202◯年12月1日 90/90

「ゆうちゃん、今日も学校頑張ってきなね」
「うん」

 祖母の(みのり)の温かい手に背中を押されて、私の重たい体は家の外へ追いやられた。
 学校、嫌だなあ……。
 私は心の中で情けない愚痴をこぼす。

「それじゃあ、行ってきます」

 おばあちゃんを振り返って言った。

「はぁい、いってらっしゃい。気をつけて帰っておいでね」
「うん、分かった。寒いのにいつも見送りに来てくれてありがとねおばあちゃん」
「いえいえ。ゆうちゃんのためなら、ばあちゃんは何だってするよ」

 おばあちゃんは私をゆうちゃんと呼ぶ。その優しい響きが私は昔から大好きだ。

「はは、それは嬉しいな。でも、無理しない程度にでいいんだからね」
「ふふ、はいはい」

 おばあちゃんは口に手を添え、しわくちゃな笑顔で私を見送ってくれた。
 深々と降り積もったまっさらな雪を踏み続ける。今日はいつもより雪が深く降り積もっている。膝丈あたりまであるほどだ。
 山を下り、バス停へ向かう途中、ふと吐いた息が真っ白なことに気づいた。生温かいそれは冬の凍てついた空気に瞬く間に溶けて跡形をなくす。
 空を見上げるとどんよりとした雪雲が視界一面に広がっていた。この冬の間は太陽も分厚い雲に覆われて、最近は青空を目にすることは滅多になくなった。
 私の住む北海道の冬は、うんと寒い。
 針葉樹林が立ち並ぶ雪山の麓に近い所に私とおばあちゃんが住む家が建てられている。
 こじんまりとした、小さいけれどお洒落で温かい木造建築の家。
 そこが、私が私でいられる唯一の居場所だった。
 見慣れた雪道。辺り一面、小さな氷の結晶で埋め尽くされた雪景色が広がっている。
 どこまでも続く美しい光景に私の目が奪われるまでに時間はかからなかった。

「ほんと、綺麗だなあ……」

 一人ぽつりと呟き、今日も一段と寒く吹く風に私は身震いし、鞄を持つ手に力を入れた。
 一年の中で私が一番憂鬱になる季節。それが冬だ。
 寒いし、雪かきが大変だし、部活が休止になることもしょっちゅうある。
 こんな風に冬には難点が沢山ある。
 それに、思い出したくない過去がこの冬にはあるんだ。

「さむ、……」

 私はごまかすように言った。
 小さく呟いた私の声は誰にも拾われることなく真っ白な雪の中に落ちていく。
 ザク、ザク、ザク……。
 雪を踏む音がやけにはっきりと聞こえる。それだけ私の世界は静かだった。静かすぎて少し怖いくらい。
 冷風に吹かれ、手が寒さでかじかんで赤くなっている。手袋はしていない。
 理由としては今年用の手袋がまだ完成していないというだけのこと。おばあちゃんに教えてもらいながら一生懸命に縫っている最中だ。私の手先が不器用すぎて、おばあちゃんが作るよりも余計に時間がかかっている。
 私の手作業を見ているとイライラが募るばかりだろうに、おばあちゃんは優しげな表情で見守ってくれる。
 私は毎日、そんな優しいおばあちゃんと一緒に暮らしている。
 いつも通りの日常を少しずつなぞる中、今日はいつもと違うことが一つだけあった。
 いつもは私以外誰もいないはずのバス停に、温かそうな黒色のダウンを着た男の子が一人、静かに佇んでいた。
 近づいていくと、その子と一瞬目が合った。すぐに逸らされたけど。
 私は少し訝しく思いながら、その男の子の隣に立ってバスを待つ。さっきからチラチラと見られている気がするけど、無視だ。バスの運行状況を聞かれても私には答えられないし。
 私の隣に並んでバスを待つ男の子が今度はそわそわし始める。私はそれに眉をひそめた。その挙動不審な様子に失礼ながらも苛立ちを覚える。
 何か言いたいことがあるのなら、早く話しかければいいじゃない。
 そんなイライラとした焦燥感が募る。男の子は未だに私に視線を送り続けている。

「……あの、さっきから何ですか」

 耐えきれなくなった私はついに自分から声をかけた。私がそちらを向いたことで、男の子はビクッと肩を震わせて驚いた表情をした。
 私はその人と無理やり目を合わせて、顔をじっと見つめた。その瞬間、想像以上に整っていた顔が視界に映る。色白の頬に切れ長の目が特徴的な綺麗な顔立ち。
 凛々しい眉が綺麗に弧を描き、高い鼻がより一層顔全体のパーツの配置の良さを際立てている。
 男の子の髪は、朝露に反射して美しく銀色に煌めいていた。
 ……この人の髪、何て言うか───白銀だ。
 周りの雪景色に溶け込んでいて、ちゃんと見るまでは気づかなかった。これまでの人生の中で一度も見たことがなかった髪色。人口色でもない、自然なその白。

「うわ、美し」

 思わずそんな声が漏れ出る。
 私があまりにもジーッと見つめ過ぎていたからだろうか。少年の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。

「あ、あの……」
「何ですか?」
「───好きです。俺と、付き合ってください」

 ⁉⁉
 心臓が大きく跳ねる。突然の告白に私の目が限界まで見開かれる。
 え……っと、待って、どういう状況?
 頭はハテナでいっぱいだ。
 ドクンドクンと強く鼓動を打つ心臓の音が、やけに大きく聞こえる。目の前の彼に聞こえてしまうんじゃないかと心配になるレベルだ。
 状況をすぐには飲み込めず、ぽかんとした間抜けな表情のままでいる私を、少年は真剣な目をして見つめてくる。
 熱のこもった少年の瞳が、私を捕らえて離さない。息ができなくなるくらい、じっと見つめられる。

「っ、……付き合うって、どういう意味、ですか」

 情けなく声が裏返ってしまう。気を抜くと、私を射抜くまっすぐな瞳に吸い込まれそうになる。
 私はそれ以上その瞳と目を合わせられなくなり、勢いよく俯いてその視線から逃れた。
 ……だって、出会って数分で好きだと言われてもどんな反応をしていいか分からないから。頬にじわじわと熱が迫り、顔が真っ赤になっていることを自覚する。
 あんなに寒かったのに、今は少し暑いくらいだ。

「俺の、残りの人生と付き合って欲しい。そういう意味です」
「えっ……と、無理です」

 二つ返事でそう答えた。理由も意味分かんないし、何より怪しすぎる。

「……っ」

 バッサリと切った私の返事に、すぐさま絶望したような表情を浮かべる彼。
 どうしてそんな顔をするんだろう。
 私と出会って数分で告白して、フラれて絶望して。訳の分からない行動を連発する彼に、思わず疑いの目を向けてしまう。

「その返事、変えることはできませんか」

 彼の真摯な瞳が、私を射抜いた。とても、熱くて強い藍色の瞳。

「変える、というと?」

 何となく彼のことが怖くなり、震えた声が口から漏れ出る。

「俺のことを、好きになって欲しいです。すぐにだなんて言いません。だけど、これだけは譲れないんです」
「譲れない理由は、何……? それと、私たち初対面だよね? それなのにどうして告白なんてするの」
「っ、……それは、言えません。でも俺は、どんな手を使ってでも君と付き合いたい」

 それくらい好きだから、と付け足す白銀の頭をした男の子。だけど、告白した理由は話せないらしい。
 ………ほんと、訳が分からないよ。

「ごめんなさい。告白した理由も話せないような人とは付き合えないです。それに、私たちやっぱり初対面だし……」
「俺と付き合えない理由は、それだけ?」

 そう訊かれ、一時思考停止した。
 男の子の瞳は、フラれた後でもまっすぐだ。

「え、?」
「初対面だから、付き合えないって理由じゃ俺は引けない。俺のことが生理的に無理とか、嫌いとかなら仕方ないけど」

 さっきから、目の前の男の子が何を言っているのかさっぱり分からない。
 私、告白は丁重にお断りしたよね……?
 馬鹿みたいに再確認してしまうほど、男の子の言い分はめちゃくちゃだ。これは、一筋縄ではいかなそうだな。

「……友達としての付き合いだったら、いいよ」

 一瞬で脳内をフル回転させ、たどり着いた答え。今の私に提示できる最大限の条件はこれだけだ。

「それって、俺と一緒にいてくれるってこと?」

 期待半分、不安半分のわんこみたいな瞳に見つめられ、私はぎこちなく頷くしかなかった。
 ……若干語弊があるような気もしなくはないけれど。

「ほんと、に……? やった、良かった」

 一言一句、しみじみと呟く彼の心の中は、一体どうなっているのだろう。

「良かったって、……本当に訳分かんない」

 私に告白した理由を教えてくれない彼に、わざと愚痴のようなものをぶつける。
 そんな私に視線をやった彼の表情は、何とも言えない複雑さで満ちていた。

「あ、……ごめん。一人でこんなに盛り上がって。君に告白した理由も話せないのにね」
「……いや、私の方こそごめんなさい。今のは、あなたを困らせるだけの発言だった」
「いや、君が謝る必要は全くないよ」

 そんな不毛な会話を繰り返している内に、何だかおかしくなって、二人同時に目を見合わせて吹き出した。

「…っはは、これじゃあきりがないね」
「うん、そうかも」

 まだ名前も知らない男の子に思わず笑いかけて頷いた。

「……、」
「……ねえ、あなたの名前、なんて言うの?」

 沈黙が生まれたので、その間を埋めるために話を切り出した。男の子の瞳がわずかに揺れ動く。

「……、俺の名前は、鞍馬絢斗。絢斗って呼んで」

 その表情には、私が名前を訊いた時の動揺した様子はすでに消えていて、深く気にすることはなかった。

「くらまあやと、……素敵な名前だね。鞍馬くん」

 私は表情を緩めてそう言った。

「絢斗、って呼んでほしいんだけど……」
「呼ばないよ。ていうか、呼べない。私、出会ってすぐに名前で呼び合えるようなキャラじゃないし」

 私は唇をとがらせてそう言った。

「そっ、か。残念、なら仕方ない」

 鞍馬くんは本当に残念そうな顔を浮かべた後、後頭部を掻いた。

「……ところで君の名前は?」

 そう訊かれて、私は自分の名前を名乗った。それと、名前の漢字も訊かれたから教えた。

「篠田夕夏、か。素敵な響きの名前だね」

 鞍馬くんは柔らかく微笑んで私に視線を向ける。
 美男子と目を合わせた経験なんて過去にないから、私は少し緊張してしまった。

「……夕夏って呼んでもいい?」

 遠慮がちにそう訊ねる鞍馬くん。私は少し考えた後、不愛想に「好きにすれば」とだけ返した。
 それからまた何とも言えない沈黙が二人の間に落ちる。
 この二人きりの空間が気まずすぎて、なんとか会話の種を探そうと試みるけれど、一向に見つからない。
 私が沈黙を破ることを諦めて地面に視線を落とす直前、鞍馬くんが口を開いた。

「そういえばその制服、東月高校のだよね」

 私は反射的に鞍馬くんに視線を向け、こくりと頷く。

「やっぱり。今日から俺もその高校に通うんだ」
「え、そうなの? こんな時期に、……」

 そこまで言って、私は口を閉ざした。
 別に転入してくるタイミングは人それぞれだと思い直したから。

「こんな中途半端な時期になんで、って思ったでしょ」

 いたずらに笑いながら私を見つめてくる鞍馬くんに、私は「なっ……!」と反論しようとした。
 けれどそれは図星で、私に反論の余地もなく、結果的に認める羽目になった。

「それにはねー、ある重大な秘密があるわけですよ」

 急に口調を変えたと思ったら、今度は真剣な表情で私を見つめてくる鞍馬くん。

「な、何」
「いや、何でも」
「……この時期に転入する理由、教えてくれないの?」
「うん、それは秘密」

 鞍馬くんは自分の唇に人差し指を乗せ、私と目線を合わせるために少しかがんでそう言った。
 ここまできたら当然教えてくれるものだろうと思っていた私は、肩透かしを食らった気分だった。

「ふうん。そっか」

 私は無関心半分、好奇心半分という複雑な心境で相槌を打った。

「それにしても、今日から夕夏と同じ高校に通えるの嬉しいな」

 人懐っこい笑みを浮かべ、本当に嬉しそうに言うものだから、私は反応に困って苦笑いだけを返した。
銀色の雪世界に、白銀の髪がふわふわと揺れている。その色は人工的なものではなくて、思わず惹き込まれてしまう。

「ううっ、さぶ……っ! ねえ夕夏、ここってバスが来るような場所には全く見えないんだけど、ちゃんと来るの?」

 私の隣で、青い顔をして肩を震わせている鞍馬くんが言った。
 今まで平気そうだったのに、急に寒がるんだな。
 そんなことを思いながら、私は口を開いた。

「それは、……断言できないけど。これくらいの雪なら、きっと来るよ」
「そっか。夕夏がそう言うなら、きっとそうなんだろうな」

 鞍馬くんは私の言葉をすんなり信じてバスが来る方に視線を向けていた。

「……ねえ鞍馬くん。私のマフラー、つける?」

 私にしては勇気を出して提案したことだったけど、鞍馬くんは私を見てすぐに首を振った。

「大丈夫。俺より夕夏の方が寒そうな格好してるし。逆に俺のてぶくろ貸そうか?」
「いや、いいよ。大丈夫」

 本当にてぶくろを貸そうとする鞍馬くんに、私は慌ててそう言った。
 こっちが貸そうとしたら、逆に貸そうとしてくるから困ったものだ。
 鞍馬くんっていまいち掴めない人だな……。
 ふう、と息をついて、私は頭上に広がる空を見上げた。視界一面、どんよりとした雪雲に覆われている。太陽の光なんて少しも差していない。
 そんな寂しい空を眺めながら、思う。
 鞍馬くんはどうして、出会ったばかりの私にあんな告白をしてきたのだろう。
 今更な気もするけれど、考えずにはいられない。
 きっと半端な気持ちで告白した訳ではないと、これまでの会話を通して断言できる。
 鞍馬くんは人懐っこくて、穏やかで、人を騙すような人じゃない。だって鞍馬くんの私を見つめる瞳はまっすぐで、とても誠実な色をしていたから。
 それだけの理由で断言するのはまだ早い気もするけれど、今はそれでよしとしよう。

「鞍馬くん。これからもっと寒くなるんだから、防寒はしっかりね」
「ええ、これ以上寒くなるのかあ……。やだな」

 隣で、鞍馬くんがぽつりと愚痴った。
 バス停までの道には、私と鞍馬くん二人だけの足跡が雪の上に綺麗にくっきりと残っている。
 どこまでも続く雪道は、ふわふわとした雲のように淡い白で色づいていた。

「──あ、バスが来たよ」
「わ、ほんとだ。やっと来たね」

 安堵した声が隣で聞こえる。遠くの方から、バスの小さな明かりが見えてきた。
 もうすぐでバスのタイヤにぺしゃんこにされてしまう、夜明け前に深々と降り積もった雪たち。
 そこに、私たち二人分の足跡が連なって刻まれている。
 まるでその足跡は、楽譜の中にある沢山の音符のようで。
 どこからか、軽快な冬のメロディーが聴こえてくるようだった。