六時間目の授業終了のチャイムが鳴り、クラスが一気に騒がしくなる。
さて、帰りは何をしようかと考えた途端、クラスの女子が申し訳なさそうによってきた。

大体の話の見当がついた私は笑顔を浮かべ、近寄って話しかける。


「どうしたの?」
「あ、青山さん!」


相手が話しやすいような雰囲気を出して、私は首をかしげる。


「あのね、今日、掃除当番変わってくれないかな?」
「うん、いいよ」


笑って頷いた私にホッとしたような顔をして笑う女の子。
彼氏ともデートか、それとも一緒にいた女の子達と遊ぶ約束でもしているのだろう。

本当にごめんね、と謝りながら去っていく彼女たちに手を振り、放課後一人で教室を掃除する。どうせ申し訳ないとも思っていないくせに、と思いながら、私は終始笑顔で見送った。
そうして教室の中は誰もいなくなり、1人で箒を持っている私だけが残る。

クラスのみんなは私が一人で掃除をしていると言うことに気づいているのだろうか。いや、どうでもいいか。

一人で黙々と手を動かしていると、ピロンっとスマホから音がする。


『帰りに凪のお迎え行ってきてもらえる?』


母からだ。

凪は今3歳で、私が中学2年生のときに生まれた男の子で、私の帰り道より少し逸れたところの保育園に通っていた。
内容に目を通し、特に問題ないと返事を返す。


『わかった』


ふとメール履歴を見てみる。
5年前とかだと色んな会話があったが、最近のをみると業務連絡しかしていない。
運動場から、野球部の怒鳴り声と、サッカー部の歓声が同時に聞こえた。

スマホをじっと見つめ、ポケットに入れ直す。
胸に疼く黒いものには、気づかないふりをした。







◇◇◇◇◇








「失礼しました。」

掃除が終わり、職員室へ鍵を返す。
帰ろうと一歩足を踏み出したところで、目の前にいた担任に止められた。


「み、やの先生」
「おう。ちょっといいか、青山」


手招きをされ、廊下の隅へと寄る。
宮野先生は、年寄りが多めのこの高校にしては珍しい二十代の先生だ。

確か27歳くらいだったかなと思いつつ私は左手の薬指に光る結婚指輪を見つめる。
銀色のシンプルな指輪は夕日に反射して光り、その眩しさに私は一瞬目を眇めた。

他の先生を気にしながら、宮野先生は私に手を合わせた。

「青山。すまんが、今度の文化祭の出し物のまとめ役、頼んでいいか」
「はい。わかりました。……そろそろ弟の迎えの時間なので、そろそろ行ってもいいですか?」

私はその頼みに頷き、笑顔を浮かべて質問する。いつも通りみんなに浮かべている笑顔は、私の不安定な心をむしろ安心させた。
一瞬何故か顔を俯かせた宮野先生は、次の瞬間には私に向かって快活な笑顔を向ける。


「ああ、そうだな。引き留めてすまなった。気を付けて帰れよ」
「はい」


そう言ってニコリと笑い、踵を返して校門へ歩きながらも、思考は昨日のある場所へといった。
ふと足が止まり、目の前で舞い散る桜の花びらをつかみ取る。

その前にあの場所いこうかな。
「彼」がいるかもしれない。

そんな希望を持った私とき、後ろからバタバタと足音がした後、さっき別れたはずの先生が現れた。


「ちょっと待ってくれ」


宮野先生がもう一度私を止める。
不思議に思い振り返った私に、宮野先生は申し訳なさそうに言った。

「これで最後なんだが。………もし、つらそうな人がいれば、助けてあげてほしいんだ。お前なら、きっと助けることができるから」

つらそうな人。そんな人、私の周りにいただろうか。
首を傾げる私に、先生は苦笑しながら首を振った。

「…………いや、今のはいい、忘れてくれ」
「?………でも、助けてあげたいですね」

心にもないことを当たり前のように言う。

──頼られてる、頑張らなきゃ。
なんで他人のことまで気にしなきゃいけないの。
──つらそうな人を助けるのは当たり前なんだから。
私の方がつらいよ。
──だって私は「いい子」なんだから。
なんで誰も『私』を見てくれないの!

ああ、まただ。
胸から溢れそうになる黒いものを笑顔を浮かべることでなんとか押しとどめ、宮野先生を見る。
宮野先生は、私を見ているはずなのに、どこか空虚な空間を見ていた。


「先生?」


名前を呼ぶと、ハッとしたように目を見開く。
そして今度こそ私を見ると、ポンと肩を叩いた。


「二度も呼び止めて悪かったな。もう帰っていいぞ。」
「あ、先生。」
「ん?」


このあまり担任らしくない先生に、一つ生徒の言葉を聞いてもらおう。
小さく息を吸う。
大丈夫。今は黒いものは、ない。


「仲良くなりたい人に、嫌いだと言われたらどうすればいいですか?」


そういいながら、私は自身の言葉に驚く。
どうやら、私はあの不思議な男の子と仲良くなりたいらしい。

宮野先生はニヤッと笑った。その笑みが誰かと重なり、ずきんと頭が痛む。
けれど次の瞬間にはそれが治っていて、私は首をかしげながらも先生の言葉に集中した。


「決まってんだろ。嫌だとかなんとか言われても、ずっとアタックし続けろ」
「………わかりました。」


一瞬考えたのち頷いた私の背中を、宮野先生が軽く押す。


「行ってこい。」
「はい。」


彼にどんなに嫌がられたって、ずっと通い続けよう。
────だって私は、彼と仲良くなりたいのだから。
胸の中にいつも居座っている黒いものが、今は少しだけ軽くなっていた。






◇◇◇






パタパタと生徒が遠ざかっていく音を聞きながら、宮野はヒラヒラと手を振る。
青山なら、きっとあいつを助けられる。


「だってお前ら、似たもの同士だもんな。…………伊吹」


宮野が寂しげに呟いた言葉は、夕暮れに溶けていった。