ここはどこだろう。手錠をはめられたうえ、目隠しをされ連れてこられたからよく分からない。
車に乗せられ一時間くらい。
車を下りてすぐ、どこかの建物に入った。
床に座らされた後、手錠をはずされた。制服のブレザーを脱がされ、代わりに何か別の上着を着せられた。それから目隠しをはずされた。周囲を見渡したとき、誰かが立ち去る足音が聞こえた。
健のいるのは畳八畳の部屋だった。部屋の隅に机とベッドが置かれている。机の上の教科書が目に入った。間違いない。ここはサキの部屋だ。
それにしても、何という異様な部屋だろう。周囲の壁には、おびえた顔をした健の写真が、何枚も大きなパネルに引き伸ばされて貼られている。中学の頃の写真だ。
何という恐ろしい光景だろう。どの写真も健の胸の部分にベッタリと赤い絵の具が塗られていた。まるで心臓をえぐられたかのようだ。
そして健の不安を的中させるかのように、足下には大きなナイフを乗せた皿が置かれていた。
ナイフの刃が、部屋の照明に反射し、冷たく光る。健は全身に震えを感じた。
そればかりではない。健は、真っ白なブレザーを着せられていた。
白! まさか、納棺のときの白装束とでもいうのだろうか?
「どうして? 黙って引っ越したくらいで、こんなことされないといけないの。お祖父さん、早くこのストーカー女を未成年誘拐と殺人未遂で逮捕してください!」
健の叫びも空しい。
突然、歌声が流れてきた。
男女の合唱だ。外国語のようだが、どこの国の言語なのかよく分からない。
恐る恐る歌声のする方向を見ると、CDプレーヤーが置かれていた。
それにしても何という陰気な歌声だろう。健の心にずっしり重くのしかかってくる。
ヒーーーーーーッ
何度か悲鳴のような叫びが聞こえた。
まさか、葬式のときの曲だとでもいうのだろうか?
ギャーーーーーーーーッ
耳をつんざく叫び。
それは、これからの健の運命を暗示するかのようだった。
健の意識はだんだんと薄れていった。
目を開けたときは、まだ頭がボンヤリとしていた。
だが次の瞬間! 死への恐怖で眠気がふっとんでいた。
すぐ目の前に大きなナイフ!
ワワワッ!
そしてサキの無表情な顏。
ワワワッ!
そのときになり、やっと健は、足下の皿に気がついた。きれいに皮をむかれてスライスされたリンゴが盛られていた。
すぐ目の前では、サキがリンゴの皮をむいていた。
聖職者の養女であることを示すように、今のサキは、パープルカラーのベール状の頭巾、トゥニカと呼ばれる足首までのワンビースを身につけている。
健は『白雪姫』に出てくる毒リンゴを思い出した。全身、冷たい汗が流れ落ちていく。
(ち、違う。僕、白雪姫なんかじゃない。日下健です。毒リンゴなんかやめてください!)
健の恐怖をよそに、サキはリンゴの皮をむき続ける。
サキのそばに、一枚のCDディスクが置かれていた。
「プレーヤーが壊れるなんて。それとも古いディスクだったから?」
サキがポツンとつぶやいた。
(何言ってるんだ、この人)
狂った人ほど、恐ろしいこと考えるものだ。健の恐怖はついに極限まで到達!
「ねえ、リンゴ食べてよ」
サキがつぶやくように話しかけてくる。
健の心に恐ろしい映像が浮かび上がる。
リンゴを一口、口に入れた瞬間に訪れる運命。胸を掻きむしって健は倒れる。床の上を転げまわる健を、大きな口に笑いを浮かべ、冷たく見下ろすサキ。
もう我慢できなかった。健は大声で泣いていた。
「健ちゃんってサ」
サキがナイフを持つ手を休めた。
「あたしのことキライ?」
そんなこと、正直に答えられるワケない。健はまだ十五歳。青春真っ盛り。生命が惜しい!
両手で顔を覆って泣くしかない。
「そっか……」
サキはそっと立ち上がって部屋を出た。すぐに戻ってきてスクールバッグとスマホを健に返した。真っ白なブレザーを脱がせ、自分が羽織った。まだスライスしていないリンゴを五個、トートバッグに入れて健に渡す。
「じゃあね」
サキの声はかすかに震えていた。部屋を出ると、今度はもう戻らなかった。
健は全速力でサキの家を飛び出していた。
サキが後から追いかけてくるような気がして、一度も振り返らなかった。
リンゴは誰かが間違って食べないように、家に着いてから深く穴を掘って埋めた。
「ちょっと待ってよ。いきなりそんな……」
恐怖の一夜から二日目の夜。健はスマホの向こうの母に向って叫んでいた。
「これからの健の予定。手続きが終わり次第、ロンドンのスコットランドヤード大学付属高に入学。成績に応じ卒業までの期間が変わるから最短二年で大学卒業。スコットランドヤードの警察幹部の資格を取得できる。帰国したら簡単な研修後、警視庁本庁で最初から警部補として勤務できるから」
「だから僕、警察なんかに……」
「ごめんね。お祖父さんの家に呼ばれて親戚一同から詰め寄られ、お母さん、どうにも出来なかった。お祖父さんの直系の孫が警察官にならないとは何事かと、三十人以上から繰り返し言われたの」
「だけど、僕……」
「この話は、もうこれまでね。サキちゃんに会ったでしょう。健のスマホを開き私の電話番号調べて連絡してきた。健がサキちゃんの決めたパスワードを今でもそのまま使っていたと、すごく喜んでいた」
母は一方的に話し続ける。
「サキちゃんはね。親戚が院長を務める修道院に入ることになった。将来は修道院と修道院が経営する『聖マリア女学園』の後継者になるそう。正式にシスターになったら、もう健と結婚することは出来ない。だから修道院に入る前、真似事でもいいから結婚式を挙げたかったと言っていた。健のために白のスーツを用意して、教会の結婚式のときに使う讃美歌を流したそうよ。だけどプレーヤーが壊れたかなんかでぶちこわしになったって……」
じゃあ、あれは……
「健が何でも家事が出来ること、尊敬していた。そんなに自慢するほどのことかな? 健からリンゴの皮のむきかたとスライスを習ったこと、今でもふたりの一番の思い出だと言っていた。健は忘れた?」
そのときになって、初めて健は、自分が取り返しのつかない思い違いをしていたことに気がついていた。
「お母さんが悪かったと思っている。サキちゃんは健のことが大好きだったから、修道院に入る気はなかった。将来は警察官になって、仕事もプライベートもいつもふたりで一緒でいたいと願っていた。
私、ハッキリとサキちゃんに、健が
『体が弱いし気も弱い。それにスポーツもダメだから警察官なんかならない』
と言ってること伝えたら、健のことを本当に心配してね、心を鬼にして健を強い子にすると約束してくれた。だけどそれが逆効果になったみたい。健は恐怖のあまり、優しかった頃のサキちゃんとの思い出をすっかり封印してしまったんだよね。
私が、
『お願い』
なんて言わなければよかった。どうサキちゃんにお詫びしたらいいか……健、どうしたの?健!」
白く高い塀に囲まれた白亜の建物。塀の一角には大きな扉。この扉の向こうに「守山修道院」がある。東側に「聖マリア女学園」が隣接している。
この扉の向こうで、宗教に身を捧げた女性たちが暮らしている。
扉の前に一台のバンが停車し、ベール状の頭巾とトゥニカと呼ばれる足首までのワンビースを身につけたサキが下りる。
白髪の神父が寄り添っている。ふたりの年配のシスターも一緒だ。
「では入ろうか?」
神父が声をかける。
サキが小さくうなずく。ゆっくりゆっくりと扉に向う。
扉の前でそっと振り返る。
次の瞬間、サキの顏に満面の笑みが浮かんだ。
きっと来てくれると信じた少年がそこにいた。
サキが手招きする。
健は駆け足でサキの前に立った。
「サキちゃん」
健はうつむいたままだった。しっかりサキの顔を記憶に刻まなければならないのに、肩を震わせて地面を見つめていた。
「ごめんなさい」
消え入るような小さな声でつぶやくと、次の瞬間には両手で顔を覆って泣き出していた。
サキが笑った。一瞬で両目が涙の洪水になった。
「健ちゃんは本当にダメな子だね」
健は答えない。顔を覆ったまま、ずっと泣き続けていた。
「弱虫で泣き虫で……だけどそれでいいじゃん」
サキの声が震え、空いっぱいに響き渡った。
「私がいるんだから。ふたりで一緒にいればいいじゃない。恋するって、愛するって、そういうことだから」
サキは澄んだ空を見つめた。それから神父の方をしっかりと見つめた。
「お義父さん、ごめんなさい。私、十戒を破ります。シスターにはなれません」
神父は呆然とサキを見返した。
「十戒の八。汝、盗んではならない。私、今から、私が一番大好きで一番大切な人を奪います」
サキがワンピースに手をかけた。
ビリビリと布を引き裂く音。
短くなったワンピースの裾から、ブラウンのガーターストッキングに包まれ、マシュマロのように盛り上がった太腿があらわになった。
サキはもう迷わなかった。
パッと健をお姫様抱っこし、愛おしそうに大きな口を健の口に重ねた。
「健ちゃんのお母さん、見てますよね。健ちゃんはロンドンなんかに行きません。もう私のものです。ごめんなさい」
サキは健に呼びかけた。
「私、健ちゃんを奪っちゃうよ。いい?」
「はいっ」
健がしっかりとうなずく。
もう一度、交わした誓いのキッス。サキはワンピースをひるがえし、ダークバークのガーターもあらわに修道院から駆け出して行った。
健の祖父や親戚たちが、塀の蔭から憮然とした様子で見送る。健の母は涼しい顔。
「由美子、本当に、これでいいのか?」
「終わりよければすべてよし。警視庁に強力なコンビが生まれればそれでいいんでしょう」
サキは風に舞う短い裾を気にもせず、健を抱きしめたまま、風の中を駆け抜けてて行った。
最後に---
サキが恥かしくて言わなかったこと。
だから健も知らなかったこと。
サキの部屋に貼られた健の写真の胸の部分。
ひとりぼっちのサキが描いた大きなハートのマークを隠すため、上から赤のマジックで塗りつぶしていたこと。