1
見慣れた、薄汚れた白い天井が見える。
鈍い頭痛と吐き気。私、美月桜はいつものように、保健室のベッドに横になっていた。
私は幼いころから原因不明の体の痛みに悩まされていた。母親は何度も違う病院に私を連れて行った。その度にいろいろな検査をされたが、結局、ストレス性だとか、自律神経失調症などで片付けられた。
本人である私は、体の痛みよりも、検査の方が苦痛になっていき、病院に行くのを嫌がった。それからは母親も病院に連れて行くのをやめた。
ところが、痛みの原因は些細なことで判明した。小学校低学年のころだったと思う。友達たちと公園で遊んでいたときだ。不意に一人の男子が桜の木の枝を折った。その瞬間。
――イタイ――
という「声」と共に私の腕にも激しい痛みが走った。同じようなことが何度かあって、自分の体はどうやら地球上のものと同調しているらしいことが分かってきた。対象が近ければ近いほど私の体に影響がでる。
ここ最近、環境破壊が進んでいるため、同調している私の体も痛み(だるいと言ったほうがいいのだろうか。鈍い痛みで、なんとなく調子が悪い)を訴え続けている。
そのせいで、こうして毎日保健室に通っている。
私の特殊能力は「同調」だけではない。
桜の「声」を聞いたように、近くにいる人や生き物の「声」が聞こえるのだ。
それを自覚した日は苦い思い出となって今も心の奥にある。
小学生低学年ぐらいの思考回路は単純で、私の脳に響いてくる「声」もいたって単純なものだったから、聞こえてくる「声」を私はさほど気に留めていなかった。しかし、私は致命的な間違いを犯していた。みんなにも「声」が聞こえていると思っていたのだ。そして。
「はい。その子ちゃん。これ、落として探してたでしょ?」
友達の園子ちゃんにそう言ってシャーペンを渡した。私は良かれとしたことだった。ところが園子ちゃんは言った。
「私、さくらちゃんに言ってないよ? なんで分かったの?」
私は首をかしげた。
「その子ちゃんの声が聞こえたからだよ」
「ええ?! さくらちゃんもしかして心の声が聞こえるの? こわい!」
そう言った園子ちゃんの顔が忘れられない。園子ちゃんだけではなかった。心を読むことを気味悪がられて、私の周りには人が寄り付かなくなった。
親からもきつくとがめられた。
聞こえる「声」の内容を言わないようにと。
「でも、聞こえるんだよ? お母さんには聞こえないの?」
「そうね、お母さんたちには聞こえないの。みんなに嫌われないためにも聞こえても言ってはだめよ」
――可哀想だけれど隠すしかない。私たちまで変に思われるかもしれないし――
母親の心の声が聞こえた。
「お母さん、私は変なの?」という言葉をその時私は飲み込んだ。
私の能力は誰にも知られてはならない。だから、もう、誰にも心を開いたりしない。その時私は心で誓ったのだった。
どうして私だけこんな力を持って生まれてきたんだろう。
毎日脳内で繰り返される疑問。
私には小動物の嘆きや木々の悲鳴を聞こえても、どうすることもできない。こんな中途半端な力、どうしろというのだ。私は加害者の人間ではなく、酸素を提供する役目を持った木に生まれたかった。
私はこの世に存在するものは、何らかの役目を持って生まれてきていると考えている。けれど、今の私は何の役目も果たせていないような気がして情けなくなってくる。
この力があるからできることってなんだろう。私にはまだ分からない。
「美月さん。具合はどう?」
保険医である龍子先生の声が、私を現実に引き戻した。
「……あまりよくありません」
私は答える。
「そう……困ったわねえ」
龍子先生が本当に心配しているのが伝わってくる。
彼女は私が最も信頼している人間の一人だ。心で思っていることと、口に出す言葉が一致しているからだ。
私は基本的に人間が嫌いになっていた。顔で笑って、心で何を考えているか。それが実際に聞こえてしまう私が、人間に愛想を尽かすのは当然のことだ。
しかし、そんな私でも龍子先生とは本心で話せるのだった。
「一度病院に行ったほうがいいかもしれないわ」
龍子先生の言葉に、私は痛い頭を横に振る。
「い、いいえ。身体が弱いのは生まれつきですし、病院に行くほどではありませんから」
私はくらくらする頭を押さえて、無理矢理ベッドから身体を起こし、「お世話になりました」と言って保健室を出た。
保健室に一日中いるわけにもいかない。
ごめんね、龍子先生。いくら龍子先生でも能力のことは話せない。龍子先生に嫌われたくないの。
2
教室はうるさいから嫌いだ。たくさんの「声」が頭に反響して、頭痛が酷くなる。
自然と教室へ向かう足取りは重くなった。
ああ、眩暈がする。
「あっ!」
教室のドアの前で人とぶつかってしまった。顔を上げると気遣う目があった。
色白で、綺麗な目をした、平均的な女子よりある意味ずっと可愛い容姿の男子。
この顔は見たことがある。確か……北野夕影君だったはず。
――大丈夫かなあ。えーっと、どうしよう。声をかけたほうがいいかな――
北野君の心の声が聞こえてくる。私を心の中で気遣ってくれた彼に、私は微笑んだ。
「北野君、大丈夫? 私は大丈夫」
「よ、よかったあ。ごめんね。あの、保健室に行っていたんだよね? 具合の方はもういいの?」
声変わり前の高い声。
「あまりよくないけど、いつものことだから」
「そっか……。お大事に」
「ありがと」
私の言葉に北野君は一瞬笑って教室を出て行った。
私は静かに窓側の一番前の自分の席に着いた。
前にある余った机の上には、花が飾ってあった。担任教師の実家が花屋だそうで、よく持ってくるのだ。私はその花へ手を伸ばした。
一つ蕾の花がある。もう少しで開くころかな。
――咲きたい、咲きたいわ!――
うずうずしている蕾の声が聞こえてくる。何の花かは知らない。早く咲けばいいなと思って触れると、花が開いてしまった。幸い誰も見ていないようだし、まあいいか。
私の力はまだまだ未知数で、自分でももてあましている。他にどんな力があるのだろう。今のは成長の促進かな?
人間も花のように素直だといいのに。
そんなことを思いながら、退屈な授業を受けて、終了と同時に教室を出た。学校に長居は無用。私は走るように学校の門をくぐって、帰路を急いだ。
途中、公園の横を通ると、犬が飛び出してきた。体中の毛はぼさぼさで、足には怪我をしていた。ボロボロになった首輪をしている。捨てられた犬が、野良犬になってしまったのかもしれない。
どうして飼ったのに捨ててしまうんだろう。
「お前は何もしていないのにね。ごめんね。でも私もお前を飼うことはできないんだ」
私は犬の怪我している後ろ足に手を当ててみた。花を開かせることができたのだ。回復を促すことだって、成長を促すことと同じ原理に違いない。きっとできるはず。
完全にではないけれど、痛みが引いたようだ。犬が、
――ありがとう――
というのが聞こえた。私は自分が情けなくなった。
もっと。もっと何かできたら……!
悔しかった。私はどうしてこんな中途半端に生まれてきたのだろう。
3
――やめろ!――
昼休みの教室。たくさんの聞き取りたくない「声」を無視しながら弁当を食べていた時だ。 能天を突き抜けるような悲痛な叫びに、私はびくんと身体をこわばらせた。
誰? 誰がこんなに困っているの?
声の主はすぐに見つかった。北野君だった。
教室の後ろの方で、数人の男子が北野君を取り囲んでいる。北野君の頬は赤く腫れていた。彼らにやられたのだろうか。
「ゆーれい、お前、本当に男かよ? 何だその声。耳障りなんだよ! それにその顔。ちょっと綺麗な顔してるからって、いい気になってんじゃねーよ!」
「何だ、その目は? やるか、ゆうれいさん」
――悔しい。悔しい!――
北野君の心の叫び。切実なのが伝わってくる。取り囲んでいる男子たちの声は対照的に楽しげだった。
――とにかく困った顔が見たい! もっといじめてやれ!――
――人間サンドバックがいると助かるぜ!――
醜悪な声に私は胸がむかむかするのを感じた。
「ほんと、お前気持ちわりーんだよ。中学生男子だとは思えねえ」
「俺たちが強くしてやるって言ってんだ。有り難く思えよな、ゆーれい」
そう言いながら、一人は北野君の腹を蹴り、一人は顔を殴った。
――痛い! 僕の名前はゆーれいじゃない。夕影だ。余計なお世話だ! 畜生! 何で僕だけいつもいつもこんな目に!――
人間のこんなに悲しい声は初めて聞くかもしれない。
これが世に言う、いじめ?
何とかしたい。でもどうすれば……。
私の苛々した心に反応してか、強い風が教室に入ってきた。カーテンが舞い上がる。運良くそれは北野君を取り囲んでいた男子たちにかぶさった。
私はすかさず北野君の手をとり、教室を飛び出した。
「み、美月さん?!」
走る。走る。走る。
そうだ、屋上へ行こう!
バタム!
屋上のドアを開けた瞬間、気持いい風が頬をかすめた。後ろを伺うが、男子たちは追ってこなかったようだ。とりあえず、ほっとする。
「大丈夫? 北野君」
「あ、ありがとう」
北野君はそう言うと悲しげに笑った。
「なんか僕って情けないね。女子に助けられちゃうなんて。こんなんだからいじめられるんだよな」
今まで保健室にいる時間が多くて知らなかったが、北野君がどこか暗い顔をしていたのはいじめられていたからだったんだ。
「いじめていい理由なんてないと思う。……成長の度合いって、人によって違うから気にすることない。それにきっとあいつらひがんでるんだよ。北野君顔が綺麗だから」
北野君は黙って空を見ていた。
初夏の蒼い空。
何だかその後ろ姿が痛々しかった。
「声」は聞こえるのに、私は北野君に対して何もできない。誰よりも困ってることが分かるだけ。
でも、そんなの悲しすぎる。
なんとかして、力になれないものか……。私から北野君へ出来ること。何か。何か……。
あ! そうだ!
私は北野君の頭に手を当てた。
「え! な、何?」
北野君は驚いたように身じろぎした。
「少しの間、じっとしてて」
「う、うん?」
私から北野君へ出来ること。花を咲かせたように、彼の成長を促せばいいんだ。成功するかは分からないけれど、北野君のために何かしたい! 何もできないままなんて、そんなの嫌だ!
私はしばらく彼の頭に手を当てていた。
「ごめん。もういいよ」
「何したの?」
私はくすりと笑った。
「おまじない。北野君が強くなるように」
「おまじない? 美月さんって優しいんだね。少し元気出た」
「それはよかった。あんな奴らはほっとけばいいんだよ。反応すればするだけ喜ぶ奴らなんだから。ね、負けないで! 少なくとも私は北野君の味方だから! 頼りないかもしれないけれど相談に乗るよ」
人と関わることを避けてきた私にとっては珍しい発言だ。けれど、こんな北野君を見て見ぬふりなんてできなかった。
いじめ自体をどうにかすることは、私にはできそうにない。それでも北野君の味方になりたい。力になりたい。痛みを抱える声を無視したくない。
「うん。ありがとう、美月さん」
北野君は淡い笑顔を見せた。
今まで嫌悪感しか抱けなかった人間。自分もその人間の一人であることがたまらなく嫌だった。
でも。
その人間だって複雑なんだ。さまざまな立場で、さまざまな思いを抱いて生きている。
人間は加害者であるだけではない。北野君のような被害者もいるんだ。
私は人を嫌うことでそんな弱い立場の人を見落としてきたのかもしれない。
4
一ヵ月後の休み時間。
隣で窓から空を見ている北野君の声は、声変わりで掠れて低くなろうとしていた。身長も以前より、五センチ近くは伸びているだろう。一気に男らしくなった。おまじないは効いたらしい。
まだ何か言う男子もいるようだけれど、北野君はなるべく相手にしないようにしているみたいだ。
人生いろいろある。
これからも、頑張って、北野君!
「あれ? 美月さん、何か言った? 頑張れって聞こえたような……」
北野君の言葉に、私は信じられない気持ちで彼を見た。
何だって? そんな、まさか。
頭で否定をしていたそのとき、雀が鳴きながら飛んでいくのが見えた。
雨が降る、としきりに教えてくれている。
傘持ってきていないな、と思っていると、隣で北野君が首をかしげていた。
「僕、耳がおかしいのかな。こんなに天気がいいのに、雨が降るって声が聞こえるんだ」
私はまじまじと北野君を見た。
まさか。
「あのさ、北野君」
私はそう言って、試しに花瓶を持ってきた。
「ま、馬鹿馬鹿しく思うのは分かるんだけど……」
私が言い終わらないうちに、北野君の表情が変わっていった。
「『私を見て』って聞こえない? これは誰の声?」
もしかして、私の力が北野君に微かに移っている? 成長を促した時に何らかの影響を与えたのだろうか。
「北野君。これからも苦労するとは思うけど、お互い頑張ろう」
私の言葉に北野君は不思議そうな顔をしている。
「急にどうしたの? 美月さん?」
北野君の声を背に、私は何だかくすくすと笑ってしまった。今までの自分が馬鹿らしくなっていた。
北野君のことで人間も捨てたもんじゃないと思うようになった。北野君に関わらないようにしているクラスメイトたちを私は最初軽蔑していた。いじめをしているのと同じだと。けれど。
北野君に心で頑張れコールを送っている生徒たちが思いのほかいる。怖くて直接的には何もできない。でも、心配している生徒がいるのだ。北野君のために心を痛めているのだ。とても小さい声。私は聞き逃していた。いや、人間の声自体をまともに聞こうとしていなかったのかもしれない。
そうだね。確かに、人間はずるくて汚いところがある。でもそれでも何とかしようと思っている人もいる。心を砕いている人がいる。前向きに生きようとしている人だっている。
私は? 私は命を、生きていることを無駄にしていた。絶望することで諦めていた。一番最低なことだ。
人と違う力がある? 別にいいじゃないか。それどころか、困っている北野君のような人の「声」を聞けるのは幸運かもしれない。少なくとも分からないより、分かる方がいい。
ずっと中途半端な力が嫌だった。でも、役に立てないと悩むだけでは、本当に役に立てなくなってしまう。力がある分、私は人よりできることが増えると思わなければ。
少しでもいいのだ。それでも役に立つと言うのなら。私は北野君のことで、気づけてよかった。
問題は北野君の力だ。北野君にどうして力が移ったのかは分からない。もしかしたら、人間誰でも持っている力で、それが覚醒しただけかもしれない。でも……。
私は考える。みんなが「声」を聞けるようになったら……。
それは私のように苦痛を伴うかも知れないけれど。でも。
私は明るい未来を見た気がして微笑んだ。
了
見慣れた、薄汚れた白い天井が見える。
鈍い頭痛と吐き気。私、美月桜はいつものように、保健室のベッドに横になっていた。
私は幼いころから原因不明の体の痛みに悩まされていた。母親は何度も違う病院に私を連れて行った。その度にいろいろな検査をされたが、結局、ストレス性だとか、自律神経失調症などで片付けられた。
本人である私は、体の痛みよりも、検査の方が苦痛になっていき、病院に行くのを嫌がった。それからは母親も病院に連れて行くのをやめた。
ところが、痛みの原因は些細なことで判明した。小学校低学年のころだったと思う。友達たちと公園で遊んでいたときだ。不意に一人の男子が桜の木の枝を折った。その瞬間。
――イタイ――
という「声」と共に私の腕にも激しい痛みが走った。同じようなことが何度かあって、自分の体はどうやら地球上のものと同調しているらしいことが分かってきた。対象が近ければ近いほど私の体に影響がでる。
ここ最近、環境破壊が進んでいるため、同調している私の体も痛み(だるいと言ったほうがいいのだろうか。鈍い痛みで、なんとなく調子が悪い)を訴え続けている。
そのせいで、こうして毎日保健室に通っている。
私の特殊能力は「同調」だけではない。
桜の「声」を聞いたように、近くにいる人や生き物の「声」が聞こえるのだ。
それを自覚した日は苦い思い出となって今も心の奥にある。
小学生低学年ぐらいの思考回路は単純で、私の脳に響いてくる「声」もいたって単純なものだったから、聞こえてくる「声」を私はさほど気に留めていなかった。しかし、私は致命的な間違いを犯していた。みんなにも「声」が聞こえていると思っていたのだ。そして。
「はい。その子ちゃん。これ、落として探してたでしょ?」
友達の園子ちゃんにそう言ってシャーペンを渡した。私は良かれとしたことだった。ところが園子ちゃんは言った。
「私、さくらちゃんに言ってないよ? なんで分かったの?」
私は首をかしげた。
「その子ちゃんの声が聞こえたからだよ」
「ええ?! さくらちゃんもしかして心の声が聞こえるの? こわい!」
そう言った園子ちゃんの顔が忘れられない。園子ちゃんだけではなかった。心を読むことを気味悪がられて、私の周りには人が寄り付かなくなった。
親からもきつくとがめられた。
聞こえる「声」の内容を言わないようにと。
「でも、聞こえるんだよ? お母さんには聞こえないの?」
「そうね、お母さんたちには聞こえないの。みんなに嫌われないためにも聞こえても言ってはだめよ」
――可哀想だけれど隠すしかない。私たちまで変に思われるかもしれないし――
母親の心の声が聞こえた。
「お母さん、私は変なの?」という言葉をその時私は飲み込んだ。
私の能力は誰にも知られてはならない。だから、もう、誰にも心を開いたりしない。その時私は心で誓ったのだった。
どうして私だけこんな力を持って生まれてきたんだろう。
毎日脳内で繰り返される疑問。
私には小動物の嘆きや木々の悲鳴を聞こえても、どうすることもできない。こんな中途半端な力、どうしろというのだ。私は加害者の人間ではなく、酸素を提供する役目を持った木に生まれたかった。
私はこの世に存在するものは、何らかの役目を持って生まれてきていると考えている。けれど、今の私は何の役目も果たせていないような気がして情けなくなってくる。
この力があるからできることってなんだろう。私にはまだ分からない。
「美月さん。具合はどう?」
保険医である龍子先生の声が、私を現実に引き戻した。
「……あまりよくありません」
私は答える。
「そう……困ったわねえ」
龍子先生が本当に心配しているのが伝わってくる。
彼女は私が最も信頼している人間の一人だ。心で思っていることと、口に出す言葉が一致しているからだ。
私は基本的に人間が嫌いになっていた。顔で笑って、心で何を考えているか。それが実際に聞こえてしまう私が、人間に愛想を尽かすのは当然のことだ。
しかし、そんな私でも龍子先生とは本心で話せるのだった。
「一度病院に行ったほうがいいかもしれないわ」
龍子先生の言葉に、私は痛い頭を横に振る。
「い、いいえ。身体が弱いのは生まれつきですし、病院に行くほどではありませんから」
私はくらくらする頭を押さえて、無理矢理ベッドから身体を起こし、「お世話になりました」と言って保健室を出た。
保健室に一日中いるわけにもいかない。
ごめんね、龍子先生。いくら龍子先生でも能力のことは話せない。龍子先生に嫌われたくないの。
2
教室はうるさいから嫌いだ。たくさんの「声」が頭に反響して、頭痛が酷くなる。
自然と教室へ向かう足取りは重くなった。
ああ、眩暈がする。
「あっ!」
教室のドアの前で人とぶつかってしまった。顔を上げると気遣う目があった。
色白で、綺麗な目をした、平均的な女子よりある意味ずっと可愛い容姿の男子。
この顔は見たことがある。確か……北野夕影君だったはず。
――大丈夫かなあ。えーっと、どうしよう。声をかけたほうがいいかな――
北野君の心の声が聞こえてくる。私を心の中で気遣ってくれた彼に、私は微笑んだ。
「北野君、大丈夫? 私は大丈夫」
「よ、よかったあ。ごめんね。あの、保健室に行っていたんだよね? 具合の方はもういいの?」
声変わり前の高い声。
「あまりよくないけど、いつものことだから」
「そっか……。お大事に」
「ありがと」
私の言葉に北野君は一瞬笑って教室を出て行った。
私は静かに窓側の一番前の自分の席に着いた。
前にある余った机の上には、花が飾ってあった。担任教師の実家が花屋だそうで、よく持ってくるのだ。私はその花へ手を伸ばした。
一つ蕾の花がある。もう少しで開くころかな。
――咲きたい、咲きたいわ!――
うずうずしている蕾の声が聞こえてくる。何の花かは知らない。早く咲けばいいなと思って触れると、花が開いてしまった。幸い誰も見ていないようだし、まあいいか。
私の力はまだまだ未知数で、自分でももてあましている。他にどんな力があるのだろう。今のは成長の促進かな?
人間も花のように素直だといいのに。
そんなことを思いながら、退屈な授業を受けて、終了と同時に教室を出た。学校に長居は無用。私は走るように学校の門をくぐって、帰路を急いだ。
途中、公園の横を通ると、犬が飛び出してきた。体中の毛はぼさぼさで、足には怪我をしていた。ボロボロになった首輪をしている。捨てられた犬が、野良犬になってしまったのかもしれない。
どうして飼ったのに捨ててしまうんだろう。
「お前は何もしていないのにね。ごめんね。でも私もお前を飼うことはできないんだ」
私は犬の怪我している後ろ足に手を当ててみた。花を開かせることができたのだ。回復を促すことだって、成長を促すことと同じ原理に違いない。きっとできるはず。
完全にではないけれど、痛みが引いたようだ。犬が、
――ありがとう――
というのが聞こえた。私は自分が情けなくなった。
もっと。もっと何かできたら……!
悔しかった。私はどうしてこんな中途半端に生まれてきたのだろう。
3
――やめろ!――
昼休みの教室。たくさんの聞き取りたくない「声」を無視しながら弁当を食べていた時だ。 能天を突き抜けるような悲痛な叫びに、私はびくんと身体をこわばらせた。
誰? 誰がこんなに困っているの?
声の主はすぐに見つかった。北野君だった。
教室の後ろの方で、数人の男子が北野君を取り囲んでいる。北野君の頬は赤く腫れていた。彼らにやられたのだろうか。
「ゆーれい、お前、本当に男かよ? 何だその声。耳障りなんだよ! それにその顔。ちょっと綺麗な顔してるからって、いい気になってんじゃねーよ!」
「何だ、その目は? やるか、ゆうれいさん」
――悔しい。悔しい!――
北野君の心の叫び。切実なのが伝わってくる。取り囲んでいる男子たちの声は対照的に楽しげだった。
――とにかく困った顔が見たい! もっといじめてやれ!――
――人間サンドバックがいると助かるぜ!――
醜悪な声に私は胸がむかむかするのを感じた。
「ほんと、お前気持ちわりーんだよ。中学生男子だとは思えねえ」
「俺たちが強くしてやるって言ってんだ。有り難く思えよな、ゆーれい」
そう言いながら、一人は北野君の腹を蹴り、一人は顔を殴った。
――痛い! 僕の名前はゆーれいじゃない。夕影だ。余計なお世話だ! 畜生! 何で僕だけいつもいつもこんな目に!――
人間のこんなに悲しい声は初めて聞くかもしれない。
これが世に言う、いじめ?
何とかしたい。でもどうすれば……。
私の苛々した心に反応してか、強い風が教室に入ってきた。カーテンが舞い上がる。運良くそれは北野君を取り囲んでいた男子たちにかぶさった。
私はすかさず北野君の手をとり、教室を飛び出した。
「み、美月さん?!」
走る。走る。走る。
そうだ、屋上へ行こう!
バタム!
屋上のドアを開けた瞬間、気持いい風が頬をかすめた。後ろを伺うが、男子たちは追ってこなかったようだ。とりあえず、ほっとする。
「大丈夫? 北野君」
「あ、ありがとう」
北野君はそう言うと悲しげに笑った。
「なんか僕って情けないね。女子に助けられちゃうなんて。こんなんだからいじめられるんだよな」
今まで保健室にいる時間が多くて知らなかったが、北野君がどこか暗い顔をしていたのはいじめられていたからだったんだ。
「いじめていい理由なんてないと思う。……成長の度合いって、人によって違うから気にすることない。それにきっとあいつらひがんでるんだよ。北野君顔が綺麗だから」
北野君は黙って空を見ていた。
初夏の蒼い空。
何だかその後ろ姿が痛々しかった。
「声」は聞こえるのに、私は北野君に対して何もできない。誰よりも困ってることが分かるだけ。
でも、そんなの悲しすぎる。
なんとかして、力になれないものか……。私から北野君へ出来ること。何か。何か……。
あ! そうだ!
私は北野君の頭に手を当てた。
「え! な、何?」
北野君は驚いたように身じろぎした。
「少しの間、じっとしてて」
「う、うん?」
私から北野君へ出来ること。花を咲かせたように、彼の成長を促せばいいんだ。成功するかは分からないけれど、北野君のために何かしたい! 何もできないままなんて、そんなの嫌だ!
私はしばらく彼の頭に手を当てていた。
「ごめん。もういいよ」
「何したの?」
私はくすりと笑った。
「おまじない。北野君が強くなるように」
「おまじない? 美月さんって優しいんだね。少し元気出た」
「それはよかった。あんな奴らはほっとけばいいんだよ。反応すればするだけ喜ぶ奴らなんだから。ね、負けないで! 少なくとも私は北野君の味方だから! 頼りないかもしれないけれど相談に乗るよ」
人と関わることを避けてきた私にとっては珍しい発言だ。けれど、こんな北野君を見て見ぬふりなんてできなかった。
いじめ自体をどうにかすることは、私にはできそうにない。それでも北野君の味方になりたい。力になりたい。痛みを抱える声を無視したくない。
「うん。ありがとう、美月さん」
北野君は淡い笑顔を見せた。
今まで嫌悪感しか抱けなかった人間。自分もその人間の一人であることがたまらなく嫌だった。
でも。
その人間だって複雑なんだ。さまざまな立場で、さまざまな思いを抱いて生きている。
人間は加害者であるだけではない。北野君のような被害者もいるんだ。
私は人を嫌うことでそんな弱い立場の人を見落としてきたのかもしれない。
4
一ヵ月後の休み時間。
隣で窓から空を見ている北野君の声は、声変わりで掠れて低くなろうとしていた。身長も以前より、五センチ近くは伸びているだろう。一気に男らしくなった。おまじないは効いたらしい。
まだ何か言う男子もいるようだけれど、北野君はなるべく相手にしないようにしているみたいだ。
人生いろいろある。
これからも、頑張って、北野君!
「あれ? 美月さん、何か言った? 頑張れって聞こえたような……」
北野君の言葉に、私は信じられない気持ちで彼を見た。
何だって? そんな、まさか。
頭で否定をしていたそのとき、雀が鳴きながら飛んでいくのが見えた。
雨が降る、としきりに教えてくれている。
傘持ってきていないな、と思っていると、隣で北野君が首をかしげていた。
「僕、耳がおかしいのかな。こんなに天気がいいのに、雨が降るって声が聞こえるんだ」
私はまじまじと北野君を見た。
まさか。
「あのさ、北野君」
私はそう言って、試しに花瓶を持ってきた。
「ま、馬鹿馬鹿しく思うのは分かるんだけど……」
私が言い終わらないうちに、北野君の表情が変わっていった。
「『私を見て』って聞こえない? これは誰の声?」
もしかして、私の力が北野君に微かに移っている? 成長を促した時に何らかの影響を与えたのだろうか。
「北野君。これからも苦労するとは思うけど、お互い頑張ろう」
私の言葉に北野君は不思議そうな顔をしている。
「急にどうしたの? 美月さん?」
北野君の声を背に、私は何だかくすくすと笑ってしまった。今までの自分が馬鹿らしくなっていた。
北野君のことで人間も捨てたもんじゃないと思うようになった。北野君に関わらないようにしているクラスメイトたちを私は最初軽蔑していた。いじめをしているのと同じだと。けれど。
北野君に心で頑張れコールを送っている生徒たちが思いのほかいる。怖くて直接的には何もできない。でも、心配している生徒がいるのだ。北野君のために心を痛めているのだ。とても小さい声。私は聞き逃していた。いや、人間の声自体をまともに聞こうとしていなかったのかもしれない。
そうだね。確かに、人間はずるくて汚いところがある。でもそれでも何とかしようと思っている人もいる。心を砕いている人がいる。前向きに生きようとしている人だっている。
私は? 私は命を、生きていることを無駄にしていた。絶望することで諦めていた。一番最低なことだ。
人と違う力がある? 別にいいじゃないか。それどころか、困っている北野君のような人の「声」を聞けるのは幸運かもしれない。少なくとも分からないより、分かる方がいい。
ずっと中途半端な力が嫌だった。でも、役に立てないと悩むだけでは、本当に役に立てなくなってしまう。力がある分、私は人よりできることが増えると思わなければ。
少しでもいいのだ。それでも役に立つと言うのなら。私は北野君のことで、気づけてよかった。
問題は北野君の力だ。北野君にどうして力が移ったのかは分からない。もしかしたら、人間誰でも持っている力で、それが覚醒しただけかもしれない。でも……。
私は考える。みんなが「声」を聞けるようになったら……。
それは私のように苦痛を伴うかも知れないけれど。でも。
私は明るい未来を見た気がして微笑んだ。
了