「きゃあああぁ!」
耳をつんざくような悲鳴があがった。
「ローラ陛下! しっかりしてください! 誰か! 誰かいないの?! 陛下!」
慌てふためく侍女の声を聞きながら私は意識を手放す。私はこの後もう二度と目を覚ますことはない。
ーーーー。
「高崎! 高崎渚!」
タカサキ? 誰? 変わった名前……。
頭を軽く叩かれて、私は目を覚ました。
「高崎! 私の授業中に堂々と居眠りするのはやめなさい。後で職員室に来るように」
「……」
私、死んだんじゃなかったの?
私はぼんやりする頭で辺りを見回す。大勢の若者が同じ服を着て、小さな机についている。ここは……学校。記憶が徐々に戻ってきた。
私はローラ、じゃなくて、そう、この先生が呼ぶ高崎渚だ。ここは高校の教室。
「高崎? どうした。具合でも悪いのか?」
「いえ、すみませんでした。大丈夫です」
椅子を引いて、姿勢を正す。
最近夢見が悪くてよく眠れないせいで、授業中にうとうとしてしまう。
前世というものがあるのだったら、私の見る夢は前世の夢なんだろうと思う。かなり物騒なものだ。私はどうやら自死をしたらしい。理由までは分からない。
「渚、最近授業中よく寝てない? 体調大丈夫?」
授業後、愛花が声をかけてきた。
「うーん、なんか眠いんだよね。春だからかな」
「まあね〜、春は眠いよね〜」
同じくクラスメイトの莉奈が睫毛をいじりながら相槌を打つ。
「でもさ、最近渚、クマヤバいよ?」
「え?! ほんと? パウダーで隠さなきゃ」
トイレでお粉をはたきながら、確かにひどい顔してるなと思った。でも愛花たちには夢のことは言えてないし、言っても信じてもらえる自信がない。
私、なんで自死なんてしたのかな。
夢を見るようになってからずっと消えない疑問。それほど絶望することがあったんだろうか。侍女がいるほど身分が高かった私。今の自分とはかけ離れ過ぎていてその悩みも想像がつかない。
まあ、いいや。所詮、夢。本当に前世かどうかも分からないしね。
お手洗いを出て教室に戻ろうとした時、階段の方から来た男子にぶつかりそうになって、私は避けようとした。けれど、間に合わずにその男子に躓いて転びそうになる。そんな私を抱き止めたのはぶつかった男子だった。
「大丈夫ですか? すみません。気がつかなくて」
同じ学年ではないのかもしれない。見覚えのない男子が私の目を覗き込んでいる。彼の瞳孔に私は吸い込まれるように見入った。
な、何、これ?!
一気に記憶が脳内に溢れてくる。ローラだった私の記憶。
…………。
ああ。全て思い出した。そうか。私は。
「クリス……」
私は彼の名前を呟いていた。
「え? あの、僕は木山、です」
木山と名乗った男子は戸惑うように言った。
「ご、ごめんなさい!」
「いえ。大丈夫、ですか? 泣くほど痛かったですか? 保健室に連れていきましょうか?」
木山君に言われて私は初めて自分が泣いていることに気がついた。恥ずかしい。
「いえ、大丈夫。木山君も授業があるでしょう? ありがとう」
「じゃあ、僕行きます。何かあったら一年三組なんで来てください。えっと、あなたは……」
「私は二年四組高崎です」
「高崎先輩、じゃあ、お大事に」
木山君は一度ペコリと頭を下げると反対側へ歩き出した。
木山君。
クリスとは全く外見が違う。
それでも私には分かった。彼は間違いなくクリスだと。私が前世で愛した人だと。
***
「初めまして、ローラ女王陛下。僕はクリスと申します」
私がクリスに初めて会ったのは、私の城にクリスの父親である敵国の王、エドガーが私との会談にクリスを連れてきたからだった。
エドガー王が、彫刻のように美しいものの近づき難い雰囲気を纏っているのに対し、母親に似たのか、クリス王子は、顔立ちは整っているものの柔らかな雰囲気と魅力的な澄んだ緑の瞳を持っていた。
私は当時、亡くなった父の跡を継ぎ、女王になって一年、十九歳だった。
私には十二歳年下の弟トマスがいて、王である父が亡くなった後、臣下たちは、トマスを王にしようとする者たちと私を女王にしようとする者たちに分かれた。私は望まずとも弟と争うことになったのだ。
王女だった時は従っていた者たちが、私の命を狙った。トマスはまだ幼くて何も分からない。彼らはトマスを傀儡にしたいだけだった。私は自分を支持する者たちと一緒に戦うしかなかった。結果、私は勝利し、女王となった。トマスの臣下は皆殺しにされ、トマスだけは私の命で死を免れた。そのトマスは二ヶ月後何者かによって毒殺された。
誰も信じられない。信じてはいけない。
自国の混乱と、それに乗じて我が国を狙うエドガー王の思惑、二つが私を悩ませた。
なんとしても国を守らなければならない。私には過ぎた役目を担ったことで、私はいつも多忙だった。父を亡くした悲しみと女王でいる孤独には気付かぬふりをした。隙を見せないように振る舞っていたけれど、心の中は恐怖と猜疑心でいっぱいだった。もちろんエドガー王の存在は疎ましい。けれど、臣下が信じられないことの方が苦痛だった。
クリスが連れて来られたのはそんな時だった。
「陛下。僕は楽器を演奏するのが好きなのです」
クリス王子は邪気のない笑顔で話しかけてきた。エドガー王が、
「陛下はハープを上手に弾かれるとか。このクリスはフルートの名手でしてね。ぜひ一緒に演奏するのを聴いてみたいものですな」
と続けた。白々しいことをとは思ったものの、友好関係を築くきっかけになるかもしれないと考えた私は、
「そうですね。演奏会を開くのはいかがでしょう?」
と答えた。
「いいですな。秋など気候もよろしいし最適でしょう。それまでこのクリスを通わせましょう」
エドガー王はその言葉の通りクリス王子を何度か我が国へと派遣した。
楽器の練習をする時だけ、私はクリス王子と二人きりになった。
私は始めクリス王子を警戒した。あのエドガー王の息子だ。
「陛下、音が硬くなっておりますよ」
くすくすと笑いながらクリス王子に言われて、私ははっとした。
「音楽に罪はありません。陛下がご多忙だとは存じておりますが、演奏中には音楽を楽しまれてみてはいかがですか?」
クリス王子は私の目をじっと見つめて言った。
「僕は陛下にとっては敵国の王子。警戒するのも無理ないことだ。でも僕は年の近しい陛下と仲良くなりたいです」
クリス王子の笑顔には嘘がなく、その人柄が表れていた。フルートの音色にも濁りがない。伸びやかで美しい音は私の警戒心を溶かしていった。
「陛下のハープは繊細で美しい。けれど寂しい音がします。……僕に陛下の寂しさが癒せたらいいのに」
クリス王子は三度目に城に来た時、そう言った。
寂しさ。
誰も気付かない私の寂しさ。気付かないようにさせてたのに。自分でも封印していたのに。
私は父が亡くなってから初めて涙を流した。泣けなかった。父を亡くした自分。トマスと戦わなくてはならない自分。トマスを失った自分。どんなに仮面を被ってみせても、本当は強くなんかない。悲しみを我慢して強がっていただけなのだ。
「お辛かったですね。陛下。きっと僕が貴女だったら耐えられないでしょう。僕と二人の時は無理しないで。大丈夫。二人の秘密にするから」
クリス王子は私を抱きとめ、涙を拭った。
私の強がりの仮面はクリス王子にいとも簡単に剥がされてしまった。エドガー王の計略だとしたなら、それは成功したと言えるだろう。
クリス王子は練習に来る度に花を、楽しい話を持ってきた。
「鳥のさえずりを真似てみたんだけれどうまくいかないんだ」
と懸命にフルートを響かせたり、
「踊り子たちがこの前城下町にやってきたんだ」
と言って踊って見せたり。
クリス王子はおおらかで、私を笑わせる才能に長けていた。クリスが来た時だけ、部屋が春の麗らかな日のように暖かくなる。
私たちは心を通わせ、いつしか二人でいる時は互いを「ローラ」「クリス」と呼ぶほどの仲になった。
「ローラ。もうすぐ演奏会の日だね。もうこうして二人で会うことができなくなるのかと思うと僕は胸が潰れそうだ」
「お父上に頼んで、またついて来たらいいのよ」
「それでは二人で会えないよ」
私も悲しく寂しく思っていた。けれど、私は女王でクリスは敵国の王子なのだ。こんな想いは抱いてはいけないと自分の恋心を抑えこんだ。
「ローラ。君は僕が好き? 僕はね、ローラ。君を愛してしまった。君以外との結婚なんて考えられないんだ。僕と一緒になってくれない? 必ず幸せにする」
クリスの言葉は甘い痺れとなって私の全身を貫いた。
クリスはそこまで私のことを。
心が震える。これまで生きてきた中で最も幸せな瞬間だった。
けれど。
「クリス。残念だけれど私たちは結ばれないわ。分かって」
自分の気持ちを伝えることはできなかった。私の言葉にクリスは哀しみを瞳に宿して、私の唇を唇で塞いだ。
「ローラ。それでも僕は君が好きなんだ。どうしようもなく君が好きなんだ。君以外を愛することはない」
私たちの密かな時間は終わりを告げることになる。
お茶を運んできた使用人が口づけを交わしている私たちを見てしまった。そして、私の側近に密告したのだ。
私の側近たちがどんなことを考えたか。
彼らはエドガー王に知られる前にクリスを殺せと言ってきた。クリスとの結婚で我が国がエドガーの国の属国になることは避けなければならないと。
世界で最も愛しい人を殺すなど、私はできないと思った。けれど、彼らは言った。
「国と敵国の王子、どちらが大切かも分からないのですか?!」
「陛下が殺せないのなら、私たちが殺して差し上げましょう」
トマスを殺害した者がこの中にはいる。
私は苦渋の決断をした。
なぜこの時女王の座を下りなかったのか。
クリスを犠牲にしてまで守るような国ではなかったのに。
「僕はいつだって君の味方だ」
そう言ってくれたクリスを私は裏切った。
練習最後の日。
「クリス。今日の焼き菓子は私が作ったの」
「ローラが?! 嬉しいな」
クリスはとても澄んだ目で私を見た。そして、私の手作りの菓子を幸せそうに口にした。菓子に入っていた毒薬は、短時間でクリスの心臓を止めた。我が国の毒は優秀で苦しむ間もなかったはずだ。
クリスは死んだ。何も疑うことなく。
本当にそうだろうか。あの瞳は分かっていてそれを受け入れた目だったのではないか。
「クリス……! ごめんなさい!」
本当に本当に愛していたのに。
それでも結局私は国をとった最低な女だ。
私は毎日後悔をした。クリスは私と利害なしで付き合ってくれたただ一人の人だった。私を女王としてではなく、一人の女性として愛してくれた人だった。そんなクリスを殺してしまった。誰よりも優しくて純粋で愛しい人だったのに。
クリスに会いたくて、会いたくて。自分のしたことの重さに押しつぶされそうになる日々。
私に残ったのは信用のできない臣下たちと、敵国との情勢悪化。戦が始まるのも時間の問題だった。
クリス。貴方がいない世界はこんなにも苦しい。こんなにも寂しい。何も、ない。生きている意味さえ。貴方と一緒に死ねばよかった。
死。それはとても甘美なもののように思えた。クリスのもとへと行ける。
クリスの死から一ヶ月後、私は耐えきれずに服毒した。クリスと同じ毒だった。
結局私は国もクリスもどちらも守れずに死んだのだった。
***
「渚? ちょっと目ヤバいよ!」
愛花が教室に入った私を見るなり言った。
「うん。花粉症かな」
「いやいや、それはどう見ても……」
滅多に動じない莉奈も顔色を変えている。
「ちょ、言うのやめなって」
愛花が莉奈の脇腹をつついた。
「ごめん、心配かけて。大丈夫だから」
「ほんと〜?」
全てを思い出した日の夜、私は涙が枯れるまで泣いた。
私の罪はどうすれば償えるだろう。
分からない。せめて木山君には幸せになってほしい。今更遅いかもしれないけれど、そう願わずにはいられなかった。
木山君は私の顔と名前を覚えてくれて、廊下ですれ違う際には挨拶をしてくれるようになった。ただ、前世の記憶はないらしく、木山君はごく普通の高校一年生のように見えた。
私はどこかでほっとしていた。もし、私がローラであることが木山君に分かったら。木山君がクリスで、私に前世で殺されたことが分かったら。私は木山君と挨拶なんてとても交わせない。
ただひっそりと木山君を見守ることができるならそれでいい。他に多くは望まない。
「ねえ、渚さ、一年生に好きな人いる?」
愛花の言葉に私はびくりと身を凍らせた。
「え? なんで?」
「最近、目で追ってない? 一年男子」
「私もそれ思った。恋したか?」
「そんなんじゃ……」
私は言いかけて、口を噤んだ。説明しても分からない想いだ。
「ちょっといいなと思う男子ができただけ。でもね、告る予定はないから気が付かれたくない」
私は後半の真実だけは伝わるように言った。
「そっか。渚がそう思ってるなら、私は何も言わない」
「でも渚が幸せになればいいと思ってるよ、うちら」
「ありがとう」
私は二人に心から感謝した。
でも。
私が幸せになることなんて許されるんだろうか。
いや、許されない。私はクリスを殺して、国も放棄した。
きっと神は私を許されなかったのだ。だから前世の記憶が戻ったのに違いない。これは私に与えられた罰なのだ。
私は心に痛みを感じながらも木山君をそっと見つめる日々を過ごした。木山君はクリスと違って音楽ではなくサッカーに熱心だった。チームメイトと一緒にボールを懸命に追う姿はかっこいいのにどこか可愛くもあった。味方チームがゴールを決めた時に見せるくしゃくしゃな笑顔はクリスより幼く見えた。幸せそうな木山君の姿に私の心は温かくなり、痛みが和らいだ。
見ているだけでいい。十分だ。
「あ、高崎先輩! こんにちは!」
だからこうして声をかけられた時は勿体無いくらいの幸せをもらえる。
「こんにちは、木山君」
挨拶を返すと、木山君の両側にいた男子たちが木山君の脇腹をつついた。
「誰よ? 先輩って」
「俺、相模っていいま〜す」
「や、やめろよ! 失礼します」
私は木山君に手を振る。
これだけで一日が薔薇色になる。
思えばクリスと一緒に練習した日は両手で数えられるほどの数だった。一時間半二人きりだったから濃密だっただけで。
挨拶を交わすだけの今でもいい。それがずっと続くなら何にも変え難い幸福だ。
でも、神はそれさえも許してはくれなかった。
試験期間の学校からの帰り道。
友人たちと別れて一人になった木山君を見かけて、私は彼の後ろを歩いていた。声をかけたらきっと一緒に帰ってくれるとは思うけれどそれはしなかった。この距離が私にはちょうどいい。学校から電車の駅までの短い時間。至福の時間になるはずだった。
何かが視界を横切り、それがボールだと気づいた時には、それを追うように子供が車道に飛び出した。
クラクションの音が鳴り響く。左側から来ているトラックが目に入った。大きなトラックだった。危ない! と思った時には木山君がその子供に向かって走り出していた。優しいところは前世からちっとも変わっていない。木山君であり、クリスであるあなた。それを目にした私も迷いはなかった。
目前にトラックが迫った時、駆け寄った私は子供と木山君を思い切り突き飛ばした。
瞬間、激しい衝撃と痛みが全身を襲った。
これで良かったのだと思う。今度は私が先に死ねる。あなたを救えて。こんな嬉しいことはない。私の心はいつになく晴れ晴れとしていた。
意識が薄れいく中で、
「高崎先輩!」
と何度も私の名を呼ぶあなたの声がした。
「良かった、あなたが、無事、で……」
私は痛みを堪えて笑顔を作る。
「喋らないで! 救急車を呼びますから!」
あなたの泣きそうな声を聞きながら、私は漠然と自分はもう助からないと感じていた。
「高崎先輩! すぐに救急車来ますからね! あの、運転手さん! 心臓マッサージ手伝ってください!」
「私は……もう、いいの。あなたは、私の分まで、長生き、して、ね」
「?! え……? あ……ああ……!」
急にあなたは頭を抱えて横に振り、何かを思い出すような素振りを見せた。そして私の目を見て言った。
「……ローラ? 高崎先輩は、ローラなの? ローラ、なんだね?!」
懐かしい響きを聞いて私は頷く。あなたが思い出してくれた。それだけでもう十分だと思えた。
私は泣き笑いを浮かべて、
「クリス。私は、前世で、あなたをとらず、国を、とって、しまった。ごめん、なさい」
と言った。声に力が入らない。けれど、伝えないと。
「ローラ……。いいんだよ、そんなこと。僕は君といれただけで幸せだったんだ。君の重荷にはなりたくなかった。ローラは何も悔やむことはないんだ」
目が霞む。私は愛しい人の顔に手を伸ばす。指があなたの頬に触れた。温かい。あなたが生きていることがこんなにも嬉しい。
「クリス。私も、あなたを本当は、愛していたの。あなたが、好きよ。思い出して、くれて、あり、がと……う」
もう目が見えない。意識が遠のく。私はゆっくり目を閉じる。私は今度こそ幸せな永遠の眠りについた。
クリス。次があるのなら、来世で一緒になりましょうね。今度こそ、選択を誤ったりしないから。
クリス。愛してる。永遠にあなたを、あなただけを愛しているわ。何度だってあなたを見つけ出す。そして愛すわ。
了
耳をつんざくような悲鳴があがった。
「ローラ陛下! しっかりしてください! 誰か! 誰かいないの?! 陛下!」
慌てふためく侍女の声を聞きながら私は意識を手放す。私はこの後もう二度と目を覚ますことはない。
ーーーー。
「高崎! 高崎渚!」
タカサキ? 誰? 変わった名前……。
頭を軽く叩かれて、私は目を覚ました。
「高崎! 私の授業中に堂々と居眠りするのはやめなさい。後で職員室に来るように」
「……」
私、死んだんじゃなかったの?
私はぼんやりする頭で辺りを見回す。大勢の若者が同じ服を着て、小さな机についている。ここは……学校。記憶が徐々に戻ってきた。
私はローラ、じゃなくて、そう、この先生が呼ぶ高崎渚だ。ここは高校の教室。
「高崎? どうした。具合でも悪いのか?」
「いえ、すみませんでした。大丈夫です」
椅子を引いて、姿勢を正す。
最近夢見が悪くてよく眠れないせいで、授業中にうとうとしてしまう。
前世というものがあるのだったら、私の見る夢は前世の夢なんだろうと思う。かなり物騒なものだ。私はどうやら自死をしたらしい。理由までは分からない。
「渚、最近授業中よく寝てない? 体調大丈夫?」
授業後、愛花が声をかけてきた。
「うーん、なんか眠いんだよね。春だからかな」
「まあね〜、春は眠いよね〜」
同じくクラスメイトの莉奈が睫毛をいじりながら相槌を打つ。
「でもさ、最近渚、クマヤバいよ?」
「え?! ほんと? パウダーで隠さなきゃ」
トイレでお粉をはたきながら、確かにひどい顔してるなと思った。でも愛花たちには夢のことは言えてないし、言っても信じてもらえる自信がない。
私、なんで自死なんてしたのかな。
夢を見るようになってからずっと消えない疑問。それほど絶望することがあったんだろうか。侍女がいるほど身分が高かった私。今の自分とはかけ離れ過ぎていてその悩みも想像がつかない。
まあ、いいや。所詮、夢。本当に前世かどうかも分からないしね。
お手洗いを出て教室に戻ろうとした時、階段の方から来た男子にぶつかりそうになって、私は避けようとした。けれど、間に合わずにその男子に躓いて転びそうになる。そんな私を抱き止めたのはぶつかった男子だった。
「大丈夫ですか? すみません。気がつかなくて」
同じ学年ではないのかもしれない。見覚えのない男子が私の目を覗き込んでいる。彼の瞳孔に私は吸い込まれるように見入った。
な、何、これ?!
一気に記憶が脳内に溢れてくる。ローラだった私の記憶。
…………。
ああ。全て思い出した。そうか。私は。
「クリス……」
私は彼の名前を呟いていた。
「え? あの、僕は木山、です」
木山と名乗った男子は戸惑うように言った。
「ご、ごめんなさい!」
「いえ。大丈夫、ですか? 泣くほど痛かったですか? 保健室に連れていきましょうか?」
木山君に言われて私は初めて自分が泣いていることに気がついた。恥ずかしい。
「いえ、大丈夫。木山君も授業があるでしょう? ありがとう」
「じゃあ、僕行きます。何かあったら一年三組なんで来てください。えっと、あなたは……」
「私は二年四組高崎です」
「高崎先輩、じゃあ、お大事に」
木山君は一度ペコリと頭を下げると反対側へ歩き出した。
木山君。
クリスとは全く外見が違う。
それでも私には分かった。彼は間違いなくクリスだと。私が前世で愛した人だと。
***
「初めまして、ローラ女王陛下。僕はクリスと申します」
私がクリスに初めて会ったのは、私の城にクリスの父親である敵国の王、エドガーが私との会談にクリスを連れてきたからだった。
エドガー王が、彫刻のように美しいものの近づき難い雰囲気を纏っているのに対し、母親に似たのか、クリス王子は、顔立ちは整っているものの柔らかな雰囲気と魅力的な澄んだ緑の瞳を持っていた。
私は当時、亡くなった父の跡を継ぎ、女王になって一年、十九歳だった。
私には十二歳年下の弟トマスがいて、王である父が亡くなった後、臣下たちは、トマスを王にしようとする者たちと私を女王にしようとする者たちに分かれた。私は望まずとも弟と争うことになったのだ。
王女だった時は従っていた者たちが、私の命を狙った。トマスはまだ幼くて何も分からない。彼らはトマスを傀儡にしたいだけだった。私は自分を支持する者たちと一緒に戦うしかなかった。結果、私は勝利し、女王となった。トマスの臣下は皆殺しにされ、トマスだけは私の命で死を免れた。そのトマスは二ヶ月後何者かによって毒殺された。
誰も信じられない。信じてはいけない。
自国の混乱と、それに乗じて我が国を狙うエドガー王の思惑、二つが私を悩ませた。
なんとしても国を守らなければならない。私には過ぎた役目を担ったことで、私はいつも多忙だった。父を亡くした悲しみと女王でいる孤独には気付かぬふりをした。隙を見せないように振る舞っていたけれど、心の中は恐怖と猜疑心でいっぱいだった。もちろんエドガー王の存在は疎ましい。けれど、臣下が信じられないことの方が苦痛だった。
クリスが連れて来られたのはそんな時だった。
「陛下。僕は楽器を演奏するのが好きなのです」
クリス王子は邪気のない笑顔で話しかけてきた。エドガー王が、
「陛下はハープを上手に弾かれるとか。このクリスはフルートの名手でしてね。ぜひ一緒に演奏するのを聴いてみたいものですな」
と続けた。白々しいことをとは思ったものの、友好関係を築くきっかけになるかもしれないと考えた私は、
「そうですね。演奏会を開くのはいかがでしょう?」
と答えた。
「いいですな。秋など気候もよろしいし最適でしょう。それまでこのクリスを通わせましょう」
エドガー王はその言葉の通りクリス王子を何度か我が国へと派遣した。
楽器の練習をする時だけ、私はクリス王子と二人きりになった。
私は始めクリス王子を警戒した。あのエドガー王の息子だ。
「陛下、音が硬くなっておりますよ」
くすくすと笑いながらクリス王子に言われて、私ははっとした。
「音楽に罪はありません。陛下がご多忙だとは存じておりますが、演奏中には音楽を楽しまれてみてはいかがですか?」
クリス王子は私の目をじっと見つめて言った。
「僕は陛下にとっては敵国の王子。警戒するのも無理ないことだ。でも僕は年の近しい陛下と仲良くなりたいです」
クリス王子の笑顔には嘘がなく、その人柄が表れていた。フルートの音色にも濁りがない。伸びやかで美しい音は私の警戒心を溶かしていった。
「陛下のハープは繊細で美しい。けれど寂しい音がします。……僕に陛下の寂しさが癒せたらいいのに」
クリス王子は三度目に城に来た時、そう言った。
寂しさ。
誰も気付かない私の寂しさ。気付かないようにさせてたのに。自分でも封印していたのに。
私は父が亡くなってから初めて涙を流した。泣けなかった。父を亡くした自分。トマスと戦わなくてはならない自分。トマスを失った自分。どんなに仮面を被ってみせても、本当は強くなんかない。悲しみを我慢して強がっていただけなのだ。
「お辛かったですね。陛下。きっと僕が貴女だったら耐えられないでしょう。僕と二人の時は無理しないで。大丈夫。二人の秘密にするから」
クリス王子は私を抱きとめ、涙を拭った。
私の強がりの仮面はクリス王子にいとも簡単に剥がされてしまった。エドガー王の計略だとしたなら、それは成功したと言えるだろう。
クリス王子は練習に来る度に花を、楽しい話を持ってきた。
「鳥のさえずりを真似てみたんだけれどうまくいかないんだ」
と懸命にフルートを響かせたり、
「踊り子たちがこの前城下町にやってきたんだ」
と言って踊って見せたり。
クリス王子はおおらかで、私を笑わせる才能に長けていた。クリスが来た時だけ、部屋が春の麗らかな日のように暖かくなる。
私たちは心を通わせ、いつしか二人でいる時は互いを「ローラ」「クリス」と呼ぶほどの仲になった。
「ローラ。もうすぐ演奏会の日だね。もうこうして二人で会うことができなくなるのかと思うと僕は胸が潰れそうだ」
「お父上に頼んで、またついて来たらいいのよ」
「それでは二人で会えないよ」
私も悲しく寂しく思っていた。けれど、私は女王でクリスは敵国の王子なのだ。こんな想いは抱いてはいけないと自分の恋心を抑えこんだ。
「ローラ。君は僕が好き? 僕はね、ローラ。君を愛してしまった。君以外との結婚なんて考えられないんだ。僕と一緒になってくれない? 必ず幸せにする」
クリスの言葉は甘い痺れとなって私の全身を貫いた。
クリスはそこまで私のことを。
心が震える。これまで生きてきた中で最も幸せな瞬間だった。
けれど。
「クリス。残念だけれど私たちは結ばれないわ。分かって」
自分の気持ちを伝えることはできなかった。私の言葉にクリスは哀しみを瞳に宿して、私の唇を唇で塞いだ。
「ローラ。それでも僕は君が好きなんだ。どうしようもなく君が好きなんだ。君以外を愛することはない」
私たちの密かな時間は終わりを告げることになる。
お茶を運んできた使用人が口づけを交わしている私たちを見てしまった。そして、私の側近に密告したのだ。
私の側近たちがどんなことを考えたか。
彼らはエドガー王に知られる前にクリスを殺せと言ってきた。クリスとの結婚で我が国がエドガーの国の属国になることは避けなければならないと。
世界で最も愛しい人を殺すなど、私はできないと思った。けれど、彼らは言った。
「国と敵国の王子、どちらが大切かも分からないのですか?!」
「陛下が殺せないのなら、私たちが殺して差し上げましょう」
トマスを殺害した者がこの中にはいる。
私は苦渋の決断をした。
なぜこの時女王の座を下りなかったのか。
クリスを犠牲にしてまで守るような国ではなかったのに。
「僕はいつだって君の味方だ」
そう言ってくれたクリスを私は裏切った。
練習最後の日。
「クリス。今日の焼き菓子は私が作ったの」
「ローラが?! 嬉しいな」
クリスはとても澄んだ目で私を見た。そして、私の手作りの菓子を幸せそうに口にした。菓子に入っていた毒薬は、短時間でクリスの心臓を止めた。我が国の毒は優秀で苦しむ間もなかったはずだ。
クリスは死んだ。何も疑うことなく。
本当にそうだろうか。あの瞳は分かっていてそれを受け入れた目だったのではないか。
「クリス……! ごめんなさい!」
本当に本当に愛していたのに。
それでも結局私は国をとった最低な女だ。
私は毎日後悔をした。クリスは私と利害なしで付き合ってくれたただ一人の人だった。私を女王としてではなく、一人の女性として愛してくれた人だった。そんなクリスを殺してしまった。誰よりも優しくて純粋で愛しい人だったのに。
クリスに会いたくて、会いたくて。自分のしたことの重さに押しつぶされそうになる日々。
私に残ったのは信用のできない臣下たちと、敵国との情勢悪化。戦が始まるのも時間の問題だった。
クリス。貴方がいない世界はこんなにも苦しい。こんなにも寂しい。何も、ない。生きている意味さえ。貴方と一緒に死ねばよかった。
死。それはとても甘美なもののように思えた。クリスのもとへと行ける。
クリスの死から一ヶ月後、私は耐えきれずに服毒した。クリスと同じ毒だった。
結局私は国もクリスもどちらも守れずに死んだのだった。
***
「渚? ちょっと目ヤバいよ!」
愛花が教室に入った私を見るなり言った。
「うん。花粉症かな」
「いやいや、それはどう見ても……」
滅多に動じない莉奈も顔色を変えている。
「ちょ、言うのやめなって」
愛花が莉奈の脇腹をつついた。
「ごめん、心配かけて。大丈夫だから」
「ほんと〜?」
全てを思い出した日の夜、私は涙が枯れるまで泣いた。
私の罪はどうすれば償えるだろう。
分からない。せめて木山君には幸せになってほしい。今更遅いかもしれないけれど、そう願わずにはいられなかった。
木山君は私の顔と名前を覚えてくれて、廊下ですれ違う際には挨拶をしてくれるようになった。ただ、前世の記憶はないらしく、木山君はごく普通の高校一年生のように見えた。
私はどこかでほっとしていた。もし、私がローラであることが木山君に分かったら。木山君がクリスで、私に前世で殺されたことが分かったら。私は木山君と挨拶なんてとても交わせない。
ただひっそりと木山君を見守ることができるならそれでいい。他に多くは望まない。
「ねえ、渚さ、一年生に好きな人いる?」
愛花の言葉に私はびくりと身を凍らせた。
「え? なんで?」
「最近、目で追ってない? 一年男子」
「私もそれ思った。恋したか?」
「そんなんじゃ……」
私は言いかけて、口を噤んだ。説明しても分からない想いだ。
「ちょっといいなと思う男子ができただけ。でもね、告る予定はないから気が付かれたくない」
私は後半の真実だけは伝わるように言った。
「そっか。渚がそう思ってるなら、私は何も言わない」
「でも渚が幸せになればいいと思ってるよ、うちら」
「ありがとう」
私は二人に心から感謝した。
でも。
私が幸せになることなんて許されるんだろうか。
いや、許されない。私はクリスを殺して、国も放棄した。
きっと神は私を許されなかったのだ。だから前世の記憶が戻ったのに違いない。これは私に与えられた罰なのだ。
私は心に痛みを感じながらも木山君をそっと見つめる日々を過ごした。木山君はクリスと違って音楽ではなくサッカーに熱心だった。チームメイトと一緒にボールを懸命に追う姿はかっこいいのにどこか可愛くもあった。味方チームがゴールを決めた時に見せるくしゃくしゃな笑顔はクリスより幼く見えた。幸せそうな木山君の姿に私の心は温かくなり、痛みが和らいだ。
見ているだけでいい。十分だ。
「あ、高崎先輩! こんにちは!」
だからこうして声をかけられた時は勿体無いくらいの幸せをもらえる。
「こんにちは、木山君」
挨拶を返すと、木山君の両側にいた男子たちが木山君の脇腹をつついた。
「誰よ? 先輩って」
「俺、相模っていいま〜す」
「や、やめろよ! 失礼します」
私は木山君に手を振る。
これだけで一日が薔薇色になる。
思えばクリスと一緒に練習した日は両手で数えられるほどの数だった。一時間半二人きりだったから濃密だっただけで。
挨拶を交わすだけの今でもいい。それがずっと続くなら何にも変え難い幸福だ。
でも、神はそれさえも許してはくれなかった。
試験期間の学校からの帰り道。
友人たちと別れて一人になった木山君を見かけて、私は彼の後ろを歩いていた。声をかけたらきっと一緒に帰ってくれるとは思うけれどそれはしなかった。この距離が私にはちょうどいい。学校から電車の駅までの短い時間。至福の時間になるはずだった。
何かが視界を横切り、それがボールだと気づいた時には、それを追うように子供が車道に飛び出した。
クラクションの音が鳴り響く。左側から来ているトラックが目に入った。大きなトラックだった。危ない! と思った時には木山君がその子供に向かって走り出していた。優しいところは前世からちっとも変わっていない。木山君であり、クリスであるあなた。それを目にした私も迷いはなかった。
目前にトラックが迫った時、駆け寄った私は子供と木山君を思い切り突き飛ばした。
瞬間、激しい衝撃と痛みが全身を襲った。
これで良かったのだと思う。今度は私が先に死ねる。あなたを救えて。こんな嬉しいことはない。私の心はいつになく晴れ晴れとしていた。
意識が薄れいく中で、
「高崎先輩!」
と何度も私の名を呼ぶあなたの声がした。
「良かった、あなたが、無事、で……」
私は痛みを堪えて笑顔を作る。
「喋らないで! 救急車を呼びますから!」
あなたの泣きそうな声を聞きながら、私は漠然と自分はもう助からないと感じていた。
「高崎先輩! すぐに救急車来ますからね! あの、運転手さん! 心臓マッサージ手伝ってください!」
「私は……もう、いいの。あなたは、私の分まで、長生き、して、ね」
「?! え……? あ……ああ……!」
急にあなたは頭を抱えて横に振り、何かを思い出すような素振りを見せた。そして私の目を見て言った。
「……ローラ? 高崎先輩は、ローラなの? ローラ、なんだね?!」
懐かしい響きを聞いて私は頷く。あなたが思い出してくれた。それだけでもう十分だと思えた。
私は泣き笑いを浮かべて、
「クリス。私は、前世で、あなたをとらず、国を、とって、しまった。ごめん、なさい」
と言った。声に力が入らない。けれど、伝えないと。
「ローラ……。いいんだよ、そんなこと。僕は君といれただけで幸せだったんだ。君の重荷にはなりたくなかった。ローラは何も悔やむことはないんだ」
目が霞む。私は愛しい人の顔に手を伸ばす。指があなたの頬に触れた。温かい。あなたが生きていることがこんなにも嬉しい。
「クリス。私も、あなたを本当は、愛していたの。あなたが、好きよ。思い出して、くれて、あり、がと……う」
もう目が見えない。意識が遠のく。私はゆっくり目を閉じる。私は今度こそ幸せな永遠の眠りについた。
クリス。次があるのなら、来世で一緒になりましょうね。今度こそ、選択を誤ったりしないから。
クリス。愛してる。永遠にあなたを、あなただけを愛しているわ。何度だってあなたを見つけ出す。そして愛すわ。
了