畳んでいるおばあちゃんの元へ向かう。襖を開けると、畳の独特な匂いが鼻を突く。

「それじゃあゆうちゃん、あれを作ろうかね」

 目の前に編み物の道具一式を並べ終えていたおばあちゃんが私を振り返って言った。

「うん!」

 私は笑顔で頷いた。

 ❆

 12月4日 87/90

 今日は朝から雪がしんしんと降っていた。
 傘を差し、昨日の夜おばあちゃんと一緒に完成させたてぶくろを手にはめておばあちゃんに行ってきますと告げる。

「いってらっしゃい。今日も気をつけて行ってくるんだよ」
「うん。ありがと」

 私は口元をマフラーで覆い、くぐもった声で返事をしておばあちゃんに背を向けた。
 山を下り、バス停に行くと鞍馬くんの姿があった。

「あ、夕夏。おはよう」

 すぐに私に気づいた鞍馬くんは笑顔を浮かべて挨拶をする。

「……おはよう」

 私はぼそっと挨拶を返し、鞍馬くんと少し距離を置いてバス停に立った。
 何か言葉を交わすわけでもなく、無言でバスを待つ。
 鞍馬くんがあまりにも話しかけてこないから、私は目を瞑ってふう、と息を吐き気まずさに耐えた。

「昨日休んでたけど……、風邪でも引いてたの?」

 私が唯一持ち合わせていた話題を口に出す。
 鞍馬くんは一瞬ビクッと肩を震わせ、私に視線を向けた。

「う、うん」

 そしてすぐに頷く。そんな言動に少し引っ掛かったけれど、私は気に留めることはなく「そうだったんだ。大丈夫だった?」と返した。

「うん、もう平気。心配ありがとう」
「ちゃんと防寒しないとだめだよ。寒いから、すぐ風邪引いちゃうし」

 私はなぜか説教するような口調で言った。

「うん、そうだよね……。でもほら! 今日はマフラー巻いてきたから。てぶくろもしてるよ」

 鞍馬くんは手を上げて私に見せた。