最近行きつけの店ができた。



 初めて店の広告を見た時、正直、胡散臭いとしか思えなかった。

「貴方の見た夢、消します」

 とだけ書いてあったからだ。

 それなのになぜ僕がその店に通うようになったのかというと、僕が毎日何本もの夢を見て、しかも夢の内容を覚えてしまう人間だからだった。翌朝目が覚めると、いい夢ならともかく、嫌な夢だった場合その夢が頭から離れず、一日中気分が悪い。

 それだけではない。

 僕の夢はたまに現実になる。だから、嫌な夢を見ると、「この夢は正夢ではないだろうか?」と何日も悶々と悩まされる。
 あまりにも酷い夢の場合、現実と夢が重なり、仕事が手につかなくなることもある。

 そんな状態だから、胡散臭いとは思いつつも藁にもすがる思いでその店を訪れたのだった。


***


 広告の地図を頼りに行くと、小さな古い家があった。
 扉を開けるとカランと喫茶店のようなベルの音がした。

 シンプルな内装の部屋は落ち着いた感じで好ましかった。クリーム色の壁。床には深い緑のカーペットが敷いてあって、その上に革張りの茶色いリクライニングチェアと小さな丸い木のテーブルが置いてある。
 何の香だろうか? 懐かしいような落ち着く香りがした。

 女性の店員が一人だけいて、深々と頭を下げ、

「いらっしゃいませ」

 と言って迎えた。柔らかな声だった。

 声の印象はあるのに、店を出るとその店員の顔が思い出せない。 
 髪を後ろで一つに結んでいただろうか。

「何日分の夢を消されますか?」
「何日分?」
「はい。お望みの分の夢を消します」

 僕は半信半疑で、

「では、昨夜の分を」

 と答えた。

 昨夜は特に気になる夢ではなかったが、試すには丁度いいだろう。

「わかりました。そちらの椅子におかけください」

 僕は案内された通りにリクライニングチェアに体を預けた。沈み具合が丁度いい。店員の女性は僕の傍らにしゃがんで、僕の手を優しくとった。

「少々お時間いただきます」

 彼女の言葉に僕は頷いただろうか? 覚えていない。僕の記憶はそこで途切れ、今まで味わったことのないような深い眠りに落ちた。


「お客様」

 聞き覚えのある柔らかな声に、僕は目を覚ました。頭がすっきりしていた。よく眠れる人はこのように目覚めるのだろうか。

 辺りを見回し、自分がどこにいるか思い出した。さっそく昨夜の夢を思い出そうとしてみる。

「あれ?」

 全く思い出せなかった。三本立ての夢だったことは覚えているが、内容が全く分からない。綺麗に消えていた。
 不思議な感覚。

「お疲れさまでした」

 店員の女性がまた深々と頭を下げた。


 莫大な金額を取られるかと覚悟していたのだが、かなり良心的な値段に胸を撫で下ろして支払った。

 夢が消えたのは僕にとっては本当にありがたく、何よりゆっくり寝た後のような感覚にかなり癒された。


 無駄な会話は一切ない。ただ、時間が少し経っているだけ。
 怪しむべきかもしれない。現実では考えられないようなひと時だ。 
 だが、彼女の手の温かさと、与えられる不思議な安心感に、彼女を信用している僕がいた。



 僕は週に一、二度この店、「バクの家」に通うようになった。毎日通いたいぐらいだが、残念ながらそんなに暇ではない。
 ノー残業デーの日と、予定のない土曜日の午前の時間を僕は待ち望むようになった。


***


 夢を消してもらうようになり、安心感から酷い夢は見なくなっていた頃、久しぶりに気になる夢を見て、僕ははっと目を覚ました。

 夢の中で僕はあの女性定員に告白をしていた。
 そして残念ながら振られた。

 それだけなのだが、心が晴れない。

 定員の女性の顔はやはり思い出せなかった。けれど、彼女の柔らかな声と温かい手のぬくもりが鮮明に蘇り、僕の心臓が不自然な音をたてた。
 夢でも彼女に振られたことが切なかった。本当に振られたわけではないのに、胸が痛んだ。

 僕は彼女を好きになってしまったのだろうか。



 その日はノー残業デーだったので、日曜から昨日までの夢を消しに行くことにした。

 それにしても。
 彼女はどうやって僕の夢を消しているのだろう。

 「バクの家」には機械や装置があるわけではない。何度訪れてもリクライニングチェアと丸いテーブルがあるだけだ。

 彼女自身の能力なのだろうか?
 超能力? 催眠術の一種?

 彼女が夢を消すとき、その内容は彼女に伝わっているのだろうか?

 僕は昨夜の夢が彼女に伝わるのなら恥ずかしいとさすがに思ったが、覚えているとますます彼女のことが気になってしまう。意識してしまう。

 僕は考えた末にやはり消してもらうことにしたのだった。


***


「いらっしゃいませ」

 いつもと変わらぬ彼女が僕を出迎える。
 相変わらず心地よい香りが漂っている。アロマオイルか何かだろうか。何の精油か後で訊いてみよう。

 殺風景とさえ言えそうなシンプルなつくりなのに、やはり落ち着く。

 僕はいつものようにリクライニングチェアに身体を預け、そして、彼女の手のぬくもりを感じながら眠りに落ちた。

 その日、帰る時に見た彼女の顔はどこか悲しげだったような気がする。

 なぜだろう。


***


 はあっ!

「バクの家」に通うようになって半年ぐらい経っただろうか。その日は久しぶりに悪い夢を見て、僕は息苦しくなってがばりと身を起こした。

 頬が温かいもので濡れていた。僕は泣いていたのだ。
 夢なのに、心が音を立てて壊れるような、いやな感覚。
 珍しく夢の内容はぼんやりとしか覚えていない。けれど悲しい悲しい夢だった。
 その日は仕事が手につかなかった。


 あの店に行こう。

 僕は残業もほどほどに「バクの家」に行った。


「いらっしゃいませ」

 いつもより遅い時間であったのに、店は開いていた。

 そして変わらず彼女は僕を迎える。
 その表情が少し曇った。

「夢を消してください」
「了解しました」

 ーー

「お客様」

 聞き慣れた彼女の声に目を覚ますと、彼女がそばでいつものように微笑んでいた。

 そう、微笑んでいたのに。彼女の目にはみるみる涙がたまり、はらはらと頬を伝って落ちていく。

「え……」

 僕は動揺した。彼女の涙は清らかで穢れのないもののように美しかった。

「申し訳ございません」

 彼女は慌てたように僕に背を向けた。

 僕は思った。やはり彼女には夢の内容が見えているのではないかと。僕が夢の内容を忘れるとき、彼女はその夢を見てしまうに違いない。

 僕は何とも言えない気持ちに襲われた。
 彼女を抱きしめたい。
 僕が与えてしまったのかもしれない悲しみを癒したい。

「好きです。付き合ってください」

 気が付くと、僕はそう言葉にしていた。

 驚いたような彼女の瞳が僕を捕らえた。その目からまた真珠のような涙がこぼれる。

「……」

 彼女は悲し気にうつむいてしまった。

 僕の想いは負担なのだろうか。
 そうならば彼女を悲しませてはいけない。
 僕が口を開こうとすると、彼女は一度目を閉じて決心をするように僕を見つめた。

「貴方様の気持ちはとても嬉しく思います。でも、申し訳ございません。お受けすることはできません」

「そうですか……。すみません。そんな顔をさせたくて告白したのではないのです。泣いている貴女を助けたいと、力になりたいと、そう思ってしまったのです」

 僕は心が痛んだけれど、懸命に笑顔を作ってそう返した。すると彼女は嫌々をするように首を何度も横に振った。

「違うのです。貴方様の気持ちは本当に嬉しいのです。ただ、私は、人間ではないのです」
「え?」

 僕は彼女の言葉に思わずぽかんと口を開けてしまった。

「私は夢喰いでございます」
「夢喰い……」
「貴方様のように悩んでいる方の力になれればと思ってこの店を開いておりました。でも正体を知られたからにはもうここにはいられません」
「そんな……! 僕は貴女が人間でなくても……」

 彼女は再び首を振ると、徐々に姿を変えていった。そして小さなバクの形をとった。つぶらな目が僕を見ていた。

「私の真の姿はこちらです」

 僕は何も言えなくなってしまった。

 彼女はもう一度人間の形に戻ると、僕の手を取った。

「さようなら」

 彼女の柔らかな声を聞いたか聞かなかったか。僕は彼女の手の温かさを感じながら眠りに落ちていった。


 気が付くと、僕は空き家の前に立っていた。

 彼女の手の温もりはまだ覚えているのに。彼女も「バクの家」もきれいさっぱり消えてしまっていた。
 彼女はもう僕の前には現れないだろう。
 僕の心がカシャンと音をたてて壊れた気がした。



 その後、僕は夢を見なくなった。



 彼女が持って行ってくれたのか。それはわからない。

 夢は見なくなったが、心にぽっかりと穴が開いたようだ。

 夢でもいい。彼女に会いたい。

 彼女がバクの姿になったとき、なぜ何も声をかけることができなかったのだろう。受け入れることができなかったのだろう。後悔の念がじわじわと広がる。

 彼女はまたどこかで夢を消しているのだろうか。

 彼女にはせめて優しい夢を喰べて欲しい。

 僕には祈ることしかできない。

 もう彼女が涙を流すようなことがありませんように。


          了