この花が咲く場所で、ずっと君を待っていた。

『初恋は叶わない』とはよく言ったものだと思う。

だって私の初恋は、絶対に叶わないものだから。
ずっとずっと焦がれて、憧れて、手を伸ばし続けた人。
それでも、絶対に手が届かなかった私の一番星。

顔も名前も知らない幼少期の思い出。
普通の人なら、そうやって月日とともに片付けることができるのだろう。

でも私は、そうすることができなかった。
過ぎていく月日とは私だけが逆行するように、独りだけで彼との『約束』を今でも果たそうともがいている。



────絶対に果たせないと、そうわかっていながら。














ある、昼の陽射しが暖かい春。

夏休み明けの最初の土曜日に、春乃高校の文化祭が開催された。

いとこのお兄ちゃんが通っていたはる校の文化祭は、他校と同じく九月に行われ、「桜まつり」とも呼ばれる文化祭は普通の学校と比べて大規模なものだ。

地域の人なども毎年楽しみにしており、いつもは生徒や教員だけの校舎も、その二日間だけは一気に人で溢れかえる。

「ねえ、なんで秋なのに『桜まつり』なの?桜はね、春に咲くんだよ!」
「そうだな。でもこの学校は、50年前まで、この時期は桜が咲いてたんだ。今は植え替えられて、普通の桜になったけどな」

お兄ちゃんが言うことは難しくてよくわからないけれど、今はこの桜は咲かないと言うことはわかった。
でも、非日常の空間に興奮した私は、色んなものがカラフルで、綺麗で、全てが新鮮に見えて、そんなことが関係ないくらい、一緒に来ていたお兄ちゃん達からも呆れられるくらいはしゃいでいた。

とにかく私は何も見えていなくて、ただ自分が行きたい場所、やりたいことができるところへ次から次へと移動していた。

いつのまにか母とはぐれてしまっていることにも気づかず、ただ夢中で駆け回り、迷子と気づいたときにはもう手遅れだったと思う。

「……お、おっ、おかあさああああん!!!おにいちゃああん!うっ、うえっ、ええぇぇん…………」

鼻水と涙でグチャグチャのまま歩き続け、私は誰もいないところまで来てしまっていた。


…………だから、その場所へはこようと思ってきたわけじゃない。


私がふと何かを思って立ち止まった時、今までとは違ってしんとした雰囲気に、私は泣き声が止まる。


────目の前には、凛と咲く一本の桜の木があった。


その神聖な雰囲気に、幼ながらも私は一瞬息を呑む。

気がついた時には、一歩、ニ歩と歩き出して、目の前にある大きな木の幹に触っていた。
それは、少し冷たくて、でもどこか暖かい。そんな心地よさに、少し安心する。

でも、肩の力を抜いた途端、誰かの声が聞こえてきて。
だれかわからず、不安でさっきよりも強い力で幹を掴む。
どんどん近づいてくる声が怖くなり、私は思わず目を瞑った。

その瞬間、ぴたりと声が止んだ。

うっすらと目を開けると、目の前には私と同じ歳ぐらいの男の子がいる。
その子は、幼いながらもとても顔が整っていた。
その子は不思議そうな顔で私の前にしゃがみ込んでいる。

「何してるんだ?」

私よりも少し低めな、でも男の子にしては高めな声。
男の子の声に聞き惚れていると、その子はむすっとした顔で私のほおを掴んだ。

「い、いひゃい」
「だったら無視するな」

そのまま潰されたり引っ張られたりして、私のほっぺはどんどん変形していく。

「お前の顔、やわらかいな」

そういって未だにぐにぐにとしてくるので、痛くて思わず視界が潤んできた。

「い、いたいよお…………」

私がまたもやぼろぼろと涙をこぼすと、その子はぎょっとしたように手を離した。

「うわ、なんでお前泣いてるんだ!」
「いたいい…………」
「ああもう、ごめんって。だから泣くなよ」

そう言って優しく頭を撫でてくれたので、涙が引っ込みかける。
だけど、その仕草で母達のことを思い出し、余計に涙が溢れてきた。

「お、おかあさあん…………」
「なんでまた泣き始めるんだよ!おい!お前、ちょっと座ってろ」

そう言ったあと、男の子は私を抱き上げ、美しい桜の木の幹にもたれかけさせる。

「な、なに、するの…………」

ぐずぐずとしている私に向かって、その子は「静かにしろ」と言った。
また頬を潰されたらたまらないので、仕方なく黙る。すると、対象に男の子は大きく口を開いた。

────力強く、伸びやかに歌う。
それは、幼い私でもわかるくらいとても上手で、それでいて歌うことを全力で楽しんでいた。
小学校の音楽の授業の歌声しか聞いたことがなかった私は、その歌がとても綺麗で、歌にそんなものはないかもしれないけど、美しさも感じる。
これが『歌』と言うものなのだと、私は初めて知った。

そして、それは歌声だけではなく、その歌も私の心を惹きつけた。
なんの歌かはわからない。
だけど、そのメロディーはどこか懐かしさを感じるもので、なぜか泣きたくなるくらい優しい歌だった。

さっきまで溢れていた涙が止まる。
その歌が終わったとき、私はぱちぱちと一生懸命手を叩いた。

「すごい、すごいよ!私、こんなにすごい歌聴いたことない!」
「ふふん。そうだろ。俺は天才だからな!」

胸を張って自慢げにしている男の子に、さっきよりも大きく拍手をする。
手を叩きすぎて痛くなった頃、私はじっと男の子を見つめた。
その視線に気付いたのか、男の子は首をこてんと傾げる。

「なんだ?」
「その歌って、なんていう名前なの?」
「名前?まだつけてない」
「つけてないの?つけられてるんじゃなくて?」

お歌には、作った人が名前をつけられてるんだよ、とお母さんが言っていた気がする。
私がそう言うと、男の子は納得したように大きく頷いた。

「ああ。俺とばあちゃんが、この曲を作ったからな!」
「おばあちゃんが作ったの?」
「俺もいるからな!」

おばあちゃんが曲を作ったという言葉に反応して、私は聞き返す。
さっきの『歌』を誰かが作っていることに感動し、私は詳しく聞くために口を開こうとした。

刹那、大きな風が吹いて見事な桜吹雪が舞う。
歌のことも気になるけれど、好奇心旺盛だった私は、目の前の桜の方へ関心がいった。

「ねえ、なんでここだけ桜が咲いてるの?」
「えっと、確か、かいしゅーこーじで、他の桜をうえかえる?ときに、ここだけ忘れられて、そのままなんだって、ばあちゃんが言ってた!」
「かいしゅーこうじってなに?」
「よくわかんないけど、それのせいで他の桜は普通のやつになったんだって!だから、ここは特別ってことなんだ!」
「特別?」
「ああ!ばあちゃんも、一つだけそのままの桜があるって事だけは知ってるんだけど、それがどこかは知らなかったんだ!だから、俺らが最初に見つけたんだぞ!」
「そうなの?じゃあ、ここを知ってるのって、私たちだけ?」
「ここは、特別な場所だからな!」

そう言って胸を張ったあと、男の子はきょろきょろと辺りを見回した。

「そういえばばあちゃん、どこに行ったんだ?」
「もしかして、君も迷子なの?」
「俺が迷子になったんじゃない、ばあちゃんが迷子になったんだ」

そういって頬を膨らますが、目の少し寂しそうな表情が、さっきまでの私にそっくりで。
手をぎゅっと掴むと、男の子の頬がピンク色に染まった。

「な、なにするんだっ」
「ねえ、一緒にほんぶてんとに行こうよ!」

お母さんが、迷子になった時はほんぶてんとに行くんだよって言ってた。
そういうと、男の子は少し迷ったあと、こくりと頷く。

「わかった!俺も行く!」
「よかった!でね、一つお願いがあるの!」

そういって真剣な表情をした私に、相手の子もつられて真剣な顔をした。

「なんだ?ばあちゃんはあげないからな!」
「私もお母さんはあげないよ!そうじゃなくてね、歌を教えてほしいの!」
「歌?」

不思議そうな顔をした男の子に向かって、私は必死に言った。

「さっきの、綺麗な歌!あれが、歌えるようになりたい!」
「ばあちゃんと一緒に作った歌か?うん、いいぞ!特別に教えてやる!」

二つ目の特別に、胸が暖かくなる。
手を繋いで歩き出した私に、男の子は少しだけ不安そうに言った。

「でも、ほんぶてんとってどうやっていくんだ?」
「人に聞いていけばいいんだよ!」
「そうか!」

最後に桜の木をみて歩き出すと、すぐに人がいるところへと出た。
手を繋いだまま、歩いている一組の男の人と女の人に話しかける。

「あ、あの」
「ん?」

すると、男の子が声を上げた。

「あ!!秋斗だ!」
「ようチビ。なんだお前、ほんとに遊びに来たんだな。ばあさんは?」
「ばあちゃんが迷子になった」
「そっか、要するに迷子だな。どこにいるかあてはあるか?」

そういうと、そのお兄さんは男の子のほうを見た後、「こいつはあてにならないからな」といって私の方に視線を合わせる。
びっくりして目を見開くと、隣にいたきれいな女の人が、「顔が怖いわよ」と言いながらお兄さんをつついた。
そういわれた後、お兄さんはにっこりとぎこちない笑みを作って私に聞く。

「お前、」
「秋斗」
「君、どこか集合場所とかお母さんと決めたか?」
「ほ、ほんぶてんと」
「ほんぶてんと?ああ、本部テントか。確か、ここをまっすぐ行って、」
「ここから近いから、連れてってあげたら?」
「それもそうか。」

何かを話している二人の声が聞こえないので、私は諦めて男の子から歌を教えてと頼む。
すると、教えるよりも、俺が歌ってやるから覚えろ!と言った男の子に、それもそうかと頷いて歌ってもらう。

相変わらずとても綺麗な歌声で、私はさっきよりも強く手を握る。
すると、ぴくりと肩が震えたあと、声が止まってしまった。

「な、なんで握った!?」
「だって、声が綺麗だから」
「理由になってないぞ!」

小さな声でそう言い争っていると、お兄さんとお姉さん、そして周りの人たちが、驚いた顔で男の子を見ていた。
特にさっき道を聞いたお兄さんは満足そうにうなずく。

「本当にお前、歌がうまいなあ」
「ああ!俺、歌が大好きなんだ!」
「確かにお前、きれいな声してるしな。歌手とかにでもなるか?」
「歌手?よくわかんないけど、なる!」
「よくわかんないならなっちゃいけないだろ」

そういってわしゃわしゃと頭を撫でられ、満更でもなさそうな顔をする。
…………別に羨ましくなんてない。
ぷいっと顔を逸らすと、小さな手が頭を撫でた。

「………なに?」
「ほめてつかわす」

難しい言葉を使われ、私は意味を聞く。
だが、詳しくはわからないけど、とりあえず誉めているということらしいぞ!と言われ、私はされるがままにした。
しばらくそうしていると、視線を感じて顔を上げる。

「仲がいいなあ」
「そうだね」

そういってにこにこと笑っている二人に恥ずかしくなり、私は二人の背中を男の子と一緒にぐいぐいと押す。
それでも笑ってみている彼らに、なんとか案内してもらった本部テントについた。

スタッフに案内され、知らないうちに私は疲れていたらしい。
椅子に苦労してよじ登って座った途端、私はすぐに眠りの世界に入った。





「……い、おい。お前、お迎え来てるぞ」

この短時間で、聞き覚えのある声に起こされ、少しずつ意識が浮上する。
うっすらと目を開けると、目の前に整った顔が現れた。

「……!?」

男の子は勢いをつけて椅子から飛び降りると、恥ずかしさと驚きで声が出ない私に向かって手を差し出す。

「ほら」

手をどうしようかと迷っている間に、手を握られて椅子から下ろされた。

「あ、ありが」
「咲良、どこに行ってたんだよ。早く帰るぞ」
「う、うん」

お礼の言葉を告げる前に、従兄弟のお兄ちゃんから呼ばれて反射的に振り向く。
すると、その間に男の子は自分の保護者らしいおばあさんのところへ行っていた。

お兄ちゃんに手を繋がれ、距離がどんどん開いていく。


────さっきまでは、あの子に手を握られていたのに。


そう思った途端、いてもたってもいられなくて。
私は思わず、普段では絶対に出さない大声で叫んだ。

「あ、ありがとう!」

周りからの視線が恥ずかしくて、お礼の言葉を言うので精一杯だった。
恥ずかしくなってうつむき、スカートの端を握る。
すると、バタバタと音が近づいてきて、綺麗な瞳と────目が合った。

「なんだ、お前叫べるんだ」

そう言った男の子は、私がお兄ちゃんとは繋がれている反対の手を握る。

「また、特別な場所で待ってるからな!約束だ!」

最後に結ぶだけの指切りをして無邪気に笑う顔が、男の子に言うには相応しくないかもしれないけれど────あまりにも綺麗で、美しかったから。

歩き出した男の子とおばあさんを見送り、背を向けようとする。
火照った頬は熱く、自分の手でぺたりと抑える。

最後に、もう一度顔を見ておこうと思い、振り返った。
その瞬間。

キキーーーーーッッ!!!

「キャーーーーーっ!!!」

何かが止まるような音がした後、ドンッ!という鈍い音が耳に入る。
驚いて声が出ない間に、近くの人たちの悲鳴が聞こえた。

その声でようやく我に帰り、壊れたブリキのようなぎこちない首をなんとか動かす。
そこには、一人の人が血を流して倒れていた。

────あれ、でもあそこにはさっきの男の子がいて。

そんなことを真っ白な頭でぼんやりと考える。
してはいけない想像が脳裏に広がり、すぐに打ち消すが、はっきりしてしまった映像は焼き付いてはならなかった。

ジジジ、と音がして、男の子の笑顔と目の前の血塗れの人とが重なる。

「さくら?」
「…………おにぃ、ちゃん」

救急車を呼ぶために電話していたらしいお兄ちゃんが戻ってきた。
息が吸えなくて、苦しくて、それでも頑張って息を吸って、吸ったら。

世界がぐるんと回転して、気がついた時には家のベッドに横たわっていた。

だけど私は、なぜここにいるのかすらわからなくて。
事故のことは思い出したのに、一緒にいたはずの男の子の顔が思い出せない。
いや、顔だけじゃない。その前に喋ったことも、行動も、私はすべて忘れてしまっていた。
ただ一つだけ、目の前で無残な姿になった大切な人の映像だけが脳裏に蘇る。その他は何も覚えていないというのに、神様というものはなんて残酷なのだろう。
ただ、男の子との指切りの感触だけが妙に残っている。


(約束って、なんだっけ)


とても大切なはずなのに、覚えていたいはずなのに、それ(記憶)は無情にも私の手から零れ落ちていった。
そんな私を心配した母と父、そしてお兄ちゃんや叔母さんたちが私の顔を覗き込んだのが目に入る。
大丈夫だよ。そういったはずの言葉が、掠れて喉につっかえた。


私はあの日、人生で初めて『恋』という感情を知って。
その後にすぐ、『大切な人がいなくなる恐怖』を知って。


────そして同時に、私は人の口より上の部分が、モザイクがかかったように見えなくなっていた。









「………はっ、あ」

懐かしい夢を見た。
何年も前の、それでもちっとも忘れられないこと。

────準モザイク症候群。

私が異変を伝えるとすぐに病院に連れてかれ、その症状はそう判断された。
判断されたと言っても、この症状は異例のことらしく、それは私のために新しく名付けられた病名だった。
治療方法は、もちろんない。だって、私が初めてだから。
過度のストレスと精神的な一時的なものだから、ゆっくり人に慣れていけばいいと、そう言われた。少しずついろんな人と触れて、仲良くなれば、絶対に治ると。
でも、あの日から十年たった今も、悪化もしていないし進展もしていない。

生活に、支障はない。
だって、一回でも話したことのある人なら声で判断すればいいし、そうじゃなかったら髪型や身長、口の形で判断すればいい。
ただ、少しだけ不便なだけ。

いや、少しだけ嘘を言った。
不便なだけ、ではなくて。私は少しだけ、怖い。

十年前のあの日から、私は他の人の顔の上半分がモザイクで見えなくなって。
でも、最初はその「きっかけ」がつらくて、悲しくて、自分自身はどうってことないと思っていた。
……でも、二年前のある出来事から、私はこの治らない、治す方法のない病が憎くて仕方がなかった。

人の表情(かお)がわからないことほど、怖いものはない。

そんなことを考え、一瞬胸がヒヤッとした、瞬間。


────ドサッ。



「え?」


不意に大きな音がして閉じていた目を開ける。
上から落ちてきたらしい「何か」は、落ちたまま動かない。


(上?)


上には、桜の木しかない。
太陽がいつのまにか高いところまで登っていることにも驚いた。そんなに私は寝ていたのだろうか。

一瞬焦るが、それよりもこの目の前の「何か」を無視できなくてまじまじと見る。


「いってぇ………………」


いや、これは、人だ。
何処かをぶつけたのか体をさすっている誰かに声をかける。


「あの、大丈夫ですか?」


さすっている箇所から「誰か」が顔を上げる。
その顔に私は驚き、目を見開いた。

だが相手も同じように目を見開いていて、その人にとっては珍しい。
彼は警戒心が剥き出しの目で私を見つめた。


「………………お前、誰だ?」


それが彼────伊吹桜河との出会いだった。





◇◇◇





「───青山。大丈夫だったか?」
「はい。ご迷惑をおかけしました。」


目の前の担任に頭を下げてから職員室を出る。
一時間目から四時間目まで戻ってこなかった私を、先生はもちろん呼び出した。

すみません、気分が悪くて休んでました。

そう言った私の言葉をすんなりと信じ、心配してくれる人たちがいる。
そのことに僅かに胸が痛みながらも首を振って罪悪感を消した。

何分か歩いているうちに教室についてドアの前に立ち、袖をきゅっと握る。
いつか、普通に入れる日が来るだろうか。

そう考え、無理な話だと自嘲する。
教室に一歩踏み入れると、私を心配していたらしいクラスメイトたちがやってきた。


「青山さん。大丈夫だった?」
「無理しないでね」
「大丈夫だよ、心配してくれてありがとう。」


モザイクがかかって見えない一つ一つの顔に笑顔を返し、自分の席に座った。
すると、いつも休憩時間を過ごしている二人が近寄ってきた。


「咲良、本当に大丈夫?」
「咲良ちゃん、気を使わなくていいんだよ。体調が悪くなったら、すぐに言ってね。」
「二人ともありがとう、大丈夫。」


笑って返事を返すと、二人は何度も振り返りながら自分の席に戻っていく。
モザイクがかかりながらも、二人が本当に私のことを心配しているのが伝わってきた。
でも、そんな優しい二人と喋っている時も苦しく感じる。

まだ微かに震える胸を抑えながら、少し乱れた息を整えた。

ふと教室を見渡すと、さっき会ったばかりの人を見つけ、声をかけようか迷う。
声をかける前にふいっと顔を背けられ、私は少なからずのショックを受けた。

(なんで。)

クラスメイトとは、うまくやっていると思っていたのにな。
また胸の中から出てきそうになった黒いものを押し込む。
わずかに噛んだ唇から、鮮やかな血が滲んだ。





◇◇◇





「────お前、誰だ?」


伊吹桜河(いぶきおうが)。今年初めて同じクラスになった彼は、入学式から良くも悪くも目立っていた。
祖父がフランス人だからと言う理由で色素が薄い茶色の髪と、光の加減によってはピンク色にも見える透明感のある瞳。
そして、彼の規格外に整った顔だった。

……その綺麗な瞳は、私には見えないけれど。
でも、なんとなくの顔の造りはわかる。
彼の長い足や、形の整った薄い唇が彼の美貌をこれでもかというほど主張していたし。

授業はしょっちゅうサボる。だけど成績は優秀。
そして滅多に表情を変えないということが、彼の美貌をより際立たせていた。だがその行動や仕草一つ一つが、見るもの全てを引き付ける。そんな不思議な彼は、学校内では指折りの有名人だった。

警戒心剥き出しで私を見る彼に、嫌な印象を与えないようにと笑いかける。


「私は青山咲良(あおやまさくら)。あなたと同じ2年B組だよ。伊吹桜河くん、だよね。よろしく」


そういって私が差し出した手を、────モザイクであまり見えなけれど────顔の向き的に伊吹くんはじっと見つめる。
そして数秒後に私を襲ったのは、ナイフのような鋭い言葉だった。


「お前、なんでここにきたんだよ。来んな」
「ええと、いきなりでびっくりしちゃったよね、ごめんね」


そういってへらりと笑った私を無視して、伊吹くんは立ち上がる。
待って、と言いかけた私を最後に睨み、彼は言い放った。


「俺、お前みたいなやつ嫌なんだよ」


そうして呆然とした私を置いたまま、四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴る。










六時間目の授業終了のチャイムが鳴り、クラスが一気に騒がしくなる。
さて、帰りは何をしようかと考えた途端、クラスの女子が申し訳なさそうによってきた。

大体の話の見当がついた私は笑顔を浮かべ、近寄って話しかける。


「どうしたの?」
「あ、青山さん!」


相手が話しやすいような雰囲気を出して、私は首をかしげる。


「あのね、今日、掃除当番変わってくれないかな?」
「うん、いいよ」


笑って頷いた私にホッとしたような顔をして笑う女の子。
彼氏ともデートか、それとも一緒にいた女の子達と遊ぶ約束でもしているのだろう。

本当にごめんね、と謝りながら去っていく彼女たちに手を振り、放課後一人で教室を掃除する。どうせ申し訳ないとも思っていないくせに、と思いながら、私は終始笑顔で見送った。
そうして教室の中は誰もいなくなり、1人で箒を持っている私だけが残る。

クラスのみんなは私が一人で掃除をしていると言うことに気づいているのだろうか。いや、どうでもいいか。

一人で黙々と手を動かしていると、ピロンっとスマホから音がする。


『帰りに凪のお迎え行ってきてもらえる?』


母からだ。

凪は今3歳で、私が中学2年生のときに生まれた男の子で、私の帰り道より少し逸れたところの保育園に通っていた。
内容に目を通し、特に問題ないと返事を返す。


『わかった』


ふとメール履歴を見てみる。
5年前とかだと色んな会話があったが、最近のをみると業務連絡しかしていない。
運動場から、野球部の怒鳴り声と、サッカー部の歓声が同時に聞こえた。

スマホをじっと見つめ、ポケットに入れ直す。
胸に疼く黒いものには、気づかないふりをした。







◇◇◇◇◇








「失礼しました。」

掃除が終わり、職員室へ鍵を返す。
帰ろうと一歩足を踏み出したところで、目の前にいた担任に止められた。


「み、やの先生」
「おう。ちょっといいか、青山」


手招きをされ、廊下の隅へと寄る。
宮野先生は、年寄りが多めのこの高校にしては珍しい二十代の先生だ。

確か27歳くらいだったかなと思いつつ私は左手の薬指に光る結婚指輪を見つめる。
銀色のシンプルな指輪は夕日に反射して光り、その眩しさに私は一瞬目を眇めた。

他の先生を気にしながら、宮野先生は私に手を合わせた。

「青山。すまんが、今度の文化祭の出し物のまとめ役、頼んでいいか」
「はい。わかりました。……そろそろ弟の迎えの時間なので、そろそろ行ってもいいですか?」

私はその頼みに頷き、笑顔を浮かべて質問する。いつも通りみんなに浮かべている笑顔は、私の不安定な心をむしろ安心させた。
一瞬何故か顔を俯かせた宮野先生は、次の瞬間には私に向かって快活な笑顔を向ける。


「ああ、そうだな。引き留めてすまなった。気を付けて帰れよ」
「はい」


そう言ってニコリと笑い、踵を返して校門へ歩きながらも、思考は昨日のある場所へといった。
ふと足が止まり、目の前で舞い散る桜の花びらをつかみ取る。

その前にあの場所いこうかな。
「彼」がいるかもしれない。

そんな希望を持った私とき、後ろからバタバタと足音がした後、さっき別れたはずの先生が現れた。


「ちょっと待ってくれ」


宮野先生がもう一度私を止める。
不思議に思い振り返った私に、宮野先生は申し訳なさそうに言った。

「これで最後なんだが。………もし、つらそうな人がいれば、助けてあげてほしいんだ。お前なら、きっと助けることができるから」

つらそうな人。そんな人、私の周りにいただろうか。
首を傾げる私に、先生は苦笑しながら首を振った。

「…………いや、今のはいい、忘れてくれ」
「?………でも、助けてあげたいですね」

心にもないことを当たり前のように言う。

──頼られてる、頑張らなきゃ。
なんで他人のことまで気にしなきゃいけないの。
──つらそうな人を助けるのは当たり前なんだから。
私の方がつらいよ。
──だって私は「いい子」なんだから。
なんで誰も『私』を見てくれないの!

ああ、まただ。
胸から溢れそうになる黒いものを笑顔を浮かべることでなんとか押しとどめ、宮野先生を見る。
宮野先生は、私を見ているはずなのに、どこか空虚な空間を見ていた。


「先生?」


名前を呼ぶと、ハッとしたように目を見開く。
そして今度こそ私を見ると、ポンと肩を叩いた。


「二度も呼び止めて悪かったな。もう帰っていいぞ。」
「あ、先生。」
「ん?」


このあまり担任らしくない先生に、一つ生徒の言葉を聞いてもらおう。
小さく息を吸う。
大丈夫。今は黒いものは、ない。


「仲良くなりたい人に、嫌いだと言われたらどうすればいいですか?」


そういいながら、私は自身の言葉に驚く。
どうやら、私はあの不思議な男の子と仲良くなりたいらしい。

宮野先生はニヤッと笑った。その笑みが誰かと重なり、ずきんと頭が痛む。
けれど次の瞬間にはそれが治っていて、私は首をかしげながらも先生の言葉に集中した。


「決まってんだろ。嫌だとかなんとか言われても、ずっとアタックし続けろ」
「………わかりました。」


一瞬考えたのち頷いた私の背中を、宮野先生が軽く押す。


「行ってこい。」
「はい。」


彼にどんなに嫌がられたって、ずっと通い続けよう。
────だって私は、彼と仲良くなりたいのだから。
胸の中にいつも居座っている黒いものが、今は少しだけ軽くなっていた。






◇◇◇






パタパタと生徒が遠ざかっていく音を聞きながら、宮野はヒラヒラと手を振る。
青山なら、きっとあいつを助けられる。


「だってお前ら、似たもの同士だもんな。…………伊吹」


宮野が寂しげに呟いた言葉は、夕暮れに溶けていった。






「────ごちそうさまでした」



そしていつも通り母が帰ってくる時間にご飯を作って、いつも早く帰ってくる────正確には、凪が生まれてから早く帰ってくる父と合流し、4人でご飯を食べる。

大丈夫、ちゃんと私は「いい子」をやれている。

一足先に食べ終わった凪が積み木で遊んでいる。
でもすぐに飽きたのか、今度は本を読み始めた。

その間に私は食器を洗い、家事を終わらせる。
…‥‥‥たまには、お母さんたちと喋ってみてもいいだろうか。


「お母さん、お父さん、」
「えほん!えほん!」


私が話しかけようとすると、一人で遊ぶのに飽きたのか凪が絵本をバンバンと叩く。
誰かに読んで欲しいという意味を察したのか、母と父が同時に立ち上がった。

だが、凪の元へ向かう前に、私の方をちらりと一瞥する。
そんなことで嬉しくなる自分が少し馬鹿らしく、悲しかった。


「咲良、何か言いかけたか?」
「あ、いや、」
「ごめんな、でもちょっと凪のところ行ってくるな」
「あの、」
「でも、咲良はいい子だもの、大丈夫よね」


両親を引き留めようとした手がぴたりと止まる。
そうだ、私は「いい子」なんだから、大人しくしてないと。


────私、いい子にしてるよ、凪よりもいい子だよ。
────どうしたら、私のこともみてくれるの。


収まりきらない言葉が次々と溢れてくる。
でも、それを言葉にする勇気がなくて、ただその場にうずくまって吐き気と頭痛に耐えるだけだった。






◇◇◇






今日も伊吹くんは教室にいない。

いつも授業をさぼっているので、今日もきっとどこかでのんびりしているのだろう。
眠気に耐えながら三時間目まで乗り切り、四時間目の道徳が始まる。

テーマは『一日をどう生きるか』。
担任の宮野先生が黒板にみんなの意見を書いていく。
「楽しもうとして生きる」「後悔をしないように生きる」。
楽しむことなんて、もうとっくの昔に諦めている。後悔なんて、毎日同じことを思いながら苦しんでいる。
どうしてみんなは、希望をもつことが苦しいとわかっていながら抱き続けるんだろう。

そんなことをぼんやりと考えながら、私は空を真っ二つにする飛行機雲を見つめた。


(何にも考えなくたって、どうせ同じ一日が過ぎるだけなのに)


途切れることのなかった飛行機雲が、遠くの空に消えていくのが見えた。
あ、消えた。そう思った瞬間、私の頭はぐらりと揺れて、視界が真っ暗になる。


「…………ま。あーおーやーまー。青山!」
「ひゃい!」


耳元で大声で叫ばれ、私は反射で返事する。
それがなんとも間抜けな声で、周りからくすくすと笑いが起こる。どうやら私はあの後寝てしまったらしい。学級委員長なのに、これじゃあみんなに示しがつかない。

そんなことを考えながらも、私は自分の心臓の嫌な音を感じていた。

大丈夫。これは、嫌な笑いじゃない。
でも、────怖い。
また溢れ出てきそうになった黒いものを、笑顔を浮かべることで抑える。
モザイクがかかって見えないけれど、きっとみんな笑っている。
だって、


『咲良ちゃんって、何でみんなと同じにできないの?』
『青山さん、いい子にできるよね?』


二年前に言われた言葉を思い出し、ひゅっとのどが鳴った。

大丈夫、私は大丈夫。だって私は「いい子」なんだから。私が「いい子」にさえしてればきっとみんなは笑ってくれる。
そう言い聞かせながら何度か軽く深呼吸して、気を落ち着かせる。

ようやく落ち着いたと思った時には、四時間目の授業は終わっていて、私は密かに安堵の息を漏らした。


「さーくらっ。お昼一緒に食べよー」


後ろの席から肩を叩かれ、私は振り返る。
すると、私の友達である星崎朱莉と矢野遥が立っていた。
朱莉は名前通り明るい性格で、クラスのムードメーカー。いつも高い位置で結んだ髪の毛を揺らしていて、体育委員の委員長だ。

遥は朱莉と違ってほんわか系で、見ているだけで癒される。笑顔がなんとも可愛くて、男子からの隠れファンも多い。図書委員に所属していて、「図書館の天使」とひそかに呼ばれているのを私は知っていた。

その二人と私が、いつもクラスでいるグループだ。
授業の合間や昼休みにいるのだってその二人だし、よく帰りに遊びにも行く。
二人は高校生になって、初めてできた大切な友達だ。

……でも、二人にも準モザイク症候群のことはいっていない。
担任にだって伝えていないし、入学するときも何も書かなかった。書いたらきっと先生はみんなに伝えるだろうし、それによって二年前の二の舞になると思った。

母たちはせめて先生にだけはとか言っていたけど、凪のお迎えの時間が来ると、あっさり帰ってその話は忘れてしまったようだった。結局のところ、両親の私に対する関心はそんなものだ。

嫌なことまで思い出してしまい、軽く頭を振る。そして同時に、まだ二人の期待があるのを自分でも感じていた。
ここまでされているのに、まだ私は二人に対して未練があるらしい。
そんな子を考えてく苦笑したところで、不思議そうに朱莉と遥に顔をのぞかれる。

そこで二人の誘いに頷こうとしたところで、ふと男の子の姿が思い浮かんだ。
今日も行ってみようかと悩み、外をチラリと見て晴れているのを確認する。


「ごめん。ちょっと今日は用事あるんだ。」


手を合わせて二人に謝ると、遥はキョトンとして私を見た。
対称に、朱莉は私の顔を見てからかうような声を出す。


「どうしたの、咲良ちゃん。最近忙しいよね。先生からの用事?」
「ちょっと、遥。なーに聞いてんのよ。彼氏に決まってるでしょ」
「違います」


朱莉の言葉を即座に否定する。
彼氏でも何でもなく、むしろ私は『嫌い』と言われたのだ。

「とりあえず行ってくる」と私がいうと、手を振って送り出してくれた二人に手を振り返しながらも、私は校舎裏へと歩みを進めていた。









◇◇◇◇◇









「あれ、いない」


授業にいなかったから、絶対にここだと思ったのだが。
周りを見渡しても誰もいない気配に、やはりいつもここにいるわけではないようだと肩を落とす。
肩を落としてから、なぜ私はこんなに落ち込んでいるのだろうと首を傾げた。

結局、しばらく探しても見つからなかったので、お弁当を持って回れ右をする。
あの二人は、もう食べ終わっているだろうか。
そう考えて二、三歩進んだ後、最初に会った時のことを思い出した。


(まさか…………上にいる、とかないよね)


一度目を瞑り、覚悟を決めて上を見る。
…………そのまさかだった。
伊吹くんは立派な桜の木の枝に寝そべり、微動だにしていない。

「死んでないよね?」

縁起でもないことを誰にともなく呟き、とりあえず胸が上下しているのを見て安堵した。
持ってきたお弁当を抱えて、私はキョロキョロと食べる場所を探す。

木の根っこに座りやすいところがあり、そこにすとんと腰を下ろした。
いつも自分で作っている変わり映えのない弁当を食べながら、伊吹くんの観察をしてみる。

(髪、きれいだな)

噂通り色素が薄い茶色の髪は、陽の光を浴びるごとにキラキラと輝いている。
そんな風に見つめながら、どうせ起きないしと一人で話す。

「今日、道徳があったんだけど」

伊吹くんからの反応はない。
まだ寝ているのかなと思いつつ、そのまま喋り続けた。


「『一日をどう生きるか』だって。………そんなこと考えなくても、勝手に同じ毎日が来るのに」


最後に自分の意見を小さな声で言うと、伊吹くんがピクリと反応した。


「………その同じ毎日が、こない人がいるんだよ」


小さく聞こえた伊吹くんの声に、私はびっくりして立ち上がる。
伊吹くんの思ったより低い声にもびっくりしたが、まさか昨日の今日で喋ってくれると思わなかった。


「伊吹くん!?」
「うるせえな。つか、最初にくんなっつったろ。何で毎回くるんだよ」
「だって私、伊吹くんと仲良くなりたいから。」
「何だそれ」


宮野先生の言葉を思い出しながら会話を続ける。あの担任のアドバイスは、意外と的確だったかもしれない。
思わず顔を綻ばせる私に伊吹くんは怪訝そうな顔をした。


「…………お前、マジで何」
「なんでしょう」


伊吹くんといる時は、吐き気がしないどころか黒いものがなくなったように胸がスッと軽くなる。
教室にいるときは、友達と話していてもどこか息苦しさを感じていたからこそ、この時間は私にとって唯一息苦しさを感じない時であり、気が抜ける貴重な空間だった。

でも、そんなことは目の前の男の子は知る由もないんだろう。
口を緩ませながら弁当を開き、箸を手に取る。

そこで、彼の手には弁当も購買のパンもないことに気づいた。


「あれ、伊吹くん。ご飯は?」
「いらねえ。別に昼はなくてもいいし。」


さらりとそんなことを言ってのけた伊吹くんに顔をしかめる。伊吹くんは、どんなにモデル体型だろうが、足が細かろうが、れっきとした男子高校生なのだ。
きちんと栄養を取らないと、病気になってしまうかもしれない。まあ、準モザイク症候群にはならないだろうけど。

睨むように伊吹くんを見ていると、彼がじっと私のお弁当を見つめていることに気づく。
私はひょいとお弁当箱を持ち上げた。


「これ、食べる?」
「いらねえ」


即座に否定された言葉に苦笑し、お弁当箱を戻す。
すると、不意に伊吹くんが喋りかけてきた。


「お前さあ」
「え?」


伊吹くんが初めて私に話しかけてきた。最初に名乗ったはずが苗字すら呼んでくれないらしい。
そんなどうでもいいことに気を取られている私に、語気を強めた伊吹くんがもう一度いった。


「お前。最初の変な顔、なに」
「変な顔?」
「なんか、名前勝手に名乗ってきた時の」


思い出していたことをそのまま話題にされ、私は目を瞬く。

名前を名乗った時。確か、いつもと同じように笑っていたはずだ。変な顔はしていないはずだけれど。
笑顔で対応すると、みんな好印象を抱いてくれるから。そして、少しだけ息をするのが楽になり、自分はここにいてもいいという証明になる気がした。

余計なことを考えて首を振る。

今この時間だけは、息苦しさも何も感じないのだ。わざわざ嫌なことは考える必要はない。
何も言わない私に痺れを切らしたのか、伊吹くんが言葉を重ねた。


「いつもあんな変な顔してんの?教室でも変な顔してんじゃん。今は、してないけど。」


そもそもあんた、教室にいないでしょう。
そんな突っ込みを言うべきかということと、変な顔の定義について考える。

すると、いつの間に寝ていたのか、隣から穏やかな寝息が聞こえてきた。
自分から話題を振るだけ振って、すぐに寝るとはなんとマイペースな。

そう考えながらも笑みがこぼれるのが自分でもわかり、そんな自分に苦笑する。
上を見ると、暖かな木漏れ日からはみ出た光を浴びた、色素の薄い髪が輝いていた。
だが、男の子にしてはやはり体はほっそりしている。

食べようと思っていたお弁当の蓋を閉じ、私はメモ帳を取り出す。


『よかったら食べてください。手はつけていません』


そろそろ昼放課の終了を告げる予鈴のチャイムが鳴る。
私は教室へと歩き出した。








放課後。
昼休憩と同じく校舎裏へ向かうと、相変わらず一定のリズムの寝息を立てている伊吹くんを見つけた。
そして、一度上へと向けた視線を今度は下へずらす。

同じ場所に弁当箱が置いてあるのを見て、どうやら案の定手は付けていないようだと苦笑した。
だが、いきなり食べてくれるとは思っていない。

これからゆっくり仲良くなったら食べてくれるだろうかと考えながら、私はこの学校でなぜか唯一咲いていない木の元へと向かう。
そうしてお弁当箱を手に取ると、予想とは違う重さに目を瞬いた。


(…………軽い)


振っても揺らしても中からは物音ひとつせず、すべて食べられたのだということがわかる。
よく見ると、お弁当箱の上には、私とは違うメモ帳が挟まっていた。


『ご馳走様』


意外と達筆で綺麗な字を見つめる。
がさりと上から音がして、目元にモザイクがかかった男の子が現れた。


「うまかった」


そういって彼は木から飛び降り、呆然とする私をおいて校舎とは反対方向へと向かう。
私が立ち止まっていると、ああそうだ、と伊吹くんが後ろを振り返った。
「変な顔」事件という名の前科がある彼だったから、私はびくりと身構えた、けれど。


「ーーーーーありがとう」


伊吹くんが、笑った。
少しだけ八重歯をのぞかせ、優しい透き通った声で私に感謝の言葉を言いながら。


私はその瞬間、彼の顔にモザイクがかかっていながらも「美しいな」と思った。
美しい。まさにその時の彼にはその言葉がとてもしっくりきた。


舞い散る桜を背景に、無邪気に笑う男の子。
それをみて、私は思ってはいけないことを思ってしまったのだ。

それにモザイクがかかっていなかったら、さぞ綺麗なんだろうと。
何の障害もない綺麗な状態で、その美しい景色を見てみたいと。


ーーーーーそんな、叶えられない望みを願ってしまったのだ。


その瞬間、どうしようもない吐き気と頭痛が私を襲った。
今までにないほどの強烈な痛みと気持ち悪さが走り、その場に思わずうずくまる。

そして、私は滲んだ視界ながらもなんとか目を開け、校舎に手をつきながらここから離れようと歩き出した。
ここでもどしてはいけない。
だってここは、私たちの「特別な場所」で。


(あれ、特別な場所って、なんだっけ)


それが何かとても大切なことのような気がして、痛む頭を抑えながらも考えこむ。
だが、知らず知らずのうちに私の体力は限界になっていたらしい。

ふらりと体が傾いた感覚がして、次の瞬間には並行しているグラウンドの土が見えた。
ああ、限界かな。

そう思った瞬間、ザッと音がして目の前に大きめの靴が現れる。
顔を上げようとしたが、結局は何もできなくてそれをじっと見つめた。

それはどんどん近づいてきて、あろうことか私の目の前で止まった。


(…………最悪)


我ながら最初に出てきた感想に嫌気がさす。
どうやら私は、こんな状態になっても、いやこんな状態だからこそ誰にも見られたくないらしい。


「……い」


目の前の人も、早くどっか行ってくれたらいいのに。


「……い、お前」


頭痛は痛すぎて何も感じなくなってきた。でも、相変わらず吐き気は襲ってくる。
唾を飲み込んだだけでも吐き戻しそうになって、私は思わず苦笑した。


「……おい、おい!青山!」


………私?
はっきりと聞こえた声に、私の名前が入っていた気がして動きが止まる。
体調を刺激しないようにゆっくりと顔を上げると、焦ったような顔の男の子が見えた。といっても、口元しか見えないけれど。
だけど、口元しか見えないはずの顔が、声が、誰かに似ていたような気がして。

逆光であまり見えない顔が現れたとき、絶句したのちに首を振った。
だって、彼がここにいるはずがない。

でも、私は目の前の人に縋るようにして手を伸ばした。


「……い、ぶき、くん」
「ああ」


何も掴めないと思っていた手が、暖かい感触に包まれる。
驚いて目を見開くと、伊吹くんは私の腕をそのまま引張ってやや強引に起こさせた。
そこで私の意識は再び朦朧とし、それをなんとか両足で踏ん張る。

それを見た伊吹くんが私の体を自身の体で受け止めるような体勢になり、私の気分は幾分か楽になる。
それでも、ピンと張った糸が緩むように私の意識はどんどん遠ざかっていき、やがて視界も霞んでいくのを感じた。

それでも、最後に一つだけ確認したくて、自分の想像じゃないと確信したくて、目の前のぶっきらぼうでいて優しい人に問いかける。


「…………今、私の名前、呼んでくれた?」


思ったよりも寂しそうな声が出てしまい、私自身驚いた。
でも、私はその答えに何よりも手を伸ばしたい。そう思いながら、開いた口元を見る。

それは一瞬きゅっと結ばれた後、もう一度小さく口を開いた。


「ああ」
「…………そっか。そっか」


その言葉を聞けたことに何よりも安心して力を抜く。

ーーーなぜ、彼に名前を呼ばれただけで、こんなにも胸が温かくなるのだろう。

でも、それは一見冷たそうにも感じるが、その実とても温かいということを、私はもう知っていた。
そんなちぐはぐな、あいまいな感情を持っていながらも、やはりぽかぽかとほのかな暖かさを持つ自身の胸を抑える。


「初めて名前、よんでくれたね」


そう言って彼に笑いかけたとき、「ああ、私は笑えたんだ」と心から思った。
でも、私はいつだって笑っていた。誰にも笑っていない表情を見せないほど、いつも。

なのに、なぜ「笑えた」と今思ったのだろう。

その答えをわかっていながらも、臆病な私は手を出せずにいる。
でも、彼と一緒なら、いつか。

ーーーこの答えを、自身の手で掴むことができるだろうか。

そう思った瞬間、私の意識は真っ暗になった。



ーーーーー目を開くと、そこは知らない天井だった。

なんてことはなく、目の前には見慣れた自身の部屋がある。
数秒かけてあたりを見回す。そして、確かに自分の部屋であることを確信した。


(でも、なんで?)


私は最後、何をしてたんだっけ。
そう考えながらも、ずきりと痛む頭を抑える。

ああそうだ、私は気持ち悪くて倒れて、気を失って。
それで、なんでここにいるのだろう。

深呼吸をしながら、目の前にあるカーテンを勢いよく開く。
夕方だと思っていた時間は、いつの間にか朝になっていた。
カーテンを開けたせいで一気に眩しくなった視界に目を眇めつつ、私は時間を確かめる。


「六時」


大丈夫、まだ間に合う。
そう頷き、まだふらつく足元に気を付けながらも階段を下りる。
六時なのでさすがに誰かが起きているらしく、リビングの明かりを頼りに、一歩ずつゆっくりと進んだ。

ガチャリとドアを開けると、新聞を読んでいる父と目が合った。


「おはよう」
「…………おはよう」


機械的に交わされるあいさつを返しながら、私は一瞬の迷いののちに二人分のお弁当を作り始める。

ただのお礼。ただのお礼。

そう言い聞かせていないと直ぐに火照ってしまう頬を抑えながら、私は順調に卵焼きを焼いていく。いつも気になっていたはずの父の姿は今だけ全く気にならなかった。
フライパンに影が差したことで顔を上げると、口元に弧を描いた母が目の前にいた。


「いいわねえ、お弁当。これ、お友達の?」
「………………あ、うん。そう、朱莉たちの」


母の言葉にぎこちなく頷き、嘘をついたことに罪悪感を覚える。
「お弁当を持ってくること、朱莉ちゃんたちに伝えた?」と聞く母に対して、「ううん、まだ」と答えると母はぱあっと顔を輝かせた。


「ねえ、ならこのお弁当お母さんにくれない?」
「え?」
「まだ伝えてないならいいでしょ。私、凪のお世話で忙しくって、手作りの弁当最近食べてないのよ。」


お世話してないくせに。どうせ暇なんだから、自分で作ればいいじゃん。
母に対してそんな感情が出てきた自身に驚く。そして、少しの気持ち悪さを感じた。

お母さんになんてこと思ってるの。ちゃんと私は「いい子」でいなきゃ。
そう考えて、私は笑顔を貼り付けて母が持っている詰め終わった弁当箱を取り返そうとする。
だが、母は「別にいいじゃないの」といって笑って交わしていた。

そんな母に対し、どんどん苛立ちが募っていく。


「お母さん」
「お母さんも食べたいのよー」
「ねえ、ちょっと」
「たまにはいいでしょ?」


一向に返す気配がないやり取りをしているうちに、私の胸には黒いものが溢れ出してくる。
ああ、やばい。


「ーーーーー返してよ!」


そう思ったときには手遅れで、私は大きな声で叫んでいた。
やばい、と思ったけれど、母は「あら、からかいすぎちゃった?」と何事もないように笑っていて。父も、「たまにはお母さんにあげてもいいんじゃないかなあ」と笑顔だった。
そんな普通の、いつものはずだった光景に私が顔をゆがめたとき、黒いものが私の全身を一気に覆った。


なんで笑ってるの。なんが面白いの。私はこんなにも苦しんでるのに、なんで二人は何も気にせずに笑えているの。


一度そう思ってしまったら、どす黒い感情が沸き上がってくるまで直ぐだった。

うざい。
嫌だ。
ひどい。
嫌だ。
憎い。
嫌だ。
死んでしまえば、


「嫌だ!」


心の声をかき消すように叫ぶ。
両親はいきなり叫んだ私を一瞬訝し気に見た後、「疲れてるのか?」と労い始めた。

いつも洗い物やってもらってすまんな。凪のお迎えもよくやってもらってごめんな。咲良のこともあまり構ってあげれなくてごめんなさい。

いつも言われているはずの言葉が、今日は嫌に引っかかった。
違う。私が欲しいのはそんな言葉じゃない。


『ーーーありがとう』


そういって、モザイクがかかりながらも笑った男の子の姿が脳裏に浮かび上がる。
その瞬間、目の前にいる人たちの口元がぐにゃりと歪んだ。

確かに上がっていたはずの口角が、頬が、歪んでいく。
笑っていた、はずだ。さっきまで、ちゃんと笑っていて。

あれ、笑ってるって、なんだっけ。口角が上がってること?だったら、さっきまで上がっていたんだから、二人はちゃんと笑っていたんだよ。ちゃんと、本当に笑ってて。


ーーー本当に?本当に、『笑って』いた?


そう自問した瞬間、引っかかっていた糸がするするとほどけていく。
同時に、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、という鳴り響く心臓の音を、私は感じていた。


…………そうだ、なんで私は忘れていたんだろう。


誰よりも『笑顔』を多く浮かべているのは。偽りに溢れた感情をすべてそれで隠し、『笑って』いるのは。
他でもない、私自身。


そう気づいた瞬間、滝のような汗がどっと溢れてくる。
気持ち悪い。

ただその感情だけが私を支配した。
冷や汗が急激に私の体温を奪っていき、顔色が真っ青になっていくのが自分でもわかる。

耳鳴りが脳の奥で響き、汗が私の顎を伝うとぽたりと床にシミを作った。

本当は、自分の気持ちにきちんと向き合ってから答えを見つけたかったのに。こんな、最悪な状況(シナリオ)で答えを突き付けられたくはなかった。

気持ち悪い。顔を見てもいないくせに、みんなが笑顔を浮かべていると思っていた自分が。笑顔で感情を取り繕い、嘘をついていた自分が。偽りの笑顔を当たり前のように作っていた自分が。そしてそれを全て自分に対して親切にしてくれた人のせいにしていた自分が。すべて、気持ち悪い。

はっ、はっと自身の呼吸の音が聞こえることで、なんとか意識を保っていた。
視界がぐるぐると回る。目の前の両親の顔が見えない。

笑っている?怒っている?悲しんでいる?それともーーーーー


何も、私に対して感情を持っていない?


そんなはずが、ない。
きっと、私は愛されていて、それで。

凪が、生まれたから、私は。


(そんなこと、ない)


一瞬思いついた考えを打ち消し、小さく首を振る。
その拍子に、視界がぐらりと揺れた。

反射的に前に手を伸ばしたが、その手は空振りする。
前は確かな暖かさを掴んでいたその手は、いとも簡単に手放された。

両親の視線は、起きて二階から降りてきた凪に向けられていた。


「どうして………」


抑えきれない感情が胸から溢れ出る。
私が見ることのできない目元がじわりとにじむのを感じながら、私はずるずるとしゃがみ込んだ。
凪が生まれてからの三年間、ずっと思っていた。
そして今この瞬間、すとんと腑に落ちたのだ。


ああ、二人は私のことなんてどうでもよくなったんだ。


そう思った瞬間、黒いものが溢れていても、もう何も感じなくなったのがわかる。

────準モザイク症候群にかかっているから構ってくれなんて、そんな我満は言わなかった。
でも、二人の子供として、愛されていると。

「昔は、思ってたのになあ……………。」

そういって、リビングの床に座り込み、額を抑える。
でもそれは頭痛のためではなく、色々なことに対する感情に向き合うためだ。
それらをすべて吐き出すように、大きな息を吐く。
吐き気も、もうない。

代わりに、寂しさともつかない諦めが胸に広がった。

(ああ、もうお母さんたちは)

私のことなんて、どうでもいいんだ。
今まで目を背けていたことからきちんと向き合うと簡単に出た答えに、涙すら出てこない。

でも、なにか。………いや。
どうして何も感じなくなったのに、こんな気持ちになるのだろう。
一瞬だけ芽生えた感情に蓋をして、私は二階から目を逸らす。

私は結局お弁当を持って玄関に向かった。
もし伊吹くんが食べなかった場合は、一人で食べればいいだろう。
そう考えながら、「いってらしゃい」すら言われない静かな家から一歩踏み出す。

その拍子に、ブレザーのポケットからカサッという小さな音が聞こえてきた。
なんだろうと思いながらポケットを探る。

『ご馳走様』

昨日もらった達筆なメモ書きを見つめる。
こんなゴミなんてどうでもいい。そう思って捨てようとしたけど、捨てる気分になれなくてもう一度ポケットに突っ込む。

もう感じないと思った胸の痛みと吐き気が、そのメモに触れた時だけ、なぜか一瞬だけ蘇ってきた。

だけど、不思議に思ったときにはまた何も感じなくなっていて、首を傾げる。
そのまましばらく歩き続けると、私と同じ制服の生徒が現れ始めた。

おはようと交わされる挨拶に笑顔で返しながら、やはりいつも感じていただるさなどが消えている────いや、感じないことに気づかないふりをする。

近くの店にあるウィンドウに映った私の胸は、真っ黒に染まっていた。





何も感じないとは、こんなにも楽なものなのか。
そう考えながら、私はいつも通りの笑顔を顔にはりつけて、朱莉達としゃべる。

でも、痛みや吐き気を感じないと言うことは、楽しさも感じない。
普段痛みを抱えているけど、朱莉達との会話はそれなりに楽しんでいるはずだった。

────伊吹くんと喋る時も、こうなるのかもしれない。

(…………それは、嫌だな)

嫌だ。そうはっきりと感じた自分に驚く。
だが、すでに気のせいだと首を振った。

何も辛くない。でも、何も感じない。
それは、あの日からいつも息苦しさを感じながら生きてきた毎日と、どっちがいいんだろう。


────ぼんやりと考えながら過ごす今日は、やっぱりなんの変化もない。








何にも感じないというものはすぐに時が流れるらしく、私にとっては何分かの感覚で昼放課になった。
そして、前と同じように朱莉と遥に断りを入れる。

快く送り出した二人に不安の色が浮かんでいたのを見て見ぬふりをして、私は校舎裏へと急ぐ。
校舎裏には、もう伊吹くんが待っていた。

「もう」というか、授業に出ていないのでずっといたのだろうが。そして、そもそも私を待っていない。

自分自身にそう返しながら歩いていると、何か気配を感じたのか、上半身を起こした伊吹くんが遠目に見えた。
私はそれに手を振るが無視される。
だが、最初に比べたら大きな進歩だろうと思いながら駆け寄った。

伊吹くんがいるという事実だけで、家からずっと冷たかった心が温かくなっていく。


「伊吹くん」
「またきたのか」


そう言いながらも、ちゃんと返事を返してくれる伊吹くんは、やっぱり優しい。



「…………お前、体は?」
「え?」
「昨日、倒れてただろ」


どうやら彼は、あのあと保健室まで私を運んでくれたらしい。
そして、保健室の先生は帰り道の途中だったからと言って私を家まで送ってくれたとか。
本当に二人には頭が上がらない。

そう思いながら桜の根に腰かけ、私は大きなお弁当を開く。
ふわりと漂う匂いに、伊吹くんが軽い身のこなしで桜から降りた。

「お、うまそう」


伊吹くんの口から出た言葉に、何故こうも安心するのだろう。
そう考え、導き出された答えに納得する。


「伊吹くんは、いつも真っ直ぐだね」
「は?」


お弁当箱をじっと見つめていた伊吹くんが首を傾げる。
その動作が猫みたいで、私は思わずクスリと笑った。

伊吹くんの前では笑えることに思った以上に安堵しながらも、私は言葉を続けた。


「伊吹くんはいつも真っ直ぐだから。私も、伊吹くんと一緒にいる時は素直になれる気がする。」


大丈夫。伊吹くんが真っすぐだから、私も素直になれるだけ。この感情に、名前などない。
…………でも、この時だけ笑えることに喜ぶくらいは、いいよね。

そう思いながら笑った私に、伊吹くんは一瞬目を見開き、ふんと鼻を鳴らす。


「………あっそ」
「可愛くないけど」


私が笑ってそう付け足すと、伊吹くんは無視してお弁当箱を指差す。


「これ、食っていいの?」
「うん。そのために作ってきたから。好きなのとっていいよ」


私がそういうと、私が持ってきた箸を手に取り、伊吹くんが唐揚げをつかみとる。
パクリと口に卵焼きを放り込む姿をいつの間にかじっと見つめていたらしく、伊吹くんが顔を顰めた。


「………なに」
「何も」


笑いながら私も卵焼きを口に入れると、甘い風味が口に広がった。
味は問題ないと頷くと、続いて卵焼きを食べた伊吹くんが口の動きをぴたりと止めた。


「甘い」
「え、卵焼きって甘いんじゃないの?」


私が首を傾げてそういうと、伊吹くんもまた首を傾げる。


「しらん。ばあちゃんのはしょっぱかった」
「そっか。じゃあ、今度はしょっぱいの作ってくるね」


いつの間にか毎日作ることになっていることに気づき、伊吹くんの顔色を伺う。
でも、伊吹くんは何も思わなかったのか、そのままコロッケを食べていた。

毎日作れるならそれでいいやと思い、私はポテトサラダを口に入れる。
緩む顔を、伊吹くんに見られないように隠すので精一杯だった。












それからもずっと、私はなにも感じない毎日が続いた。
ただただ単調に過ぎていく毎日と、それとは逆に増していく胸の重み。
お母さんたちとは、今までとは少し違っている。
だけど、悪いほうの意味で、だ。

それはむしろ家族より毎日顔を合わす他人と言われたほうがしっくりくる状態で、ご飯は相変わらず作っているけど、全くかかわらない状態がずっと続いている。
なぜなら、できるだけ帰る時間や起きる時間、ご飯を食べる時間さえもずらし、顔を一瞬合わせることはあっても、しゃべる時間は作らないようにしているから。

凪とも喋らないようにして、徹底的に避けている。
弟は何も悪くないのに、責めてしまいそうだった。
話しかけられそうになっても、急いで自分の部屋に篭り、母の手伝いも両親が帰ってくる前に終わらせている。

お陰で、最近喋るのはほとんど伊吹くんと朱莉たちだけだし、メールの履歴はしばらくの間空っぽになっている。
もう少し関わろうとしてくれてもいいんじゃないかと思ったりもしたが、前とは違い何も感じない心が、私の諦めを表していた。

そして、気がかりなのは朱莉たちのほうだった。
朱莉や遥たちといるときも何も感じない罪悪感が、私のすべてを否定しているような気がして、息がしづらくて。
かといって、家の事情や準モザイク症候群についても言えるはずがない。
そんな学校が嫌だったけれど。

だけど、伊吹くんと一緒にいる昼休みと放課後が私が人間として、唯一温かさを感じられる時間で、何も感じない私が、楽しさや嬉しさを感じて、素直になれる時間だったから。
その時間が無くなるのが怖くて、結局私は毎日学校に通い続けていた。

そして毎日伊吹くんと一緒にお昼ご飯を食べる日は続き、時には「味付けが違う」「焼き加減が違う」などの感想を言いつつも、私たちの交流が途切れることはなかった。
彼のそばは、とても心地がいい。

そうして2ヶ月ほど経ち、文化祭の出し物などを決める時期が近づいている。

だけど、去年の文化祭では、私は欠席していた。
夏休み序盤、何度も出席しようとしたが、十年前の出来事が蘇って何度も欠席していたら、いつのまにか入りにくい空気になってしまっていたからだ。
結局当日も休み、文化祭には一切関わっていなかった。

あまり思い出したくないことに思いを馳せながら、今日もモザイクがかかっている男の子を見る。
立派な桜の木を背景に、お弁当というものが全く似合わない目の前の男子は、いつも通りお気に入りの卵焼きを口に放り込んでいた。

「ねえ伊吹くん」
「ん?」

ご馳走様、ときちんと手を合わせ、箸を戻す伊吹くんに問いかける。
ご飯ついてるよ、と指摘しながら私も箸を戻した。

「文化祭って、どんな感じだった?」
「知らん」

考える間も無く一瞬で帰ってきた言葉に固まる。
それをどう思ったのか、伊吹くんは頬についたご飯を拭いながら続けた。

「俺、去年の文化祭休んでたんだよ。だから知らん」
「なるほど」

さっきよりも丁寧に解説された解答に頷き、お弁当箱を袋に入れる。
そんな私に、伊吹くんが訝しげな顔をして私をみた。

「…………お前は?」
「私?わ、私はちょっと、その、家の用事で……」

しどろもどろになりながらそう答えると、伊吹くんが私と校舎を見比べた。

「それ、そんなに楽しいの?」

胡散臭げに言い放つ伊吹くん。
といっても、ほかの人には無感情で声を出しているように聞こえるのだろうが。いつも声で人を判別している私だからわかる違いだ。
それに最近分かってきたのだが、彼は最初は無表情だけど、私や宮野先生などの比較的多く話す人に対しては、少しだけ表情を変化させる。
まあ、上半分にモザイクがかかっている私には、口元しかわからないけれど。

そんな少しだけ表情を変える彼に向かって私はぼんやりと返す。

「そうなんじゃないかな。みんな楽しみそうにしてるし」
「お前は?」
「……え?」
「お前は、楽しみじゃないの?」

予想外の質問に詰まる。
だが、いつものように笑顔を作り、伊吹くんに向けた。

「わかんないよー。だって私、出席してないって言ったじゃん」

声をあげて笑うと、伊吹くんはチッと舌打ちをする。
舌打ちされたことを気にして笑顔を引っ込めると、伊吹くんの歪んだ口元が元に戻る。

「え、なに」
「『桜まつり』だっけ?それ」
「ちょっと。……はあ。そうそう、そんな名前だよ」

私の質問がスルーされたことはいつものことなので、淡々と返された声に頷く。
そして、そのあと直ぐにぐるりと伊吹くんの方を向いた。

「何で知ってるの?」
「行ったことあるから。十年くらい前だっけ。」

さらりと言われた言葉に私は目を見開く。
だけど、その喋り方で、あまりいい思い出はないのだなと悟った。

「そっか」

そういって何も聞かずにお弁当をしまう。
伊吹くんは、驚いたのか少し口を開けていた。

「お前、何も聞かないの?」
「聞いて欲しいの?」
「……いや」

切り返された言葉に伊吹くんが答える。

その勢いのままずいっと顔を寄せると、目元のモザイクがより鮮明に映った。
私が近づくと、伊吹くんはその分少し離れる。が、そのまま私は更に顔を近づけた。

さっき戻ったはずの距離がまた縮まる。
固まる伊吹くんには構いもせず、私は目があるだろう位置に目を合わせた。

「じゃあ、いい思い出はないの?」

そういうと、伊吹くんは少しだけ目を伏せた後、ポツリと言った。

「あんまり、記憶はないけど。……知らない女の子と、遊んだ気が、する」
「女の子」

伊吹くんにはおおよそ似つかない言葉にリピートする。
私の驚きがわかったのか、伊吹くんは少し不機嫌そうに言った。

「なんだよ、悪いか」
「いや、ううん、全然悪くないんだけど。女の子、女の子か」

少しだけもやもやする胸の内を悟られないようにする。
そんな私を一瞥した後、伊吹くんは伸びをしながら私に聞いた。

「お前はなんかそういうのないの?」
「え?私?私は……。うん、そうだね。」

あたたかな日差しを思い出す。それだけではない、風の優しさも、花の香りも。
言葉に詰まった後、小さく微笑みを浮かべた私を見た伊吹くんの動きが止まる。
ぴしり、と効果音が鳴りそうなほどに見事に固まった彼は、口を大きく開けていた。

詳しく説明しようと顔を上げたところ、思ったよりも近い場所に伊吹くんの顔があり、私たちは向き合う形になる。
異性の子がこんなにも近くにいるという事実に驚き、同じように固まってまじまじと見てしまった私のバカ。

見つめあってしまう形になった私たちで、先に目をそらしたのは伊吹くんだった。
プイと私から顔をそらし、視界に入るのは色素の薄い綺麗な茶色の髪だけとなる。

「え、」
「こっち見んな」
「えっ」
「喋りかけんな」
「ええっ」

話しかけようとすると、間髪入れずにさえぎられた。
怒ってしまったのだろうかと慌てていると、伊吹くんが後ろを向く。

その耳は、ほんのりと赤い。

(あああ、やっぱり怒ってる!)

心の中で絶叫し、私は伊吹くんに何とかこっちを向いてもらおうと必死になる。
だが、やればやるほど伊吹くんの耳は赤くなっていった。

明らかに悪化しているのが目に見えてわかる。
これ以上怒らせてはたまらないと断念したところで、昼放課終了の予鈴がなった。
慌てた立ち上がった私に、伊吹くんはやっとこっちをみる。

「じゃ、じゃあ私授業行ってくるね」

お弁当をつかんで走りだそうとすると、なぜか後ろからぐいと腕が引っ張られた。
一人しかいないだろう犯人に、意外と力が強いなどとどうでもいいことを考えながら後ろを振り返る。

すると、なぜか伊吹くんも私と一緒に立ち上がっていた。

「俺も行く」
「………へ?」

たっぷり十秒ためてから私は伊吹くんへと聞き返す。
そんな私の答えに少しイラついたように伊吹くんがもう一度言った。

「俺も行く」
「ちょ、ちょっと待って。もう一回言って」

伊吹くんの声がよく聞こえなくてそうお願いする。いや、聞こえてるは聞こえているのだが、脳の理解が追い付いていなかった。
伊吹くんが今度こそというように一文字一文字句切りながら言う。

「だから。俺も行くって言ってんの」
「え………ええええ!!!」

脳の理解が追い付いた瞬間、私の絶叫が校舎裏に轟いた。