「………はっ、あ」
懐かしい夢を見た。
何年も前の、それでもちっとも忘れられないこと。
────準モザイク症候群。
私が異変を伝えるとすぐに病院に連れてかれ、その症状はそう判断された。
判断されたと言っても、この症状は異例のことらしく、それは私のために新しく名付けられた病名だった。
治療方法は、もちろんない。だって、私が初めてだから。
過度のストレスと精神的な一時的なものだから、ゆっくり人に慣れていけばいいと、そう言われた。少しずついろんな人と触れて、仲良くなれば、絶対に治ると。
でも、あの日から十年たった今も、悪化もしていないし進展もしていない。
生活に、支障はない。
だって、一回でも話したことのある人なら声で判断すればいいし、そうじゃなかったら髪型や身長、口の形で判断すればいい。
ただ、少しだけ不便なだけ。
いや、少しだけ嘘を言った。
不便なだけ、ではなくて。私は少しだけ、怖い。
十年前のあの日から、私は他の人の顔の上半分がモザイクで見えなくなって。
でも、最初はその「きっかけ」がつらくて、悲しくて、自分自身はどうってことないと思っていた。
……でも、二年前のある出来事から、私はこの治らない、治す方法のない病が憎くて仕方がなかった。
人の表情がわからないことほど、怖いものはない。
そんなことを考え、一瞬胸がヒヤッとした、瞬間。
────ドサッ。
「え?」
不意に大きな音がして閉じていた目を開ける。
上から落ちてきたらしい「何か」は、落ちたまま動かない。
(上?)
上には、桜の木しかない。
太陽がいつのまにか高いところまで登っていることにも驚いた。そんなに私は寝ていたのだろうか。
一瞬焦るが、それよりもこの目の前の「何か」を無視できなくてまじまじと見る。
「いってぇ………………」
いや、これは、人だ。
何処かをぶつけたのか体をさすっている誰かに声をかける。
「あの、大丈夫ですか?」
さすっている箇所から「誰か」が顔を上げる。
その顔に私は驚き、目を見開いた。
だが相手も同じように目を見開いていて、その人にとっては珍しい。
彼は警戒心が剥き出しの目で私を見つめた。
「………………お前、誰だ?」
それが彼────伊吹桜河との出会いだった。
◇◇◇
「───青山。大丈夫だったか?」
「はい。ご迷惑をおかけしました。」
目の前の担任に頭を下げてから職員室を出る。
一時間目から四時間目まで戻ってこなかった私を、先生はもちろん呼び出した。
すみません、気分が悪くて休んでました。
そう言った私の言葉をすんなりと信じ、心配してくれる人たちがいる。
そのことに僅かに胸が痛みながらも首を振って罪悪感を消した。
何分か歩いているうちに教室についてドアの前に立ち、袖をきゅっと握る。
いつか、普通に入れる日が来るだろうか。
そう考え、無理な話だと自嘲する。
教室に一歩踏み入れると、私を心配していたらしいクラスメイトたちがやってきた。
「青山さん。大丈夫だった?」
「無理しないでね」
「大丈夫だよ、心配してくれてありがとう。」
モザイクがかかって見えない一つ一つの顔に笑顔を返し、自分の席に座った。
すると、いつも休憩時間を過ごしている二人が近寄ってきた。
「咲良、本当に大丈夫?」
「咲良ちゃん、気を使わなくていいんだよ。体調が悪くなったら、すぐに言ってね。」
「二人ともありがとう、大丈夫。」
笑って返事を返すと、二人は何度も振り返りながら自分の席に戻っていく。
モザイクがかかりながらも、二人が本当に私のことを心配しているのが伝わってきた。
でも、そんな優しい二人と喋っている時も苦しく感じる。
まだ微かに震える胸を抑えながら、少し乱れた息を整えた。
ふと教室を見渡すと、さっき会ったばかりの人を見つけ、声をかけようか迷う。
声をかける前にふいっと顔を背けられ、私は少なからずのショックを受けた。
(なんで。)
クラスメイトとは、うまくやっていると思っていたのにな。
また胸の中から出てきそうになった黒いものを押し込む。
わずかに噛んだ唇から、鮮やかな血が滲んだ。
◇◇◇
「────お前、誰だ?」
伊吹桜河。今年初めて同じクラスになった彼は、入学式から良くも悪くも目立っていた。
祖父がフランス人だからと言う理由で色素が薄い茶色の髪と、光の加減によってはピンク色にも見える透明感のある瞳。
そして、彼の規格外に整った顔だった。
……その綺麗な瞳は、私には見えないけれど。
でも、なんとなくの顔の造りはわかる。
彼の長い足や、形の整った薄い唇が彼の美貌をこれでもかというほど主張していたし。
授業はしょっちゅうサボる。だけど成績は優秀。
そして滅多に表情を変えないということが、彼の美貌をより際立たせていた。だがその行動や仕草一つ一つが、見るもの全てを引き付ける。そんな不思議な彼は、学校内では指折りの有名人だった。
警戒心剥き出しで私を見る彼に、嫌な印象を与えないようにと笑いかける。
「私は青山咲良。あなたと同じ2年B組だよ。伊吹桜河くん、だよね。よろしく」
そういって私が差し出した手を、────モザイクであまり見えなけれど────顔の向き的に伊吹くんはじっと見つめる。
そして数秒後に私を襲ったのは、ナイフのような鋭い言葉だった。
「お前、なんでここにきたんだよ。来んな」
「ええと、いきなりでびっくりしちゃったよね、ごめんね」
そういってへらりと笑った私を無視して、伊吹くんは立ち上がる。
待って、と言いかけた私を最後に睨み、彼は言い放った。
「俺、お前みたいなやつ嫌なんだよ」
そうして呆然とした私を置いたまま、四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴る。