放課後。
昼休憩と同じく校舎裏へ向かうと、相変わらず一定のリズムの寝息を立てている伊吹くんを見つけた。
そして、一度上へと向けた視線を今度は下へずらす。

同じ場所に弁当箱が置いてあるのを見て、どうやら案の定手は付けていないようだと苦笑した。
だが、いきなり食べてくれるとは思っていない。

これからゆっくり仲良くなったら食べてくれるだろうかと考えながら、私はこの学校でなぜか唯一咲いていない木の元へと向かう。
そうしてお弁当箱を手に取ると、予想とは違う重さに目を瞬いた。


(…………軽い)


振っても揺らしても中からは物音ひとつせず、すべて食べられたのだということがわかる。
よく見ると、お弁当箱の上には、私とは違うメモ帳が挟まっていた。


『ご馳走様』


意外と達筆で綺麗な字を見つめる。
がさりと上から音がして、目元にモザイクがかかった男の子が現れた。


「うまかった」


そういって彼は木から飛び降り、呆然とする私をおいて校舎とは反対方向へと向かう。
私が立ち止まっていると、ああそうだ、と伊吹くんが後ろを振り返った。
「変な顔」事件という名の前科がある彼だったから、私はびくりと身構えた、けれど。


「ーーーーーありがとう」


伊吹くんが、笑った。
少しだけ八重歯をのぞかせ、優しい透き通った声で私に感謝の言葉を言いながら。


私はその瞬間、彼の顔にモザイクがかかっていながらも「美しいな」と思った。
美しい。まさにその時の彼にはその言葉がとてもしっくりきた。


舞い散る桜を背景に、無邪気に笑う男の子。
それをみて、私は思ってはいけないことを思ってしまったのだ。

それにモザイクがかかっていなかったら、さぞ綺麗なんだろうと。
何の障害もない綺麗な状態で、その美しい景色を見てみたいと。


ーーーーーそんな、叶えられない望みを願ってしまったのだ。


その瞬間、どうしようもない吐き気と頭痛が私を襲った。
今までにないほどの強烈な痛みと気持ち悪さが走り、その場に思わずうずくまる。

そして、私は滲んだ視界ながらもなんとか目を開け、校舎に手をつきながらここから離れようと歩き出した。
ここでもどしてはいけない。
だってここは、私たちの「特別な場所」で。


(あれ、特別な場所って、なんだっけ)


それが何かとても大切なことのような気がして、痛む頭を抑えながらも考えこむ。
だが、知らず知らずのうちに私の体力は限界になっていたらしい。

ふらりと体が傾いた感覚がして、次の瞬間には並行しているグラウンドの土が見えた。
ああ、限界かな。

そう思った瞬間、ザッと音がして目の前に大きめの靴が現れる。
顔を上げようとしたが、結局は何もできなくてそれをじっと見つめた。

それはどんどん近づいてきて、あろうことか私の目の前で止まった。


(…………最悪)


我ながら最初に出てきた感想に嫌気がさす。
どうやら私は、こんな状態になっても、いやこんな状態だからこそ誰にも見られたくないらしい。


「……い」


目の前の人も、早くどっか行ってくれたらいいのに。


「……い、お前」


頭痛は痛すぎて何も感じなくなってきた。でも、相変わらず吐き気は襲ってくる。
唾を飲み込んだだけでも吐き戻しそうになって、私は思わず苦笑した。


「……おい、おい!青山!」


………私?
はっきりと聞こえた声に、私の名前が入っていた気がして動きが止まる。
体調を刺激しないようにゆっくりと顔を上げると、焦ったような顔の男の子が見えた。といっても、口元しか見えないけれど。
だけど、口元しか見えないはずの顔が、声が、誰かに似ていたような気がして。

逆光であまり見えない顔が現れたとき、絶句したのちに首を振った。
だって、彼がここにいるはずがない。

でも、私は目の前の人に縋るようにして手を伸ばした。


「……い、ぶき、くん」
「ああ」


何も掴めないと思っていた手が、暖かい感触に包まれる。
驚いて目を見開くと、伊吹くんは私の腕をそのまま引張ってやや強引に起こさせた。
そこで私の意識は再び朦朧とし、それをなんとか両足で踏ん張る。

それを見た伊吹くんが私の体を自身の体で受け止めるような体勢になり、私の気分は幾分か楽になる。
それでも、ピンと張った糸が緩むように私の意識はどんどん遠ざかっていき、やがて視界も霞んでいくのを感じた。

それでも、最後に一つだけ確認したくて、自分の想像じゃないと確信したくて、目の前のぶっきらぼうでいて優しい人に問いかける。


「…………今、私の名前、呼んでくれた?」


思ったよりも寂しそうな声が出てしまい、私自身驚いた。
でも、私はその答えに何よりも手を伸ばしたい。そう思いながら、開いた口元を見る。

それは一瞬きゅっと結ばれた後、もう一度小さく口を開いた。


「ああ」
「…………そっか。そっか」


その言葉を聞けたことに何よりも安心して力を抜く。

ーーーなぜ、彼に名前を呼ばれただけで、こんなにも胸が温かくなるのだろう。

でも、それは一見冷たそうにも感じるが、その実とても温かいということを、私はもう知っていた。
そんなちぐはぐな、あいまいな感情を持っていながらも、やはりぽかぽかとほのかな暖かさを持つ自身の胸を抑える。


「初めて名前、よんでくれたね」


そう言って彼に笑いかけたとき、「ああ、私は笑えたんだ」と心から思った。
でも、私はいつだって笑っていた。誰にも笑っていない表情を見せないほど、いつも。

なのに、なぜ「笑えた」と今思ったのだろう。

その答えをわかっていながらも、臆病な私は手を出せずにいる。
でも、彼と一緒なら、いつか。

ーーーこの答えを、自身の手で掴むことができるだろうか。

そう思った瞬間、私の意識は真っ暗になった。