夏の終わりを告げるような冷たい夜風が吹き抜ける。波の音が一瞬消えたように感じた。千尋は語り出す。夢だった企業の内定を親に辞退させられたこと。卒業後に政略結婚させられること。そういう自由のない家庭に育ったこと。サークルの会長にだけ、「内定先の企業に呼び出しをくらった」と嘘をついて、明日の早朝みんなが起きる前に帰ると伝えてあること。二度と家に戻るつもりはないこと。合宿所を出たら、その足で空港に向かうこと。
 少女のままで自由になれないのならば、一人で生きるしかない。大人になる決意をした彼女は一足早く夏休みを終える。
 飼い殺しにされた少女は、「自由」に向けて必死に手を伸ばしていたのだ。幼い僕が「普通」を渇望していたように。
 彼女には時間がないのだから、仕方がないとは分かっていた。現代のお姫様と僕は住む世界が違うのだから。理不尽な境遇へあらがいたくなる気持ちも理解できた。でも、むなしくてしょうがなかった。

「誰でもよかったのかよ」

 恋人ごっこの相手は僕じゃなくてもよかったのだ。絡めた指があんなにも愛おしかったのに。夢中になってキスをしていた僕は滑稽な道化師だ。一人で舞い上がって恥ずかしかった。

「僕は本気で千尋のことがずっと好きだったのに」

 泣きそうになる。目に潮風がしみる。顔を見られたくなくて、千尋に背を向けた。後ろから、千尋の声がする。

「千夜一夜物語って知ってる?」

「アラビアン・ナイトのこと?」

 王妃シェヘラザードがアラビアの王様に毎晩物語を語る。千夜の果てに、王様は愛を知る。そんな話だったと思う。結局僕は、どんなに弄ばれても、気まぐれなお姫様を嫌いになれない。このシリアスな状況で突然、ふざけたおとぎ話の話題をふられたって怒れない。

「シェヘラザードは政略結婚だったけど、私は物語を伝える相手は自分で選ぶよ」

 それは、僕を意図的に選んでくれたということだろうか。そんなことを言われたら、僕は単純だから、きっと何度だって勘違いしてしまう。もう一度、期待してもいいのだろうか。

「あるところに、女の子がいました。女の子は青い右目と、黒い左目をしていました」

 季節をフライングした鈴虫の声が遠くでかすかに聞こえた。最後の夏が僕たちの手からこぼれ落ちる音をBGMに千尋は語り続ける。

「女の子は、自分と同じ色の目をした男の子を見つけました。その人を運命の人だと思ったのです」

千尋が僕の両手を包みこむように握った。

「千尋、君は・・・・・・」

「そうだよ。私“も”あるんだ。共感覚」