ふらふらになりながらも何とか凪のお迎えを済ませて、シャワーを浴びた後にベッドに倒れこむ。
自分が思っていたよりもはるかに疲れていたらしく、夕飯は作ることができなかった。
母へと「夕飯は各自で作ってください」というメッセージを送り、そのまま電源を消す。
凪には簡単なものしか食べさせていないので、母が帰るころにはきちんとしたご飯を食べさせてもらっているだろう。
そんなことを考えているうちに私はうとうととしてしまい、いつの間にか次の日の朝になってしまっていた。
最初に起きて熱を測り、「………36.5度」と呟く。
彼とは顔を合わせにくいとはいえ、自分の自然治癒能力が恨めしい。
昨日夕ご飯を食べる時間に寝てしまった反動なのか、私は4時というなんとも早すぎる時間帯に起きてしまっていた。
全く襲ってこない眠気が来るのも諦め、まだ仄暗い階段を下りていく。
前もこんなことあったな、と思ったがあまりいい思い出じゃなかったので首を振って忘れた。
「誰も、起きてない」
リビングの明かりを見て、父も起きていないようだと胸をなでおろす。
そのままキッチンへと向かい、結局二人分のお弁当を作ることにした。
今日は甘いの、と呟きながら冷蔵庫から卵を取り出そうとしたところで、足に何かがくっつくのがわかる。
この、子供特有の高めの体温は。
「…………凪?」
少しためらった後、血のつながった自身の弟の名前を呼ぶ。
自分の顔を隠すように俯いているのが私にそっくりで、放っておけなくて、見えない目線を合わせるためにしゃがみ込む。
昨日は放っておいてっていったくせにね、と自身を自嘲しながらにっこりとほほ笑んだ。
「あ、あの。あのね…………」
「うん。」
まだしたっ足らずの、3歳という子供ながらも自分の意見を伝えようとしている弟に頷く。
するとその瞬間、ぽたりと何かが落ちる音がした。
「ごめんなさい………………」
「え?」
床を見ると、次々に水滴が零れ落ちていく。
呆然として目の前を見ると、凪の頬を大粒の涙が伝っていた。
「なんで、謝ってるの?」
「悪い子で、ごめんなさい。いい子にできなくて、ごめんなさい」
いい子。
その言葉に、私は小さく身を震わせる。
聞き覚えのあるその言葉は、今の私に大きく響いた。
その間にも、凪はしゃくりあげながらも言葉をつないでいく。
「お、おね、ちゃんが。僕のこと、ずっと、会ってないって。会いたくないんだって、わか、ってた」
まだ日が出ていない静かなリビングに、凪のしゃくり声と私の荒い息づかいだけが聞こえた。
ただ零れ落ちていく涙を見つめながら、目の前の小さな弟を見つめる。
「きらわれ、てるって。わかってた、けど、でもっ」
「嫌いじゃ、ないよ」
考えるまでもなく出てきた言葉に、自分自身が驚く。
自分の胸に手を当てて、気持ちを確認するようにぎゅっと掴む。
こんな小さな弟に、そんなことを言わせて、苦しませている自分が、何よりも情けない。
凪のことは、苦手だった。
お父さんとお母さんとの時間も、自分自身の時間も奪われるし、そういうところにイライラすることもあったけれど。
でも。
「凪のこと、嫌いじゃない。好きだよ。私は。凪のこと。」
「…………ほん、ほっと、に?」
好きだった。初めてできた、大切な大切な弟。
余裕がなかった三年前の時でさえ、「この子を守らなければならない」と思っていた。
ただ、大切で、守りたくて。
それがいつから、こんなにも醜い感情になってしまったのだろう。
「私は凪のこと、好きだよ。嫌いなんて思ってない。だから、泣かないで」
泣かせたかったわけじゃない。ただ守りたかった、だけなのに。
そんな大切な人を、守りたい人を泣かせてしまっているのは、私自身。
「でも、おねえ、ちゃんは。僕のこと、いやだよね」
「嫌じゃない。嫌なんかじゃない。」
目元が見えないせいで凪の涙が拭えない。この時ほど、準モザイク症候群をもどかしく思ったことはない。
代わりにぽろぽろと涙をこぼす凪の頭をそっと引き寄せ、私の肩に乗せる。
涙で、私の服がじんわりと湿った。
「本当に好きだよ、凪。だから、泣かないで」
「………ほん、とに。すきなの?」
「うん。本当に好きだよ」
「ほんとの、ほんとうに、すき?」
「本当の本当に、好き」
「………………そっかぁ」
弟がそう呟いて、私の肩から顔を離すとごしごしと目をこすった。
慌てて私が止めると、凪は私の手を上から重ねて握り締める。
凪の手は私の何十倍も小さく、もろく壊れてしまうような手。
その手をじっと見つめていると、凪はふいに顔をくしゃりと歪めた。
「僕、このままでいいのかなぁ…………」
いい子じゃなくて、いいのかなぁ。
そんな風に呟いた凪の言葉に、私は小さく息を呑む。
こんな風になるまで思いつめていた弟に、なぜ私は気づくことができなかったのだろう。
「………おねえちゃん。僕、このままで、いいのかな。変わらなくて、いいのかな」
「うん、もういい。もういいから。いい子なんかじゃなくて、いいから。お願い。お願いだから」
ずっと、三年前からの願いで。
叶えられなかった、忘れていた、大切な想い。
「お姉ちゃんに、凪を守らせて。」
じわりと視界がにじむ。
ダメだとわかっていながらも、それは下へと流れ落ちた。
冷たいような、暖かいような感触が頬を撫でる。
今度こそ、絶対に守ってみせるから。
すると凪が、ぱちぱちと目を見開いたあと、目の周りが少しだけ赤いまま目を細めて笑う。
ああ、私が守りたかったのは、この笑顔だ。
「お姉ちゃんは、昔からずっと僕のヒーローだよ。」
誰にも見つけてもらえなかったとき、いつも迎えに来てくれた。風邪で苦しかったとき、いつも僕と一緒にいてくれた。
そんな、私でも覚えていないような些細な出来事を数え上げては嬉しそうに笑う凪に、私は一つの決心をする。
「お姉ちゃんは、これからもずっと凪のヒーローでいるね。」
今度こそ、大切なものを見失わなずに自分の手で守るために。
◇◇◇◇◇
泣きつかれて眠ってしまった凪の体をそっと抱きしめ、抱っこをしながら二階へと上がる。
凪の寝室は、両親と同じ部屋だ。
銀色の無機質なドアの取っ手を見つめる。
(…………ずっと、開けられなかった)
ドアの前で悩んでは閉めて。それでも開けようとしては、勇気が出なくて結局閉じた。
それを一つの深呼吸で掴み、ぐるりと勢いよく回す。
ガチャリという小さな音を立てながら開いたそれは、いとも簡単に私を部屋の中へ招き入れた。
穏やかな寝息を立てる凪を、両親の間にそっと置く。
何の夢を見ているのか、ときおり何かを呟く凪の寝顔をみて微笑みながら、弟に向かって絶対に届いてないであろう言葉を落とした。
「────大好きだよ、凪」
その言葉は聞こえていないはずなのに、凪は幸せそうに笑う。
冷たくなっていた胸の奥に、小さな、でも暖かな光が灯った。