ーーーーーまさか、さっき体調が悪いと言っていたのが本当になるなんて。

そんなことを考えながら、私を自身の体を引きずって保健室へと向かう。
今日は凪のお迎えが頼まれているので、体調が悪いなら今のうちに少しでも回復しておきたい。

授業中に熱っぽいなと思っていたら、まさかの熱があったらしい。
教室の体温計で体温を測ると、38度という高熱が出ていたことが発覚した。授業が始まるまで一緒にいた二人と伊吹くんが心配だ。

ちなみに伊吹くんは違う講座をとっているので別のクラスだ。
確か隣の校舎だったっけと思いつつ、廊下に手をつく。
ひんやりとした温度が暑い体に気持ちいい。

そのままぺたりと右半分の体を壁に押し付け、ずるずるとしゃがみこんだ。
今日は、色々とついていない。

自身の額に、冷やしたばかりの手を乗っけると、燃えるように熱い自分の体温を実感する。
三分ほど休憩したところで、今度こそ保健室へと向かうためにもう一度立ち上がる。

だが、力を入れたと思ったはずの脚は一歩目を踏み外し、私の視界と体は同時にぐらりと傾いた。


ああ最近は、倒れてばかりだ。


そんなことを考えている間にも、私の体はスローモーションのようにどんどん力が抜けていく。
そのまま地面に激突するかと思ったとき、私の体は何者かによって受け止められていた。

だけど、それが誰かを確認する手段は私にはない。
誰だろうと考えながらも、私の頭には一人の不器用な男の子の姿が思い浮かんでいた。








◇◇◇










「……………から、とりあえず青山さんの親には連絡を入れないとね」
「はあ」
「ふふ、最初伊吹くんが女の子をお姫様抱っこしてきたときは、何事かと思ったわ。二回目だったらもう驚かないと思ったけど、やっぱり何回でも驚くものね。しかも、同じ子」
「はあ」


くぐもっていてあまりここまで聞こえてこない会話が耳に入ると、私の意識はゆっくりと浮上する。
少しずつ覚醒してきた意識をコントロールしながら起き上がると、先ほどまで話していたと思われる二人が口を開いて私を見た後、片方の人の口元はにっこりと弧を描く。


「あら、目を覚ましたのね」
「………はい。ここは?」
「保健室よ。伊吹くんがあなたをここまで運んでくれたの」
「伊吹くんが?」


驚いて彼の顔をまじまじと見る。
相変わらず口より上は見えないけれど、その顔は少しだけ困っているように見えた。

先生が私の顔色を見ながら声をかける。


「見たところまだ熱があるっぽいけど、大丈夫?」


その言葉に首を縦に振る。
正直まだ少し体は熱いけれど、そんなことを言っている場合ではなかった気がする。
確か、なにか頼まれていたことが。

私が思い出そうと必死になっている間に、伊吹くんは自身のバッグを持ちながら保健室の先生に声をかけた。


「じゃあ俺、帰ります」
「気を付けてねー」


そう言ってひらひらと手を振る先生に一礼してから部屋を出ようとした伊吹くんの動きが、ぴたりと止まった。
彼はゆっくりと不思議そうな顔の私を振り返り、手元をじっと見つめる。
そのことにより、私が伊吹くんの制服を掴んでいたせいで出れなかったことに気づいた。


「え………あっ、ご、ごめん、本当に、無意識、で」
「…………」
「あ、あの、……………ごめんなさい」
「…………別に」


とにかく謝ることしかできずにいると、彼はそういってドアの方へ歩き出す。
一度ちらりと私を振り返った後、そのまま静かに出て行った。

足音が聞こえなくなるまで何も言えずにいると、いつの間にか私の目の前に移動していたらしい先生から肩を叩かれた。


「じゃあ、今から青山さんの両親に電話かけるから。お迎えが来るまで待っててね」


その言葉に、私は思わずハッとして立ち上がる。
まだ安静にしてないと、といった先生の言葉を遮って、「今何時ですか!?」と叫んだ。

急な私の行動に困惑しながらも、「四時半だけど…………」と律儀に答えてくれる先生に頭を下げ、歯を食いしばってベッドから飛び降りる。
まだ少しふらつく体に歯噛みしながらも、私は全力で走り出した。


「四時半。凪のお迎えは5時だから、まだ間に合う。」


口の中で単語を転がしながら、私は静かな廊下を駆け抜ける。
ところどころで転びそうになりながら、私は何とか校舎から出た。

そのままの勢いでコンクリートを踏みしめて、私は駅がある方向へと前へ前へと足を動かし続ける。
そして、校門の前を歩いていた男の子の横を通り抜けようとした瞬間、腕を掴まれた。

目の前を、トラックが通り抜けていた。
信号は、赤だった。

呆然とした私に向かい、腕をつかんだ張本人は怒ったように腕をつかむ力を強める。
いや、怒ったようにじゃない。彼は、怒っている。


「…………伊吹、くん」
「保健室で安静にしているようにって、言われてただろ。しかもお前、やっぱり熱あるじゃん」


今までで一番の長文を聞いたような気がするな、と現実逃避を考える。
やっぱりということは、彼は私が嘘をついていることに気づいていたのだろう。
だけど、彼の口元は何かに耐えるように噛みしめられていて、それで私は我に返った。


「は、はなして」
「お前、本当に今の状況わかってるのか。轢かれるところだったんだぞ」
「わ、わかってるよ。でも、凪のお迎えが、」
「そんなことよりも、お前のことだろうが」


今までよりも、強い口調。
まるで憎んでいるかのようなそれが、私の足を止めさせる。
それとは対照に、私の胸からは黒いものが溢れ出していく。

早く放してよ。
伊吹くんにとっては『そんなこと』でも、私にとっては大切なことなんだよ。
だって、こんなことすらもできなくなったら、私は「いい子」じゃなくなって。


「…………もう、放してよ」


これ以上汚いところを見せたくなくて、見せられたくなくて、今言える精一杯の抵抗の言葉を呟く。
その声は思ったよりも何倍も弱々しくて、掠れていた。

信号は、もう青になっている。

腕を振りほどこうと揺らすが、その手はびくともしなかった。
もう嫌だ。こんなことをしている状況も、何もかも。

ーーーーー私と同じだと思っていた彼は何倍も真っすぐだった。
だって、彼の手が、言葉が、私に訴えかけている。
私と彼は、違うんだと。
私と違って、どこまでも真っ白で綺麗なのだということが嫌でもわかった。


「………早く、凪のお迎えいかないと」
「今日ぐらい、別に休んでもいいだろ」
「……………今日ぐらいって、何。伊吹くんは、私の何を知ってるの」


今、私の一番醜いところがさらけ出されている。
だから、もうやめて。これ以上、私の醜いところが他の人に見られる前に。

信号は、また赤になってしまっている。


「わからいよ、伊吹くんには!だって伊吹くんは、私と違う!」


お願いだから。


「違うってなんだよ。同じ人間に決まってるだろ。何が違うんだ」
「伊吹くんは、どこまでも真っすぐで、正直で、こんなに汚くて醜い私とは真反対の場所にいる!生きてるところが違うんだよ!」


私が俯いて、全てを隠している間に。


「さっきのだって、生きている場所だって、全部同じだろ。何変なこと言ってるんだよ」
「違う!全部全部、何もかも違う!本当に汚いんだよ、私なんか!伊吹くんが思っている、何十倍も何百倍も!」


そうしたら、誰にも見られないうちにすぐに元通りになるから。


「俺は、お前を汚いと思ったことなんてない!」
「ーーーーーっ、ほっといて!!!!」


ああ、言って、しまった。
差し伸べられた手を払いのけ、俯いていた顔を上げる。
伊吹くんが驚いたように息を呑んだのが聞こえた。


「ほら。汚いって、笑うんでしょ。醜いって、顔をゆがめるんでしょ。そんなことは、もう一番わかってるから。自分で一番、わかってるから………………」


だからもう、ほっといて。
強く叫んだはずの言葉は空気に溶け、周りは何事もなかったかのように動き出す。
力が緩んだ一瞬の隙に、点滅している青の歩道へ走っていった。


「っ、おい!」


伊吹くんが止めている声が聞こえたけれど、無視してそのまま駅へと向かう。
ちょうど来た電車に乗り込みながら、私は小さく息を整えた。

せっかく、仲良くなれたと思ったのに。
ぶっきらぼうに見えて本当は優しいところとか、卵焼きの味付けを毎回楽しみにしてくれているところとか、実は味音痴なところとか。
全部全部きっと私だけが知っていて、それを宝物のように思っていた。
なのになんで、あんなことを言ってきたんだろう。本当に伊吹くんは最低だ。嫌いだ。

だけど、と胸の裡では言葉が続く。

じわりと視界がにじむのを、唇を噛んで耐えながらスカートの端を握る。


(そう、本当は、自分が一番よくわかっているんだ)


そうやって人のせいにして、現実から目を背けている自分が。
八つ当たりをして、勝手に傷ついている自分が。



ーーーーーーそんな私が、一番最低で、大っ嫌いだ。