姫は寝所につくと、暗い天蓋を眺めていた。今夜も隣の部屋に王がいる気配はない。仮面の王とは一度会ったきりだ、声すら聞いたことがない。今夜も、いったいどこにいるというのか。

 嫁いできたその日に只者ではない門番に出会った。あのような門番でさえ、走る馬車の窓に正確に石を当ててきた。あの、おもちゃのようなパチンコで。国に仕える者のすべてが、とんでもない戦闘技術持っているとしたら、この国との全面戦争は無理だ。オストニアは勝てない。王を屠り、内戦に乗じるしかない。その見立ては正しいのだろう。

 なかなか眠りに就けないまま、姫は自分の出自のことを思い出していた、あの門番と話しをしたせいだ。

 姫は、オストニア王と侍女との間にできた子供だった。王位継承権は正妃の産んだ妹にある。身分は低くとも辛くはなかった。父と母の愛があったから。父は、身分の低い母のことを間違いなく愛していた。そして、姫のことも。オストニアは平和だった。あの忌まわしい悪魔が現れるまでは。
 姫の母国は今、悪魔に支配されつつあった。ある日どこかから現れた悪魔は国民の生命を盾に取り、父をあやっている。悪魔の力で国は大きくなったが悪魔に怯える暮らしはけして楽ではない。この国も同じだ。残忍な王は恐怖で人々を支配していると聞く。
 悪魔がチェントロの新王を殺めるべく妃を送り込むと言い始めたとき、手を挙げたのは自分からだ。自分は間違いなくオストニア王の血をひいている、ならば駒になれるはずだと。
 そうでなければ、王妃から生まれた妹が嫁がされることろだった。妹の手を、汚したくない。

 必ず王を屠ってみせる。出来なければ、きっと母が殺される。自分はどうなっても良い。父や母に守られ十分生きたと、覚悟を決めてきた。

 迷いはない。

 唇をぎゅっと噛みしめて、姫は固く目をつむった。なかなかやってこない眠気を待ちながら、姫は長い夜を一人で過ごした。

 数日後、姫の部屋に手紙が投げ込まれた。

『今夜、王は自室に帰る』

 そう小さな文字で書かれている。

 今夜、私は王を屠る。悪魔は戦争の準備をしているはずだ、この国が統制を失えばすぐに攻め込めるように。

 その夜、姫は隣の寝室の扉を開けた。キィと微かな音を立てて扉が開く。中の明かりはすっかり消えていた。ベッドの中には恐らく王がいる。

 姫は両手でしっかりとナイフを握ると、ベッドの上に音もなく飛び乗った。

そして――

 王の胸にナイフを突き立てようとした瞬間、世界が反転する。両の手首を掴まれて、ベッドに押し付けられた。

 目の前に、仮面の男がいる。

「その程度で暗殺のつもりかステイラ姫」

 姫は必死で抵抗し、片手の自由を得るとナイフを顔に振り下ろす。
 キィンと耳障りな金属音がして、仮面がコトリとベッドの上に落ちた。

「あなたは……」

 その男の顔には火傷などなく、隻眼でもなかった。姫の知る男――王の居場所を教えるよう命じ、手紙を放ったその人物。

「門番……どうして、王をどこにやったの!」
「本当に威勢のいいお姫様だ。見ての通りさ、王なんてどこにもいない。突如この国にやってきてクーデターを起こした暴君など、初めから存在しないんだよ」
「まさか……あなたが……!」
「そう、俺がこの国の王様。誰も門番の腑抜けた男が残忍な王様の皮を被っているとは思うまい?」
「信じられない、自分を殺そうとしている相手に、わざわざ居場所を……」

 いや、逆ではないか――私が愚かだったのだ、協力者選びを間違えた。この男は、このまま私を亡き者にするつもりだ、今まで屠られてきた、花嫁のように――!

「そんな顔をするな、なにも君を殺すつもりはない」
「ですが、今までの花嫁は……」

 姫の言葉に、王――いや、ネロは少し困ったような表情になってから口を開いた。

「過剰なくらいの悪評が必要だったのだ。王は残忍だと、逆らうものは容赦しないと――。だから、実際に目立つ人物の首を落としてきた。民の税を、己の私腹を肥やすために使っていた者たちを処分した。隣国との戦いでもそうだ、過度な威嚇を派手に行ってきた。この国に歯向かえば明日はないと。見ての通り本来の俺には大きな力はない。あの日……それこそ悪魔の力を手に入れるまでは。力はいつ失われるかわからない。だから、国を収めるにはそれなりのハッタリが必要だったんだ」

 ナイフを突きつけてくる姫に、ネロは静かに語っていく。どうやって架空の王様を作り上げたのか、そして、花嫁たちはどうなったのか……。

「初めに俺のところに娘を差し出してきたのは北の国だった、資源の少ない土地だ、婚姻によって豊かなこの国から資源を搾り取ろうとしたのだろう。俺は何度も断った。国の中は落ち着いておらず、妃をもらったところで命の保証もしてやれない。だが姫はきた。鉄格子のはまった馬車に乗ってな。姫も嫌々嫁いできたんだ。顔もわからない残忍な王に、誰が好んで嫁ぐものか」
「その姫は……?」
「この国に来て三日目の朝、侍女が部屋を覗くと姫は自ら命を絶っていた。姫が死んだ――俺はその事実を利用することにした。北の国も端から平和的な協力などするつもりはなかったのだ。姫は自刃するつもりで来たのだろう。その死を理由に戦争を仕掛けるつもりだった。望み通り、北の国は武力で制圧したさ」
「つ、次の姫は……」
「その後は南の国の姫が嫁いできた、その姫は他に好きな男がいて――俺はその姫が死んだことにした。幻覚を見せることくらい、悪魔の力を使えば簡単なことだ。今頃忍んで迎えに来た男と仲良くやっている。噂が噂を呼んだ、雪だるま式に膨らんで、ありもしないことがどんどん噂されるようになった」
「王は、嫁いできた姫を次々と惨殺している……」

 姫の言葉に、ネロは深く頷く。

「噂では俺は何人も嫁を娶っていることになっているが、実際に嫁いで来たのは君で三人目だ。噂ほどいい加減で、役に立つものはない」

 ネロは自嘲気味に笑った。始めてしまったハッタリは、あまりに大きくなりすぎて、ネロの手には負えなくなってきている。噂が国を収めていると言っていい状況だった。

 逆らうと王に殺される――その恐怖心が、ネロの手を離れて国中を支配している。

「俺には門番くらいが性に合っているんだ、でも、この国を守るために虚像の王はいなくなるわけにはいかない。だから、今はまだ君に殺されてやるわけにはいかない。君が望むなら、逃がしてやる」
「私は……」

 姫は情報を整理することに必死だった。自分が聞き及んできた王と、全く異なるネロの話しに、決めてきた覚悟が揺らいでしまう。王と差し違えるつもりで、自分はこの国にやってきたというのに。この人なら……。姫は深く頭を下げた。

「助けてください」

 姫の口からこぼれ落ちたのは自分でも思いもよらぬものだった。

「オストニアは悪魔に支配されています。悪魔を殺すために、力を貸してください」
「どういうことだ」

 姫は自国の現状をネロに話した。悪魔に怯えて暮らす人々のことを。

「悪魔か……なるほどな。俺が力を貸すといったら、君は何を懸ける」
「命を懸けます。私は死んでもかまいません、どうか救ってくださいオストニアを」

 姫は持っていたナイフを自分の胸に当てた。ぐっと力を込めると、薄い衣服を切り裂き、白い肌に刃が触れる。チクリ――と痛みがした。

 姫の行動に、ネロは驚いたように息を呑んだ。   

「ステイラ……オストニアの言葉で星といったか。なるほど、名は体を現すか……こんな暗闇でも眩しいほどだ」

 ネロは小さくこぼすと、口角を持ち上げた。

「いいだろう。だが勘違いするな、俺が動くのはこの国ため」

 ネロはベッドから離れ月明かりの差し込む窓辺に立つ。

「君が嫁いできた日のことを覚えているか? あのとき、悪魔はおまえを乗せた馬車についてきていた。小さな羽虫の姿になって」

 ネロの言葉を聞いた姫は、驚きのあまり言葉を失った。

「だから俺は石を投げた。鐘の音に紛れて低い獣の鳴き声が聞こえたろう? あれは悪魔の断末魔の声だ」
「それで馬車の窓を……」
「悪魔は君についてこの国を内側から乗っ取るつもりだったのだろう。そんなことは許せない」

 信じられない。あの悪魔を石ころ一つで消してしまったというのだ。そんなことが、できるものか。今まで誰も倒すことが出来なかったというのに……!

「信じられないか? だが俺には出来た、いや、俺にしか出来なかったのさ。俺にしか悪魔と同じ力はないのだから。ステイラ、自分の目で見てこい。悪魔のいなくなった祖国を、それでもこの国に嫁いでくるというのなら俺は歓迎する」

 ただ……と、ネロは続ける。

「きっとその時俺はもう王じゃない。ただの門番さ。それでもいいなら」

 その夜、三人目のお妃様が亡くなった。噂は瞬く間に轟き、人々は新たな犠牲を悼んだ。


 三年後、ネロは相変わらず塀の上で寝転がっていた。

「ネロ! またそんなところでサボって! せっかく急いで交代に来てあげたのに」
「あのなぁビアンカ、俺はサボってなんかない。ちゃんと門は守ってる。ネズミ一匹許可なく通しちゃいない」
「態度の問題だよ!」
「つっても残忍な王様はもうどこにもいないんだからさ」
「本当に、どこに行っちゃったんだろうね、王様」
 
 オストニアの姫が亡くなったあと、どうしたことかすぐにオストニアとチェントロの間で同盟が結ばれた。
 その後王は国を国民の手に委ね、あとかたもなく姿を消した。

「さあな。端からいなかったようなものだろ?」
「その影響力は絶大だったよ。王様には幸せになってほしいなぁ」
「どうだか」

 ビアンカの言葉にネロは曖昧な笑みを浮かべる。

 ネロは、クーデターの最中不思議な力を手に入れた。父を失ったとき、悪魔が語りかけてきたのだ。「国を統べる力が欲しいかと」、ネロは悪魔に目をつけられたのだ。ネロは迷わず力を手に入れた、その力を使って王となった。そして、姫の馬車に付いていた悪魔を倒したとき、自分の中にあった力も薄れていくのを感じていた。頭の中に断末魔の声が響いたのだ。

 悪魔にとって、ネロが自分の言いなりにならなかったことは計算外のことだったのだろう。ネロはその類まれなる精神力で悪魔をねじ伏せていた。

 悪魔は最終的にオストニアとチェントロを一つにし、その全てを恐怖で支配するつもりだったのだろう。ネロの手によってその計画は阻まれた。

 取り憑いた相手が悪かったなと、ネロは思う。悪魔はネロを操ることはできなかった。

「俺はそろそろ帰るよ」
「可愛い奥さんが待ってるもんねぇ。まさか君が結婚するとは思わなかったよ、それもオストニアの女の子と。どこで知り合ったんだい?」
「別に俺が誰と結婚しようが文句ないだろ」
「ないない。そういえば、君の奥さん、ステイラっていうよね、以前王様に嫁いできたお姫様もたしかそんな名前だったよね……」

 ビアンカは弔うような瞳で空を見た。亡くなったオストニアの姫のことを思い出しているのだろう。

「オストニアに多い名前なのかな」
「さあな、今度本人に聞いてみな」
「じゃあ僕たちが非番の日に遊びに行くね!」

 ビアンカと交代したネロは自宅へと戻った。ネムノキの下に建つこじんまりとした家の煙突から、白い煙が立ち上っている。

「お帰りなさい」

 星のような青い瞳がネロを迎える。この瞳を見て、ネロは一目で恋に落ちた。

 あの夜、祖国に帰った彼女は再びチェントロに嫁いできた。王ではなく、門番であるネロのもとに。
 二人は再び夫婦になった。国のためではなく、互いに想い合って。
 
「ただいまステイラ」